第九話
あけましておめでとうございます。更新が遅くなってすみませんでした。今年もよろしくお願いします。
テーブルの上に置かれたのは、ふたつの皿にそれぞれ分けられたサンドイッチと、エイラにも出した、よく冷えたアイスティー。サンドイッチの具は多彩で、見るからに食欲を誘う。
「おいしそうだね。最近ホント、料理うまくなったよねー、ルナー」
今度こそちゃんとにっこりと笑って言う。だがルナーは少し悔しそうだった。
「当たり前だ。いつまでも自分で作れないようでは生きていけん。……あのときも、いつまでも宿屋の女将に頼りきりでは、と思っていた。
なのに……。
家を出て、自分の意志で自由に生きて……そう思っていたのに、そうしてやってきたことは結局、家にいたころと同じだった。人に頼ってしか、何もできない。食事もまともに作れない。
剣士として……暗殺者として、壊すことには長けたが、それしかなかった。時々、無性に虚しさに襲われた。だから……あのときお前に会えてよかった。今この仕事をしていることで、壊す以外のことができているのだろうか……?」
ルナーはぽつりぽつりと素直な言葉を口にしていく。普段のルナーにはないことだ。何かがルナーを少し変えたのかもしれない。
それとも、戦いを前に、気分が高揚しているのだろうか?
「ルナーリア……キミはちゃんと人を救うことができるよ。エイラもきっとキミに救われている。もちろん僕も、何度も救われてる。キミはキミが思うよりも、ずっとたくさんの人を助けてるよ」
トマリは不思議な微笑みを浮かべて静かな口調で語る。
「キミはヒトだから。……ヒトはヒトを救うことができる。どんな生き方をしていても。……キミはヒトだ。だから大丈夫………」
聞いていたルナーは哀しげに顔をゆがめた。
「お前も、ヒトだろう……?」
そうだと言ってくれ、という願いを、祈りを込めて聞いた。
トマリは哀しげに苦笑した。
「……僕は、ヒトになりそこねた。ヒトとして大切なものを持ってないから。それが手に入らないかぎり、僕はこれからもずっと『なりそこね』だよ」
視線を落とし、静かに言うトマリには、どんなに笑っていても拭いきれない孤独が寄り添う。
ルナーの抱える孤独とは根本から違う。トマリの哀しみを目にするたび、しょせんは違う場所に生きるのだと、目の前でいきなり扉を締められた気分になる。
涙は出てこなかった。寂しさに似た哀しみは、もっと深く絶望の深淵を垣間見るようなもので、涙を流してそれで慰められるような簡単なものではない。
「……でも」
続く言葉があった。
胸のあたりがキュッと痛みを訴え、それに耐えていたルナーはふと顔を上げた。
「……不思議なんだ。
ずっと、ヒトになりたいとは思わなかった。ヒトは弱くて、脆くて儚いから……自分が弱くなることの方がイヤだった。ずっと、そう思っていた。
……でも、最近は違うんだ。ヒトは確かに弱くて脆い。それに儚いと思ってる。それは変わらないけど、でも、かわりに何か違うものを持ってるのかもって……そう思うようになった。そしたら、焦がれるような感情が湧いてきた。憧れているのかもしれないな。
不思議なんだ……キミたちが強さのかわりに持つものがなんなのかを、知りたいと思ってる自分がいる。初めてなんだ。こんなことを思うなんて……自分が変わったとも思えないし、ヒトになりたいのかって聞かれたら、今でも首を振ると思う。なのに……」
いつも変わらず浮かべている薄い笑みは、今は無い。
ルナーを安心させるために言ってるのでも、慰めているのでもない。どころか、トマリの視線はルナーを捉えていない。自分の胸中を独白するようにトマリは呟く。
トマリは、いつものような泰然とした余裕をなくしていた。自分のなかにある、目を逸らし続けてきた感情に、まともに向き合って、本気で戸惑っている。
余裕のないトマリは、いきなりぐっと人間くさくなった。ヒトになれなくても、とても近い場所にいるような気がする。そんなことは出会って以来初めてのことだ。
二人は互いに、自分の素直な感情を吐露してしまったことに気まずく感じていた。
長年来の相棒のような二人だが、実際は出会ってから、まだそう月日は経っていない。本音で語り合うなど、初めてに等しい。
自然と沈黙が場を支配し、二人はただ黙々と食事を消費した。
丸く白い月は、高く天を滑り、優しい色をした光のベールをそっと地に投げている。
その月が、ちょうど中天に辿り着いた時、変化は起こった。
その変化を、ルナーは剣を扱う者ならではの独特の感覚で感じ取った。
「―――! トマリ……」
さっさと食事を終え、窓際で空に浮かぶ月を眺めていたルナーは、ソファに座るトマリをハッとして振り向いた。
――ゾクッ……
背中を何か冷たいものが滑り落ちた。
「――来たね。時間だ」
静かな声には誰もが平伏す威圧感が。落ち着いたたずまいには何事にも動じない余裕が。
「月が中天にかかる、魔の力が最も漲る時間だね……魔力を増幅する月が、最も強く、美しく輝く最高の条件が、いま揃った」
凪いだ湖の色をした瞳は冴え冴えと澄み渡り、透明度が高まっていた。覗き込めば、きっと宝石のようにほのかに水色の光を帯びていることが分かっただろう。
「トマリ、どうする?」
必死で動揺を隠し、平静を装って聞いた。そうしないと、なぜかすぐに顔が真っ赤になるだろうと感じた。脈拍は確実に速くなっているし、内心は妙に焦っていた。
「そうだね……まあ、あれくらい僕が片付けるよ。キミの手を煩わす必要も無い」
くす、と余裕たっぷりに笑ってみせる。
またひとつ鼓動が跳ねる。美しく妖しい美術品を見るような気分なのだろうか?
「そういえばエイラさんは?」
ふと気付いたようにトマリは尋ねた。
ルナーはそれに苦笑で応えた。
「……大丈夫。食事に少し睡眠導入剤を混ぜておいた。今頃はぐっすり寝てるよ」
「そう……よかった。それじゃ、そろそろ行くよ」
ソファから立ち上がり窓に向かって歩く。
瞳が発する水色の光が、帯のようにトマリの眼を追い掛けて燐光を残す。そんな錯覚を覚えるほど、妖艶な一対の輝石。
結界に綻びを作りながら窓が静かに開く。
「本当に一人で大丈夫か?」
必要無いと分かりつつも、つい聞いてしまう。
トマリは嬉しそうに目を細め、窓枠に手をかけて振り向く。
「心配性だなぁ、ルナーは。アレは誰かに遣わされてきただけのザコでしょ? そんなのに負けないよ」
「……ああ。そうだな」
その返事を聞き終わる前に、トマリは窓枠に足をかけ、片手で帽子を押さえて5メートルの高さをひらりと舞った。
一瞬で地面が迫る。体重を感じさせない軽い動作で降り立つ。
そして視線を遣った先には、昼間見た時よりもさらに凶悪に醜悪に巨大化した犬のような化け物がいた。
それを見て、トマリはルナーそっくりな獰猛な戦う者の笑みを浮かべ、
「わざわざこんなとこまでヨウコソ……せっかくだから『俺』が相手してやるよ」
宣告するようにきっぱりと言った。