第八話
今年の更新はこれが最後だと思います。こんな作品を更新されるたびに読んでくれる皆様。読者数を見るたびにいつも嬉しくなります。頑張っていきますので、来年もよろしくお願いします。それでは、よいお年を。
ただ触れ合うだけで掠めていく。
それだけでルナーの顔は真っ赤になり、
「………っ。なっ、何を、トマ――」
文句を言おうとトマリの顔をにらんだ。
しかし……
「ルナーリア、おはよ」
いつになく柔らかい微笑みと、蜂蜜のような甘い声に、ルナーは言うはずだった言葉を忘れた。ただ、はくはくと口を空しく開閉させるだけだ。
「ふあ〜、よく寝た。あ、もう真っ暗じゃん。結構長い時間寝たみたいだな〜」
トマリは普段とまったく変わらぬ態度で体を起こしながら、とぼけたことを言った。それが燻っていた導火線に再度火をつけた。
「トマリ……、貴様……!」
何か考える隙もなく、ただ本能の促すままに、トマリの腹に渾身の拳を叩き込んだ。
「……ぐはっ………!」
たった一瞬、まともな防御も取れずに、トマリは身悶えてソファの上で体を折った。よほど効いたのか、目に涙がにじんでいる。
だが、泣きたいのはルナーの方だった。実際、目にはどんどん涙が盛り上がって、今にも零れそうだった。顔は怒りやら恥ずかしさやらで真っ赤に染まっていた。体中が正体の分からない感情の高ぶりのせいでわなわなと震えている。
そんなルナーを見て、トマリは珍しく動揺した。
「うわっ、ごめん! ホントにごめん。ふざけすぎた、謝るよ。挨拶くらいのつもりだったんだけど……」
ルナーは乱暴に今にも零れそうな涙を拭ったが、眼が赤いのはもう戻せない。
「ふんッ! キサマはいつもいつも……ッ! いつもッ、いつも――」
怒っていたルナーの口調はだんだん力を失っていく。怒りにまかせて喋っていたのが、今度は逆に哀しみに似た感情がせり上がってきて、今度こそルナーは涙を零した。
トマリは大切なご主人様を悲しませてしまった忠犬みたいにしょんぼりして肩を落とした。
「ごめん、ルナーリア……」
トマリは特別な時にしかルナーリアと呼ばない。そのだいたいが、からかう時や、真面目な指令を下す時だったが、今みたいに本当の感情を見せる時もそうだった。
いまトマリは、本気でルナーを泣かせてしまって申し訳なく思っている。上っ面の謝罪ではなかった。
それを見たルナーは、なぜか嬉しさや、喜びや、楽しさに似た気持ちが自分のなかに浮き上がってくるのを感じた。
「私は普段から、お前の食事を作り、事務所の経理を管理し、その他、家事や雑事をしているんだ。依頼人であるはずのこの私が!」
元気を取り戻して、わざと怒ったように言ってみる。トマリは肩を落としたまま、悄然と呟くように答える。
「ハイ……。分かってます。常々感謝しています」
トマリはもうその場に正座でもしそうな勢いでかしこまっている。
「さらにお前の助手として事務から実戦まで……いや、どうせお前には実際は必要あるまいな」
途中から目をつむり、肩を竦めて見せる。いかにもわざとらしく芝居がかっている。しかし、トマリは気付いた様子もなく、慌てて言う。
「いや、必要ないなんて感じたことはないぞ! お前がいてくれるからこの事務所はやっていけるし、僕もとても助かっている」
なかなか嬉しいことを言ってくれる。そろそろ許してやろうか?
顔に自然に浮かんできそうになる笑みを必死に抑え、ルナーはそんなことを考えた。
「……本当か? 今日もあごで使われたからなぁ……」
いかにも疑わしそうな声だが、もうそのやりとりを楽しんでいるフシすらある。
いまだにまったく気付かずにトマリは目に見えてギクッ、となった。
「いや、えーと、本当に感謝を……」
しどろもどろでなんとか何か言葉を捻り出そうとするトマリを、無理矢理ルナーは遮って声を張り上げる。
「じゃあ、ひとつ聞くが!」
ビクッ、と身を竦ませて次の言葉をおとなしく待つ。
「……さっき、いつ起きた?」
「………へ?」
何を言われるかと身構えていたトマリは、的はずれとも言える質問にきょとんとする。
「さっき、って……えーと、ルナーに声かけられて、肩を揺すられたのは覚えてるけど?」
するとルナーはどこかほっとしたように息をついた。そして可笑しそうに顔をゆがめ、声を震わせないように気をつけながら胸を張って言った。
「じゃあ、許してやる」
「…………………はぁ?」
語尾が上がっていた。信じられない、といった顔でルナーを見るトマリ。
その様子があまりにも可笑しくて、つい吹き出してしまった。
「――はッ! ははッ、っかし……ッ」
「る、ルナー? ……キミ、わざとか? いつからそうやって笑いをこらえてたんだ?」
ついつい責めるような口調になってしまうトマリだったが、それは仕方がないといえるだろう。
「わりと始めの方。お前が『ごめん、ルナーリア……』って謝ったときくらい」
わざわざ口真似までするルナーに、トマリは顔を赤らめて、
「『わりと』じゃなくて最初じゃん!!」
照れ隠しに怒鳴ってみた。
「うん、まあ。でも普段の仕返しだと思えばカルいものだ。……言っておくが、私はあのとき本気で怒ったんだからな。だから、仕返しだ」
平然と言うルナー。トマリはがっくりと脱力した。
「……はぁ。なんなんだよ、もう……」
情けなく呟いてトマリはソファに倒れ込んだ。ふふっ、とルナーには珍しく声をたてて優しく笑う。
「――さて。夕飯にしよう。日が暮れてもうだいぶ経つからな」
言って、部屋の灯りをつける。
パッ、と部屋の色が寂しげな蒼から暖かみのある白に変わる。
そしてそのまま自室に向かい、自分たちの食事を持ってくる。
「ほら。軽い物の方がいいだろ? このあと――あるんだからな」
顔はもうさっき笑っていたのとは別人だ。
視線はナイフのように鋭く、窓の外で皓々と輝く満月を見ている。口唇をゆがめて笑うが、それは野生の獣のような獰猛さを感じさせる。
呼応するようにトマリの表情を一変し、さっきまでの情けない色などカケラも残してはいない。
が、すぐに表情をゆるめ、やんわりと笑う。
「ありがとう、ルナー。……今夜は満月がとてもきれいだ」
しかしよく見ると、眼はいまだに真剣そのもので、何もない虚空を真っ直ぐに見据えている。
「……ああ。そうだな。月がきれいだ」
戦う者の眼でルナーも微笑んだ。
闇色の空には、白く輝く、完全な円の形をとった月が美しかった。