第二章 ひとつ灯して、客を呼ぶ
死体を見つけに行く、という言葉は正しくない。
死体は、そこにある。
人間の意思とは関係なく、そこに残される。
生きていたものが動かなくなり、声を失い、体温を失い、それでもなお場所だけは占め続ける。
だから本来、死体は見つけに行くものではない。
死体の方が、人間の行動を止める。
だが十二灯館では違った。
西園寺雅治の名前が先に呼ばれた。
西園寺さんは?
その一言が廊下に置かれた瞬間、館の中にいた全員が、まだ見ていない死体へ向かって歩かされ始めた。
真壁彰は、そう感じた。
右手の廊下へ踏み出した瞬間、足元の絨毯がわずかに沈んだ。
古い毛足が靴底を吸い、足音を殺す。
館の中にはまだ人の気配があった。
ホールに残された者たちの息遣い、衣擦れ、押し殺したざわめき。
けれど一歩進むごとに、それらは背後で遠ざかり、かわりに廊下の奥の静けさが濃くなる。
静けさにも種類がある。
人がいない静けさ。
人が息を潜めている静けさ。
人が死んだあとの静けさ。
真壁は、その違いを知っていた。
今、廊下の奥にあるのは三つ目だった。
「真壁」
後ろから九条雅紀の声がした。
「血の匂いがする」
真壁は足を止めなかった。
「近いか」
「近い」
九条の返事は短い。
いつものように淡々としていた。
だが、その淡々さが、今はかえって場の異常を際立たせた。
二階堂壮也は、さらに後ろでホール側に視線を残していた。
全員を動かすな、と言われたからだ。
とはいえ、完全に残るつもりはないらしい。
真壁たちから二、三歩遅れ、ホールと廊下の境目を見張る位置にいる。
場を制御する人間の立ち方だった。
鳳恭介は、真壁の斜め後ろにいた。
足音が薄い。
慌てていない。
怯えてもいない。
だが興味を持っているわけでもない。
彼は死体を見に来たのではなく、死体が置かれた場所を見に来ている。
真壁には、そう見えた。
廊下の灯は、等間隔に並んでいた。
古びた壁紙。
幅木の傷。
半分ほど開いた飾り棚。
右手の壁には古い写真が何枚か掛けられている。
どれも十二灯館を写したものだった。
昼の館。
雪の館。
湖面に映る館。
写真の中の館は、どれも実物より整っている。
人に見せるための顔。
鳳の言葉が頭に戻ってくる。
生活のための顔と、客を迎えるための顔と、写真に撮られるための顔が違う。
この館は、その違いを隠さない。
むしろ、見せつけている。
「右です」
鳳が静かに言った。
真壁は一瞬だけ視線を向ける。
「何が」
「今の声が反響した方向です。最初に聞こえた位置とは違います」
「西園寺さんは、って声か」
「はい。壁の石材が右側だけ厚い。声が廊下をまっすぐ流れず、斜めに返っている。発声した場所は、聞こえた場所より手前かもしれません」
二階堂が低く言う。
「やめてくれる? 今それ聞くと、誰の声だったのか余計わからなくなる」
「すみません」
鳳は本当に申し訳なさそうに言った。
だが、その目は謝っていなかった。
天井の梁。
壁の継ぎ目。
床の傾き。
鏡の角度。
すべてを見ている。
死体があるかもしれない場所へ向かっている人間の目ではない。
犯行現場になる前から、そこがどう見える場所だったのかを測っている目だ。
真壁は少しだけ警戒を強めた。
有能な人間は、役に立つ。
同じくらい、危険でもある。
廊下の先で、赤いものが見えた。
最初は絨毯の模様かと思った。
古い赤茶色の地に、黒ずんだ花柄が沈んでいる。
その端に、別の赤が滲んでいた。
模様ではない。
光沢がある。
まだ乾ききっていない。
血だった。
柱の影に近い控えスペース。
玄関広間の中央からは少し外れた場所。
そこに、西園寺雅治が倒れていた。
白いシャツの胸元が赤く染まっている。
黒いジャケットは前を開かれ、身体の右側へややずれていた。
胸部、肋骨の下あたりに深い刺創がある。
顔は入口の方へ向けられていた。
眼は半ば開いている。
自分の死体を最初に見る者の顔を、確認しようとしているような角度だった。
見つけた者が、一目で西園寺だとわかる角度。
見つけた者が、一目で刺されたとわかる血。
見つけた者が、一目でここが現場だと思う配置。
真壁は、奥歯を噛んだ。
「止まれ」
彼は後ろの二人に言った。
九条はすでに止まっていた。
鳳も止まっている。
「九条」
「わかってる」
九条は短く答え、死体のそばへしゃがみ込んだ。
ただし、触れない。
手袋をしているとはいえ、安易に身体へ触れない。
まず見る。
位置。
向き。
衣服。
血の広がり。
皮膚の色。
瞳孔。
手指。
口元。
九条の視線は、死体の表面を撫でるように移動していった。
真壁は周囲を見た。
控えスペースは広くない。
廊下から半歩奥へ引っ込んだ場所に、古い飾り柱と小さなサイドテーブルがある。
テーブルには花瓶が置かれていた。
花はない。
空の花瓶だけが、飾りとして残されている。
壁には濃い色の布張りパネル。
その下端が一部だけ浮いているように見えた。
死体の右手側に血溜まり。
左手は身体から少し離れている。
指が不自然に曲がっていた。
何かを握っていたあとにも、握らされていたあとにも見える。
床の絨毯には乱れが少ない。
少なすぎる。
真壁はそれが気に入らなかった。
人が刺されて死ぬ場所は、もっと汚い。
もっと無秩序だ。
倒れる方向も、腕の角度も、足の開き方も、呼吸が失われるまでの身体の抵抗を残す。
床に手をつくこともある。
何かを掴もうとすることもある。
血が広がる前に、靴底で擦られることもある。
だが西園寺の身体は、見やすかった。
見やすい死体は、だいたい誰かがそうした死体だ。
「どうだ」
真壁が訊くと、九条は死体から目を離さずに答えた。
「死亡している。胸部刺創。出血量は多い」
「即死か」
「まだ断定できない。ただ、傷は深い。心臓か大血管に達している可能性がある」
「刺されたのはここか」
「それも、まだ決めない」
九条は西園寺の胸元を見た。
「この血の広がりだけなら、ここで刺されたように見える。でも、身体の位置と服の乱れ方が合わない」
「運ばれたか」
「少なくとも、位置を直されている」
二階堂が、ホール側を見張ったまま顔をしかめた。
「いきなり?」
「いきなりじゃない」
九条は言った。
「この館は、最初からそういう場所だった」
真壁は九条を見た。
九条の顔色は変わっていない。
だが、目の奥が細くなっている。
死体を見る目だった。
そこにある人間を、被害者として、物証として、誰かが触れた結果として、同時に見ている。
鳳は、死体ではなく柱を見ていた。
「鳳さん」
真壁の声が低くなる。
「はい」
「死体を見ろ」
「見ています」
「柱を見てるように見えるが」
「死体が見える場所を見ています」
二階堂が小さく息を吐いた。
「その言い方、怪しすぎるよ」
「すみません」
鳳はまた謝った。
けれど視線は柱と鏡を行き来している。
「ここは、実際の広間中央ではありません。けれど玄関から入ってすぐ、あの鏡を通すと、広間中央に死体があるように見える」
鳳は指で示さない。
触れないように、目線だけで位置を示した。
「入口から人が入る。まず鏡を見る。鏡の中に赤い血が映る。実物の死体は柱陰に近い場所にあるのに、記憶の中では“玄関広間の中央に倒れていた”ことになる」
真壁は振り返り、鏡を見た。
確かに、そこには西園寺の死体が映っていた。
実物よりも中央に見える。
実物よりも正面に見える。
実物よりも、死体らしく見える。
鏡の中の赤は鮮やかだった。
館の照明と角度のせいで、胸元の血が暗い絨毯から浮かび上がっている。
現実には柱の影に半分入っている死体が、鏡の中ではまるで展示物のように見えた。
真壁の胸の奥で、嫌悪感が静かに形を持った。
「見つけ方まで設計されている、か」
二階堂が言った。
「殺す瞬間より、見つかる瞬間を大事にしてる」
「そういうことだろうな」
真壁は死体から目を離さなかった。
「九条、左手」
「見てる」
九条は西園寺の左手の甲を見ていた。
紙か金属で切ったような細い傷が、手の甲に残っている。
だが近くで見ると、それだけではない。
親指と人差し指の内側にも、薄い赤い線があった。
「新しいな」
真壁が言う。
「うん。致命傷ではない。抵抗痕とも少し違う」
「何をした傷だ」
「細いものを強く握ったか、握らされたか。あるいは、何かを抜き取られるときに切れた」
二階堂が反応した。
「抜き取られる?」
「指の曲がり方が変」
九条は手に触れず、視線だけで説明する。
「死後硬直はまだ強くない。けれど指の形が、自然に脱力した形じゃない。何かを握っていた名残がある」
真壁は西園寺の手元を見た。
何もない。
凶器も、紙片も、鍵も、ペンも、名札もない。
ただ、握っていたはずのものだけが消えている。
「名前かもね」
二階堂が言った。
真壁は振り向いた。
二階堂は真壁を見ていない。
死体の左手と、ホールの方を交互に見ていた。
「さっき、誰かが“西園寺さんは?”って言った。本人を見つける前に、名前だけが置かれた。で、この人の手から何かが消えてる。名札、署名、カード、鍵。何でもいいけど、この事件はたぶん、名前にこだわってる」
「名前に?」
「うん。死体より先に名前が来る。発見より先に説明が来る。見たものより先に、呼び方が来る」
二階堂の声は、いつもの軽さを失っていた。
真壁は展示室の図面を思い出した。
玄関広間。
食堂。
階段下。
書庫。
温室。
湖上回廊。
それぞれの死亡位置。
それぞれの名前。
死体の所見よりも、どこでどう見つかったかが詳しい記録。
誰かが、死者より先に配置を残した。
誰かが、死体より先に名前を置いた。
「二階堂」
「うん」
「今の声、誰だと思う」
「女の声だった。けど、正直言って断定できない。瑠璃子さん、小夜子さん、鳴海さん、蓮見さん、烏丸さん。誰かに似てたと言えなくもないし、誰にも似てなかったとも言える」
「館のせいか」
「館のせいにしたいところだけど、人間のせいもあるね。みんな、聞いた瞬間に西園寺さんを探した。声を出した人間を探さなかった」
そうだ。
真壁も最初に西園寺を探した。
誰が言ったのかではなく、誰の名前が言われたのかに反応した。
犯人がそれを狙っていたのなら。
名前は、死体を呼ぶ合図になる。
「ホールの様子は」
真壁が訊くと、二階堂は背後を見たまま答えた。
「全員いる。少なくとも俺が見ている範囲では、誰もこっちへ来てない。氷室さんが動きかけたけど止めた。鳴海さんは顔色が悪い。瑠璃子さんはほとんど動かない。小夜子さんは瑠璃子さんの腕を掴んでる。葛城さんは怒ってる。蓮見さんは震えてる。烏丸さんは泣きそう。朽木さんは、たぶん頭の中で責任の所在を考えてる」
「鳴海さんは?」
二階堂が少しだけ間を置いた。
「資料を抱えてる」
「それだけか」
「うん。それだけ。でも、あの人だけ、モニターを見るのが少し早かった」
真壁はその言葉を胸にしまった。
「よく見てるな」
「仕事だからね」
「まだ仕事じゃない」
「事件になっただろ」
二階堂は笑わなかった。
真壁は鳳を見る。
「鳳さん。裏導線はあるか」
鳳は、待っていたように壁を見た。
「おそらく」
「おそらく?」
「この柱の裏側です。壁紙の柄が半目ほどずれている。幅木もここだけ新しい。完全に塞がれた扉か、あるいは今も使える小扉があります」
「触るな」
「はい」
鳳は素直に頷いた。
「展示図面にはありませんでした」
「抜かれているということか」
「来客用の図面なら、裏動線を省くことはあります。ただ、事件検証用の図面から省かれているなら、意味が変わります」
「どんな意味だ」
「誰かが、この場所を“通れない場所”として見せたかった」
真壁は壁紙の継ぎ目を見た。
たしかに、わずかに不自然だった。
古い館ではよくある歪みと言われれば、それまでだ。
だが今は、すべてが意図に見える。
壁紙のズレ。
鏡の角度。
死体の向き。
左手の空白。
真壁は嫌な感覚を覚えた。
犯人は、単にこの館を利用しているのではない。
館の「見え方」を利用している。
人間がどう動き、どこを見て、どう記憶するか。
それを先に計算している。
「九条、死亡推定は」
「正確には無理。まだ外表だけだ。ただ、灯が消えてから死んだとは考えにくい」
二階堂が短く声を漏らした。
「は?」
真壁も眉を寄せた。
「理由は」
「出血の広がりが、消灯から今までの時間にしては落ち着いてる。服の吸い方も、倒れてから少し時間が経ってるように見える。もちろん、血量や刺創の位置にもよるけど」
「つまり、西園寺さんは灯が消える前に死んでいた」
「可能性が高い」
その言葉が、廊下の空気を重くした。
灯が消えた。
モニターに文字が出た。
声が西園寺の名前を呼んだ。
全員が彼の不在に気づいた。
そして死体が見つかった。
だが西園寺は、そのときすでに死んでいた。
ならば、灯は殺人の合図ではない。
発見の合図だ。
「犯人は、西園寺さんが死んだあとに灯を消した」
二階堂が言った。
「いや、違うな。灯を消すことで、死体を“今、現れたもの”にした」
真壁は頷かなかった。
まだ早い。
だが、二階堂の言葉は正しい方向を向いている。
死体は、突然現れたのではない。
突然、見つかる順番が来ただけだ。
「九条。西園寺さんはここまで自力で来たか」
「刺されたあとなら難しい。刺される前なら来られる」
「ここで刺された可能性は」
「ゼロじゃない。でも抵抗した形跡が少なすぎる。傷の位置からして、正面かやや左前方から刺されている。相手と向き合っていた可能性がある」
「知っている相手か」
「少なくとも、近づくことを許した相手」
真壁は西園寺の顔を見た。
死後の顔には、まだ驚きが残っているようにも見えた。
怒りではない。
恐怖でもない。
理解が遅れた人間の顔。
まさか自分が刺されるとは思っていなかった人間の顔。
生前の西園寺を、真壁はほとんど知らない。
だが第一印象だけなら、自分が殺される側に回ると考えているタイプには見えなかった。
場の中心にいることに慣れた男。
自分の名前が先に置かれることを疑わない男。
だからこそ、最初の灯に選ばれたのかもしれない。
ひとつ灯して、客を呼ぶ。
客。
招待された者。
最初に名前を記す者。
最初に死体として見せられる者。
「この歌、聞いたことあるか」
真壁が言うと、二階堂は首を振った。
「ない。少なくとも有名な童歌じゃないと思う。即興か、この館に伝わるものか、犯人が作ったものか」
「鳴海さんなら知ってるか」
「資料担当だからね。知っていてもおかしくない。知らないと言ってもおかしくない」
「どっちだ」
「どっちにも使える人ってこと」
真壁は返事をしなかった。
鳴海栞。
資料展示の案内役。
整った説明。
疲れた目。
展示用モニター。
館内図。
公式記録。
灯の管理。
配線の位置。
そして、紙を汚すことを恐れる指。
すべてに触れることができる人物。
疑うには早い。
だが、覚えておくには十分だった。
ホール側で、葛城慎一郎の声がした。
「どういうことですか。西園寺さんは無事なんですか」
二階堂が振り返る。
「下がってください。こちらには来ないで」
「説明してください。あなた方は警察関係者でしょう」
「今は現場を保全する方が先です」
「現場?」
その一語で、ホールのざわめきが膨らんだ。
現場。
その言葉は、人を黙らせることもあれば、逆に現実を突きつけることもある。
今は後者だった。
西園寺の不在は、ただの不在ではなくなった。
館内で何かが起きた。
その何かに、警察の言葉が与えられた。
真壁は低く言った。
「二階堂、言葉を選べ」
「選んでるよ」
二階堂は振り返らずに答えた。
「でも、もう隠せない」
そのとき、鳴海の声がした。
「まさか……西園寺様が?」
様。
真壁はその呼び方に引っかかった。
鳴海は先ほどまで「西園寺さん」と呼んでいただろうか。
いや、はっきり覚えていない。
だが今の「様」は、あまりにも説明じみていた。
館の資料担当としての呼び方なのか。
動揺した結果なのか。
それとも、誰かに聞かせるための言い直しか。
真壁は小さく息を吐いた。
この館では、呼び方ひとつも信用できない。
「全員、ホール中央に集まってください」
二階堂の声が、場を切った。
「壁際に寄らない。廊下へ入らない。互いに距離を取りすぎない。今から一人ずつ、灯が消える前後の行動を確認します」
「何の権限があって」
葛城が食い下がる。
二階堂は、そこで初めて振り向いた。
柔らかい顔だった。
だが目は笑っていない。
「人が死んでいる可能性が高いので」
短い沈黙。
その言葉は、必要以上に大きくはなかった。
けれど十分だった。
ホールの空気が変わる。
烏丸鏡花が小さく悲鳴を漏らした。
蓮見詩穂が口元を押さえる。
小夜子は瑠璃子の腕をさらに強く握った。
瑠璃子は動かない。
氷室は真っ青になっている。
朽木怜二は、視線だけを二階堂から真壁へ、真壁から死体のある廊下へ移した。
鳴海は展示パネルの前に立ち尽くしていた。
西園寺雅治が死んだ。
その事実が、ようやく全員の中に落ちた。
真壁は九条に視線を戻した。
「凶器は」
「見当たらない」
「刺創の幅は」
「外から見る限り、細身の刃物。ナイフか、短剣状のもの。館に展示品があるなら、それも候補」
「抜かれているか」
「うん。体内には残っていない」
「血痕の飛び方は」
「刺された瞬間の飛沫が少ない。服の上から深く刺されて、そのあと倒されたか、倒れたあとに位置を調整されている」
「刺した場所と倒れた場所が違う可能性は」
「ある」
九条はそこで、わずかに眉を寄せた。
「ただ、気になる」
「何が」
「血が見えやすい」
二階堂が反応した。
「血が?」
「うん。刺創の位置、服の開き方、身体の向き。全部、見つけた人間に血を見せる向きになってる。死体としては整いすぎてる」
「九条」
真壁は言った。
「その言い方、あとで全員の前でもできるか」
「できる」
「わかった」
真壁は鳳を見る。
「鳳さん。鏡以外に、この死体を“中央に見せる”仕掛けはあるか」
「仕掛けというより、設計です」
「説明してくれ」
「玄関から入った人間の視線は、まず大鏡に取られます。鏡には広間の中央と右手廊下の一部が同時に映る。さらにこの控えスペースは、柱で身体の輪郭が一部隠れるため、実際の位置よりも奥行きが浅く見える」
鳳は一度、ホール側を見た。
「おそらく最初に見た人は、西園寺さんが玄関広間の中央に倒れていると記憶します。二十年前の記録が“玄関広間”で始まっているなら、その印象はより強くなる」
「二十年前の第一の死体と同じ場所に見える」
「はい。同じ場所ではなく、同じ場所に見える場所です」
真壁は、その言葉を頭の中で繰り返した。
同じ場所ではない。
同じ場所に見える場所。
この事件の鍵は、そこにある。
犯人は二十年前の事件をなぞっている。
だが、実際になぞっているのは死亡位置ではない。
発見場面だ。
九条が言った通りだった。
死体の記録ではない。
発見場面の記録。
ならば、二十年前も同じだったのか。
真壁は展示室の大判図面を思い出す。
六つの赤い点。
整いすぎた死体の位置。
死体より詳しい発見場所。
誰かが、過去にも同じことをしたのではないか。
死者を置いたのではない。
死者がどう見つかるかを置いた。
そのとき、廊下の奥で、かすかな音がした。
金属が触れ合うような、細い音。
真壁は反射的に顔を上げた。
「今の音」
二階堂も聞いていた。
九条は死体のそばから立ち上がらない。
鳳は、音がした方向ではなく、天井を見た。
「どこだ」
真壁が問う。
鳳はゆっくりと視線を下ろした。
「上ではありません」
「なら」
「壁の中です」
その瞬間、控えスペースの壁の奥で、何かが小さく動いた。
真壁は一歩踏み出し、壁紙の継ぎ目を見た。
鳳が指摘した場所。
幅木の新しい部分。
そのすぐ横に、真鍮の小さな金具があった。
装飾に紛れていて、近づかなければ気づかない。
古い葉模様の中に、つまみのようなものが隠れている。
「隠し扉か」
鳳が頷いた。
「おそらく、配膳か保守用の小扉です。今の音は、内部のラッチが戻った音かもしれません」
「誰かが中にいる?」
二階堂の声が硬くなる。
真壁は答えず、耳を澄ませた。
音はもうしない。
廊下の奥は静かだった。
だが、静かすぎた。
誰かがいる静けさ。
誰かが、息を殺している静けさ。
「二階堂。ホールを頼む。誰も動かすな。特に鳴海さん、氷室さん、葛城さんから目を離すな」
「了解」
「九条。死体から離れるな」
「うん」
「鳳さん」
「はい」
「この扉、開けられるか」
「構造上は。ただし、触れば痕跡が変わります」
「開ける前に見るだけでいい。開いた形跡は」
鳳は近づきすぎない距離で、壁紙と幅木を見た。
「最近使われています。埃の線が切れている。床の毛足も、扉の開閉範囲だけ撫でられている」
「西園寺さんをここへ運んだ通路か」
「可能性はあります」
真壁は壁の向こうを見た。
壁の向こうに、人が通れる空間がある。
展示図面には描かれていない。
そこから西園寺が運ばれたのか。
そこから犯人が出入りしたのか。
あるいは、西園寺はそこへ呼び込まれ、そこで刺されたのか。
ひとつ灯して、客を呼ぶ。
客を呼んだのは、灯か。
声か。
それとも、この隠し扉か。
真壁は西園寺の左手をもう一度見た。
握っていた何か。
消えた何か。
それがこの扉を開けるための鍵だったとしたら。
あるいは、扉の内側から渡された何かだったとしたら。
そのとき、ホールのモニターが再び点滅した。
赤い光が廊下の壁まで薄く届く。
二階堂が振り返った。
「真壁」
画面には、新しい文字が浮かんでいた。
――客は名を記して、灯の下に立つ。
その下に、白い文字で一行。
――西園寺雅治。
そしてさらに、その下に。
――第一灯、消灯。
誰かが泣き出した。
誰かが「嘘でしょう」と呟いた。
誰かが「警察を」と叫んだ。
しかし十二灯館は湖上にあり、外の風は強く、船は岸壁に一艘しかなかった。
真壁はモニターを見た。
名前が出た。
死体よりも大きく。
死体よりも明るく。
死体よりも先に、全員の記憶に残る形で。
「二階堂」
「うん」
「今、わかった」
「何が」
真壁は西園寺の死体を見下ろした。
「これは殺人の予告じゃない」
灯はすでに消えている。
西園寺はすでに死んでいる。
モニターはすでに名前を置いている。
「これは、発表だ」
二階堂の顔が強張った。
その言葉の意味を、彼は誰よりも早く理解した。
発表。
広報。
死体より先に置かれる説明。
誰かが用意した文面。
誰かが選んだ順番。
誰かが、死者に名前と役を与える作業。
九条が、死体から目を離さずに言った。
「真壁」
「何だ」
「この人は、第一の死体として置かれてる」
「わかってる」
「でもたぶん、最初に死んだ人じゃない」
真壁は九条を見た。
九条の顔に冗談はなかった。
「どういう意味だ」
「身体の状態だけじゃ、まだ断定できない。でも、二十年前の記録と同じなら、死体の順番と死亡順は別に考えた方がいい」
鳳が静かに続けた。
「建物も同じです。見える順番と、実際の動線は違います」
二階堂が口元を引き結んだ。
「言葉も同じだ。発表順と、事実の順番は違う」
三人の言葉が、ひとつの線になる。
死体。
建物。
言葉。
それぞれが別の方向から、同じ結論へ近づいている。
真壁は、胸の奥に沈む怒りを抑えた。
怒るのは後でいい。
今は順番だ。
死体より先に名前を置かない。
説明より先に現場を見る。
犯人が用意した順番に乗らない。
「全員の行動確認を始める」
真壁は言った。
「灯が消える前、西園寺が最後にどこにいたか。誰が声を出したか。誰がモニターに触れられたか。誰がこの隠し扉を知っていたか。全部、順番に確認する」
二階堂が頷く。
「ホールは俺が押さえる」
「九条は死体」
「うん」
「鳳さん」
「はい」
「この館の嘘を見てください」
鳳は一瞬だけ、柔らかい表情を消した。
その顔は、初めて少しだけ真剣に見えた。
「わかりました」
真壁は西園寺雅治の死体を見た。
胸の血は、鏡の中でまだ鮮やかに光っている。
現実の血は、少しずつ黒くなり始めていた。
真壁は思った。
人間は死ぬと、色を失う。
だが説明は、死者より長く色を残す。
この館の犯人は、それを知っている。
だからこそ、許してはいけない。
ホールの外では、消えた第一灯のガラスだけが黒く沈んでいた。
そして湖面には、消えたはずの灯が、まだ揺れていた。
実物は消えている。
反射だけが残っている。
まるで、誰かの名前だけが死体から剥がれず、水の上に浮いているようだった。




