第十六話
トマリは背中を優しくさすりながら言う。
「泣きたい時には、そうやって素直に泣いちゃえばいいんだよ。泣けない分は、それだけストレスになってもっとツラくなるんだから」
「そっ、そんなこと、誰も、教え……ひっく、教えてくれなかった! 泣くのは、弱い人間、だけだって……弱い人間、に……なるなって! それしか、言われなかった。私が、つらいか、どうかなんて、関係ないことだった! そんなこと……誰も顧みて、なんて、くれなかった………!」
嗚咽まじりに言葉が途切れ途切れになりながらも、必死で訴える。その様子は、幼い子供のようだった。普段、実際の年齢よりも大人びているルナーだが、こういうことには他の人間よりも経験がずっと少なかった。
「子供を――人間を育てるって、すごく重い責任を負うことなのに、育てる側の人間は、それを忘れてることが多い……だから、キミみたいにつらい思いをする子供が出る。当たり前のことを解らないまま育ってしまう子供がいっぱいいる。……キミは、そんな風に育てられたってのに、奇跡みたいにいい子だよね〜」
わざとふざけたように軽くそう言うと、
「と、年が、ずっと上、だからって、子供扱い、するな!」
嗚咽混じりで必死に反論してきた。そうやってムキになることこそ、子供らしいのだが。
「ははっ、だって、僕からしたら、キミはまだまだ生まれたばかりのヒヨコだよ」
「大人ぶるなっ! ひっく、だいたい、大人か、子供かなんて、生きた長さじゃ、なくて、中身だろ!」
目を真っ赤にしながらも、だいぶ元気が戻ってきた。
トマリはしみじみと言った。
「……う〜ん、キミってホントにいい子だよな。たしかにそうなんだけどさ、キミはまだ子供でいていいんだよ。素直に思ったことをそのまま言えるようにね。どうせいつかは大人にならなきゃいけないんだから。イヤでもさ。
……って、言っても無理かなぁ。ルナーってプライド高くて意地っ張りだし?」
もう一度笑ってから、今度は一転、静かに抑揚なく呟く。
「中身、か……そういう、感情を抑えるのがうまいのが大人なら、僕はまだまだ子供だな。気持ちを抑えるのは難しいし、抑えようとも思わない……」
なぜか、静かにふつふつと沸く何かをその言葉に感じた。
「理不尽なことや不条理なことを、我慢しなくちゃいけないなんておかしいんだ。親や、親代わりの人間に恐怖を覚えるなんておかしいんだ……キミがこんなに怖い思いをするなんて、絶対におかしいんだ………!」
静かだった口調はだんだん熱を帯び、ルナーを抱く手にも力が入る。
「――トマリ………?」
そろ、と顔を上げて見上げても、トマリの表情を見ることはできない。
「終わったと思ったのに、まだ『あの人』はルナーを苦しめるんだな……今度こそ、再起不能にしてほしいのか」
暗く静かに燃える炎を感じさせる声。
トマリの怒りに触れるには、肌が灼けるのを覚悟しなければならない。そして、怒りを向けられた人間は、想像の限りを尽くした恐怖を覚悟しなければならない。
「とっ、トマリ……! イヤだ――イヤだッ! トマリっ!」
叫ぶようなルナーの声に、ハッとして視線を下に向ける。困惑したルナーの目と出会い、苦笑する。
「……ごめん。怖かった?」
「…………」
トマリの問いにルナーは言葉を返すことができなかった。
ただ困惑の眼差しを向けるルナーに、トマリはもう一度謝った。
「ほんとに、ごめん。自然に出てくる感情に慣れてなくて、ちょい暴走気味かな」
そう言って不思議な笑みを作る。
「…………」
その揺らいだ、蜃気楼のような不安定な笑顔に、心配になって自然に手がトマリの頬に伸びる。触れると、蜃気楼は消えて、違う笑みがトマリの顔に浮かぶ。
トマリは頬に触れる手に、自分の手を重ねて、かみしめるように目を閉じた。
「……大丈夫だよ。なんだか立場が逆だなぁ――キミは、本当に大人だね。自分の痛みよりも他人の痛みにばかり敏感で。それも美徳だけど、今は自分の痛みに敏感になりなよ。自分を癒すことを考えな」
そっと手をはずして、諭すように言う。その言葉にルナーは、
(やっぱり、誰よりも大人なのはお前だよ、トマリ……お前こそ、自分がどれだけ血を流して死にかけても気がつかないじゃないか)
自分はトマリの傷に、気が付けないんじゃないかと不安になる。
そんなルナーに気付かないのか、気付かないふりなのか、少しわざとらしく明るい声で笑う。
「さっ。お腹空いたからご飯にしよう。せっかくのご飯が冷めちゃったよ」
どこまで本気なのか、心底残念そうな顔をする。
「やっぱりさ、何かを食べるってのは、それだけで人に力を与えてくれる。だから、さっき言ったのも馬鹿にしたとか、ふざけたとかじゃなくて、前向きになれる力を補給しようよ、ってこと。昔の偉い人はうまいこと言ったもんだよね〜。『腹が減っては戦はできぬ』って。同じことだよ。戦うための力も、前向きになれる力も、まずは食べなくちゃ湧いてこない。でしょ?」
まるで悟りきったことを言う。
だからルナーも、心配はとりあえず置いておく。考えてもどうにかなるわけではないのだから。だから笑ってみせる。トマリの心配も軽くするために。
「よし。じゃあ冷めたのは温めなおしてくるか。私もさすがに腹減ったけど、もう少し待っててくれよ」
「分かった〜。じゃあ、僕はその間にエイラさんを起こそうかな〜? 昨日のこと覚えてないだろうな〜。ここで寝てること、なんて説明しよう……?」
本気で考え込みながら、口の中でぶつぶつ呟いている。きっと言い訳を考えているのだろう。
それを横目で見ながらルナーは部屋を出て行く。
ついさっき『あの人』の恐怖に怯えていたというのに、今のルナーの心のなかは、思いのほか穏やかで暖かかった。