第十四話
次にトマリの意識が浮かび上がりかけたのは、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐったからだった。
そのかぐわしい香りはだんだんと近づいてくる。それはルナーの気配を伴っていた。いや、ルナーがそのいい匂いを放つ何かを持って近づいてくるのだ。
そのうち、カチャンという、食器どうしがたてる小さな音を聞いた。どうやらソファの間のテーブルにそれは置かれたようだ。
そして、静かにルナーがソファに腰掛ける音がした。
その後は、いくら待ってみても音も気配も変化を見せなかった。トマリは気になって自ら意識を覚醒へと導く。
「ん………なんか、いい匂いがする」
トマリがもらした言葉に、ルナーは小さく笑って言葉を返す。
「おはよう、トマリ。そろそろ腹が減らないか?」
いい匂いの正体はどうやら朝食らしい。
「うん……減ったかも。――おおっ、野菜のスープにスクランブルエッグか。いかにも朝食らしいメニューだね〜」
「だろう? だから冷める前に食べてくれ。お前の好きな胡桃入りのパンも焼いたぞ」
「わ〜♪ くっるみ、くっるみ〜♪」
トマリはまんまと目の前に出されたこれ以上ないくらい豪勢なエサに釣られた。
トマリはさっさとルナーの隣――いつもの指定席に座り、まさしくエサを前にした忠犬の如く、ご主人様の「よし」を待っていた。
意外にトマリは行儀良く、食前の祈りこそしないものの、必ず食べる前にはルナーが席に着くのを待ち、声を掛けてから食べる。
二人のあいだにいつのまにかできていた習慣だった。
だが、今はいくら待っても「よし」の声はかからない。怪訝に思い、ルナーを見ると、真面目くさった顔で、トマリを見ていた。少なくとも、これからおいしいご飯、という顔ではなかった。
「ルナー?」
「食事の前に、幾つか聞いておきたいことがある」
トマリは、罠にハメられたも同然だった。
いまや、質問に答える以外に食事にありつける道は無かった。
イヤな予感を覚えつつも、さっさと済ませて、用意された食事をなるべく最高に近い状態で食べようと決めた。
「ん〜、分かった。聞きたいことってなに?」
おあずけを食らった犬みたいな心底残念そうな顔をしてトマリは聞く。
「まず、なんで私たちはここに寝ていたんだ?」
エイラは今でも寝ているが……。そう付け足して聞く。
「えっと、二人とも気を失ったから〜。でも、さすがに二人をそれぞれ部屋まで運ぶのはつらかったから、ソファでいっか〜、と。で、毛布を」
言って手に持っていた毛布を持ち上げて示す。
そしてにへら〜と笑って、
「毛布掛けてくれてありがとうね〜」
と言った。
言われたルナーはダメージを受けたように仰け反り、顔を真っ赤にした。
「いや、だってッ、私たちには掛けたくせに自分は掛けないで……というか、お前、なんで上着まで私に掛けてあったんだ!?」
「ああ。上着は、毛布と一緒にわざわざ掛けたわけじゃなくて、ん〜と、なんて言うか、たまたま?」
「……はぁ?」
「だから、気を失ったキミにとりあえず上着を掛けたんだけど、カタがついたあと、そのままソファに寝かせたから」
だから……と、だんだん声が小さくなっていき、なぜか決まり悪げな顔で、子供が言い訳するように上目遣いにルナーを見た。
ルナーとしても、恥ずかしさを隠すためについ語気を荒げてしまったが、怒っているわけでは無いのだ。こんな態度に出られては、困るし、罪悪感を感じてしまう。
「あー、分かった。それについてはもう聞かない。じゃあ、もうひとつ。あれからどうなったんだ?」
「? あれから?」
「私が気を失ってからだ。朝起きて、エイラの顔を見たときには心臓が止まるかと思ったぞ」
ため息混じりに言うと、トマリは笑いをもらした。
「もう大丈夫だと思うよ。黒幕――なんかこの言い方って笑いを誘うよね〜――とにかく、操ってた奴の名前は分かったし、エイラさん自身の方の解呪も成功したはずだから」
「お前『だと思う』とか『はずだから』とかばっかじゃないか。本当に大丈夫なのか? あと……その、操ってた奴の名前っていうのは確かなものなのか? 信用できるのか?」
問い詰めるルナーから視線を逸らし、苦笑いでテーブルの上のご馳走を見つつ、トマリは安請け合いした。
「大丈夫だって。ちゃんと解呪は成功した。それなりに力のある異能者だけど、僕に勝てるワケないじゃん。名前に関してもオッケー。術をかけた時の力の残滓をかき集めたからね。指紋や網膜みたいなモノだね……魔力には一人ひとり違う波がある。簡単に特定できた。知ってる名前だったし。それに、被施術者の口を使って出てきた名前だから間違いない」
「そうか……ならいいんだ。で、その操ってた奴の名前は?」
それまで饒舌だったトマリは、怪しんで下さいと、あからさまに視線を顔ごと逸らした。物凄い速さで。
「……おい。なんだ、ソレは。ケンカ売ってるのか? 買うぞ? 破格の値段で買ってやるぞ?」
1ミリの隙もない完璧な笑顔で青筋を浮かべるルナー。
さりげな〜く、手は剣の柄を握っている。
それを見て、トマリは心のなかでヒィッ、と悲鳴を上げた。
「トマリ?」
優しげな声音と完璧な笑顔。なのに、これを絵画や彫刻にしたら、タイトルは
「修羅」だの「般若」だのになりそうだ。
子供が泣いて逃げ出しそうな空気に、トマリは、はやばや屈した。
「………………………………………………………っ、ディラン・レングラートですっ………!」
泣いて土下座しそうな勢いでさっさと白状した。それでも、言うのにかなりのためらいがあった。名前を告げる前の、イラつかせるためにわざとやってんのか、とツッコミを入れたくなるほどの長い沈黙がそれを語る。
告げられた名前に、柄にかけていた手を落としてルナーは顔色を失くした。それは、不吉を予感させるには十分すぎた。
そして。
傍目から見て、誰も気付く人間はいないだろうが、トマリには分かった。
ルナーの体が、恐怖のために小刻みに震えていることが。