第13話 騎士の忠義(前)
仮に妻子を連れ戻したところで仕事が無ければ一家離散である。生活を支える一ノ瀬家の主として男の面子もある。生活基盤とはそれほど重要なもの。ゆえにジークフリートは彼の仕事を維持するために精を出していた。が……
「困るんだよね~、一ノ瀬君! ブラックフィールド社と切れたら君の首では足りないのだぞ!」
「っ……申し訳ない……」
客先で大目玉を食らったジークフリートは職場に戻ってからの重ねての叱責に大いに憤慨していた。ジークフリートの経験から相手の理不尽な主張を鵜吞みにして下手に出るなどあり得ない話であったのに、その対応を咎められているからである。
「まぁまぁまぁ部長! ほら、先方も許してくれると仰いましたから! あまり怒ってばかりじゃ、せっかくの男前に皺が寄っちゃいますよ! もしかして血糖値不足ですか? 朝ごはん食べました? チョコレートありますからどうぞ!」
「う、む……そうだな、鷹峰君に免じてこのくらいにしよう。次から気を付けるように!」
顔を真っ赤にしていた部長は沙織に宥められると周囲の視線に気づき、矛を収めて退室した。だが嵐が去っても怒り収まらぬジークフリートは拳を震わせていた。同僚の前での叱責は彼の矜持をズタズタに引き裂く行為であったし、彼にすれば自社の利益を守るための当然の対応だったものを否定されたのだから。
だが現実問題として商談を破綻させるほうが損害が大きかったのも事実である。記憶喪失の先輩を守るために沙織が割って入らなければ、ジークフリートは逆上していたことだろう。
(ほら、先輩! ちょっと頭を冷やしましょう!)
沙織は事務室を離れ喫茶室まで彼を引っ張る。未だ納得のいかない表情を浮かべるジークフリートに笑顔を向け、ホットティーを手渡しベンチに座らせると隣り合って座った。
「いきなりじゃ失敗もしますよ。タコ部長のお説教なんて気にしなくて大丈夫です!」
沙織はフォローしならがも意識されるよう彼に肩を寄せてみたが、当のジークフリートは下を向いて難しい顔をしたまま。励ますほうが先かと身を乗り出し、彼と視線を合わせた。
「すまない。私が失敗をしたばかりに沙織に苦労をかけたのだ……」
「とんでもない! それよりも先輩、ブラックフィールド社のあの空気で理不尽な要求をよく突っぱねましたね。わたしだったら圧に負けて受けちゃいましたよ」
「ああ、譲れぬ一線があるのは分かっていたのだが妥協点が分からなかった。しかし部下が失敗したというだけであの叱責はなんだというのだ」
思い出して拳を震わせるジークフリート。その拳を包み込むように手を添えて沙織はにこりと笑いかけた。
「あはは、みんないつも『タコ部長の触手に捕まった』なんて言ってますから。ねちょねちょとシツコイお説教は四井銀行金融法人部の名物です!」
そう言って口を尖らせ触手のようにヒラヒラと手を躍らせる沙織を見て、怒っていたはずのジークフリートは思わず吹き出した。してやったりと笑顔を浮かべる沙織を見て、ジークフリートは自身の怒りがどうでもいいもののように思えてくる。子ども扱いのような励ましに多少の屈辱を感じながらも、巧みな沙織の応対にジークフリートは落ち込む間もなかった。
「ああ、あれは成績が上がらぬことへのただの当てつけだ。上に立つ者としての器が知れる。見返してやるぞ」
その言葉を沙織はうんうんと頷いて肯定した。
「ですです。先輩は本調子じゃないというのによくやってます! 次はできます!」
こうして沙織が親身に応援してくれることに、ジクジクとした感情を押しのけて胸中に温かみが広がるのをジークフリートは感じた。沙織のためにも――イザベラのためにも、悪いところは直すのだ、とジークフリートは顔を上げた。
そう、本調子ではない――つまり駿ならばもっと上手くやっていたはずなのだ。自分に足りないのはきっとこういうところだ。ならば彼を真似るように自身が変わる必要がある。沙織に後押しされたジークフリートは決意を新たにした。
「沙織はいつも前向きなのだな。とても助かる」
「えへへ、任せてください! 先輩への笑顔は取り揃えてます!」
その可愛らしい笑顔に不覚にもどきりとしてしまったジークフリートは目を逸らす。間違えるな、我々は妻子を連れ戻すためにやっているのだ。駿の期待を裏切らないように前に進むのだ。高々、一度の失敗で諦めてなるものか。ジークフリートは自身に発破をかけるよう言い聞かせた。
そうしてジークフリートの顔から曇りが取れていくのを見て、沙織の胸は甘いものを食べたときのようにふわりと満たされていった。
(そうですよ先輩、もっと頼ってください。一緒にいますからね)
ジークフリートはこの世界の取引は対等な立場で行うものだと駿から聞いていた。それを信じて何度か(彼にとって)理不尽な失敗を重ねた後、その対等とは建前であると理解した。元フロイエン領主として貴族社会での腹の探り合いを知っていた彼は、商習慣や言葉遣い、そして人同士の態度など、おおよそこの世界の商人の折衝に必要な事項を凄まじい速度で学習していた。
そして、当初は新卒以下の素人然とした応対だったものが2日目には一端の交渉になっていたのだから、沙織が驚いたのも無理はない。さらに数日後、ジークフリートはついに契約へ漕ぎつけた。「やりましたね、先輩!」と我が事のように喜ぶ沙織にジークフリートも頬を緩めた。
そんな二人の活動を同僚たちは「良いコンビだ」「めおと営業」と持て囃し、その評価を耳にした沙織は殊更に満悦していた。このような調子でふたりは順調に契約件数を伸ばし、新商品にも関わらず営業成績が積み上がった。
ジークフリートは慣れぬ世界で駿の評価を落とさず何とか主体となって進められる仕事ができたことに安堵した。だが同時に沙織の献身的なサポートがあってこその成果だということも自覚していた。彼女を疑うわけではないが、梯子を外されたときに潰れてしまうということも。だから沙織に頼り切りな部分に不安を感じ、自立するため必死に努力を怠らなかった。
パソコンの入力作業。営業活動のための地図確認。インターネットでのモノの調べ方。電話のかけ方。そして常識的な喋り口調。ジークフリートは学ぶたびにこの世界の商人が必要とする知識が生半可なものではないことに驚きを重ねていく。
そして偶然に見ることができた駿の過去の営業成績。それがめおと営業以上の数字が叩き出されていたことから、彼がどれほどの知識や経験、機転を生かして仕事をしているのかという事実に畏敬の念を抱くのだった。




