第十五話
「……ディ、ラン? ……て、あのディラン・レングラートか?」
さっきまでの勢いは空気に溶けてしまったかのように、茫然と肩を落とした。視線はうつろで定まらないまま床のどこかを彷徨う。まるで病人のようである。もしくは麻薬中毒者のトリップ。
こうなるだろうと簡単に予想できた。だから言いたくなかった。
しかし、だからといって、いつかは――しかもそう遠くない未来に――絶対にルナーに知れることも分かっていた。
ならば、選ぶしかなかった。今正直に話して覚悟させるか、傷見たくなさに隠し続けて騙すか――知らせるか、知らせないか。その二択しか用意されていないのだ。
「ルナー……大丈夫か?」
静かに声をかけて顔色を見る。
「そんな……またなのか? また『あの人』は壊すつもりなのか? 私を連れ戻す、ただそれだけのために………!」
絶望的に力無く、譫言のように呟く。答えや慰めを求めたというよりは、心のなかの言葉がただ溢れたのだろう。
トマリは、所在なく膝の上にあるルナーの両の手をそっと握り、ルナーを正面から見据える。
どこか厳しい色を帯びた眼差しだったが、普段決して見せない動揺を、隠すことすらできないルナーを痛ましげにじっと見つめていた。
トマリはふぅ、とひとつ息を吐き出してもう一度声をかける。
「ルナー、ちゃんと落ち着くんだ。怖くても、前を見て……僕は、キミの目の前に――ここにいるんだから」
静かに心に染み入る、優しく諭す声に導かれるようにルナーは顔を上げた。
上げた視線はトマリの力強い視線とぶつかる。トマリは何も言わない。何もしない。ただ注がれる視線に応えるだけ。そんなトマリの、ガラス玉のような水色の眼をじっと見つめるルナー。まるでそこに答えがあると言わんばかりに。
しばらくそんな、無言の問答のような時間を経て。
何かを考え込むようにまた視線を落とすルナー。だが、答えはすぐに出たようで、また顔を上げる。そのとき、ルナーの瞳には、盲目的な恐れはなく、かすかではあったが、強い、星のような光があった。
まだ、震えてはいる。恐ろしいことにも変わりはない。叫びたいくらいだ。喚きたいくらいだ。すべてを忘れ、逃避したいくらいだ。そんな愚かな誘惑をかろうじて抑え込み、ルナーは決然と言った。
「ディランを討つ。目的が何であろうとも関係ない。いや、むしろ『あの人』に雇われてきたならば都合がいい。そうであった場合は、『あの人』の情報を最大限聞き出す。『あの人』に対抗する手段を……誰も巻き込まない術を考える手がかりとするために。……必ずだ!」
握られていた両手を開き、握り返す。
その強く美しい表情をじっと見つめ、トマリは笑みを返す。
「うん。分かった……分かったから、今は、キミが作ってくれたおいしいご飯を食べよう?」
その言葉は、もちろんルナーの逆鱗に触れた。
「トマリ、ふざけるなッ! 私を馬鹿にしてるのか!?」
本気で怒るルナーの、強烈な空気を震わすような怒気も、トマリはさらりと受け流す。それどころか、不満そうな表情さえ見せる。
「ルナー……僕はべつに馬鹿になんかしてないよ。でもね、今のキミは明らかに余裕をなくしてる。恐怖に負けないように意地を張るのもひとつのテだけど、それは独りの場合。キミには一緒に闘う相棒がいるでしょ? 独りで頑張ってこい、なんて無責任なこと言わないから」
トマリの言葉にだんだんとルナーの表情が歪む。治まったはずの震えが戻ってくる。
「僕にまで意地張って、隠したりしないでよ。僕が言いたかったのは――『怖くても前を見て』ってのは、意地を張れって意味じゃなくて、それだけに囚われるなって意味だよ。怖いのは当たり前……そうでしょ?」
優しく、暖かく、すべてを解かす微笑み。
不覚にも涙が浮かんできたのを悟られたくなくて、ルナーは慌てて俯く。そんなルナーの行動を、すべてお見通しだよ、と言わんばかりに、笑みを深くしてルナーの体を包むようにして抱く。親が泣く子供を優しく抱くように。
背中をぽんぽんと叩きながら、
「大丈夫……今は泣いてもいいよ、ルナーリア」
最後のひとかけら残った意地を解かすための言葉を、慈雨のように降らす。
卑怯なまでの優しさに触れて、滲んでいた涙はみるみるうちに大粒の雫となって、目の縁からこぼれ落ちた。その最初の一粒をきっかけに、次から次へとどんどん涙は零れていく。
「………う、ぅうっ――うぁ、うああぁああぁあ〜っ!!!」
必死にこらえようとした声も、長くは保たなかった。恥も外聞も考える隙もなく、ただ自然に声は出た。
トマリの服をつかみ、額を胸に押し当てる。零れた涙でシャツはどんどん濡れてグシャグシャになっていく。
恐怖でじわじわと蝕まれていこうとしていた心は、闘うためにただ冷たくなろうとしていた心は、トマリの言葉に癒される。
ヒトではないというくせに、ヒトらしくもないくせに、トマリは人の弱さを誰よりも知っている。そして、弱さを隠す鎧を簡単に剥ぎ取り、人の本質を簡単にさらけ出し、癒してしまう。
そんな不思議な資質をトマリは持っていた。