第二十一話
事務所を出てからのトマリは、ずっと周囲に気を配っていた。もっと正確に言えば、警戒していた。それをひしひしとルナーは感じていた。しかし、ルナーにはどうすることもできない。
なぜなら、ルナーはルナー自身の抱える問題で手一杯だからだ。
自分でエイラが生きていないに気付いて、自分でトマリに告げた。しかしそれは、トマリが隠そうとしたから反射的に言ってしまっただけだ。
混乱していないとか、事実を受け入れたとか、そんなんじゃ全くない。
頭は混乱しっぱなしで、今も、その場にへたりこんで荒れ狂う感情を吐露してしまいたいのを我慢し続けている。
何故……?
ずっとエイラの気配は人間のものだった。操られている時も。朝、目が覚めた時も。
人間じゃ――生き物じゃないと気付いたのは、扉が封印されて、それが解けた後。
……では、扉が封印されている間に、何が起こった?
トマリはエイラの中にある魔力を取り除いたと言った。
それは本当か? 真実と言えるか? ――嘘だったら? だが、トマリがそんな嘘をつく理由がない。しかも、エイラがもともと人間だったのを、人形に変える方法なんてあるのか? 逆に、人形を人間だと思わせる方法は?
なんにせよ、自分は答えを持っていない以上、いくら考えても無駄だ。
トマリに対してわだかまるものはあるが、今はついて行くしかない。
今トマリは、ルナーの絶対の信頼を自らの言葉によって失おうとしていた。
地下道は暗く、手を引かれるままに俯きがちに歩いたためもあって、ルナーは道をまったく覚えていない。どの方角へどれだけ歩いたのか、さっぱり分からないが、途中何度も角を曲がったし、まっすぐ進む途中にも、何本も脇へ逸れる道があったことから、地下道と言うよりは地下迷宮と言った方が正しいのかもしれない。
どれだけ歩いただろうか、疲れはじめてだんだんと脈が速くなり、呼吸も荒くなってきた頃、突然トマリは止まった。
「……トマリ?」
声をかけても、まるで聞こえていない様子で、じっと周囲に気を配っている。やがて気が済んだのか、急に振り返って言った。
「……ルナーリア。僕は、君にどんな小さなことでも思い悩んでほしくないし、つらい思いも一切してほしくないって思ってる」
いつになくまじめな顔で『ルナーリア』と呼び、真摯な声音で言う。
そのことに、一瞬どきっとしたが、すぐに気を取り直して言い返そうとする。
「だから、私はそんなの……っ」
それも遮ってトマリは言う。
「分かってる。君は隠してほしくないと言った。だから隠さない、もう。エイラさんのことも――他にも、言わなくちゃならないことがある。でも、それを聞けば、君は絶対につらい思いをする……よく考えて? 意地とか張らずに、考えてほしい。君は『あの人』がまた君を奪いに来るかもしれないと知った時、とても怯えた。その時、何を思ったかよく思い出してから僕の訊くことに答えてほしい……いいね?」
脅すような鋭い視線に、自然に身が硬くなる。そんなに時間は空いていないはずなのに、ずっと、ずっと遠いことのような気がする。……『あの人』を、自分の実の祖父を思い出して恐怖したこと。――不覚にも、声を上げて泣いてしまったこと。
背筋を蛇が這い回るような悪寒が襲う。全身の毛穴が開くような恐怖。それは、長い年月をかけて、自らを恐怖するように、自らに決して背かぬようにと『あの人』が施してきた暗示。
「ああ……分かった」
ひたひたと静かに自分を襲い、いつの間にか闇へ引きずり込まれてしまいそうな恐怖に身を浸しながらも、うなずく。全身が震えるのは抑えられなかった。
「うん……じゃあ聞くけど、そんな思いをすることが分かってても、すべてを知りたい?」
それは、思ってもみない問いだった。その問いはつまり、トマリの持っている答えはルナーをそういう思いにさせるということだ。
「…………」
さすがに言葉に詰まる。
トマリはさっきからずっと厳しい表情のまま、ルナーをまっすぐに見据えて動かない。きっと半端な答えを返せば、ダメ出しされるだろう。
ルナーは揺らいだ顔を俯けた。
だが、いくら考えても、ルナーの答えは一つしかない。知らないよりは知った方がいい。隠されて傷付くよりは、知らされて傷付きたい。
再び上げた顔に、もう揺らぎはない。
「……トマリ、心配ばかりさせて悪い。でも私は、やはりすべてを知りたい。たとえ、どんなにつらくても」
はっきりとしたその言葉を聞いたトマリは苦笑し、一度だけ溜め息をついた。仕方ないね、と言う風に。
「そう言うと思ってた。だから、僕は反対しない。ただ、君に覚悟してほしかっただけだから」
トマリはにっこりと笑った。嬉しそうに。
きっと、躊躇も逡巡もせずにすぐに答えを出していたら、あるいは、怯えて答えを翻していたら、トマリは何も言わずにルナーを見放していただろう。ルナーはそう思った。元々トマリはひどく冷静で、冷たく最も合理的な答えを出せる人間だから。
だから……おかしな話だが、トマリの望む正しい答えを出せたことに、ルナーはほっとしていた。
「じゃあ、上に出ようか?」
トマリは唐突にそう言って、上を指さした。
「ちょうどここを出ると、ファルシコーネの家の前だから。さっ、行こう」
「えっ、ええ!?」
またもやルナーはトマリに手を引かれて連れて行かれるハメになった。