第11話 鷹峰沙織
「これで失礼しますね、また明日の6時に来ますから」
「ああ、よろしく頼む」
「先輩、そこは『お願いします』ですよ」
「む……お願い、します」
「はい、わかりました! それじゃ、お休みなさい」
彼の住んでいるマンションから出ると、沙織はふぅ、と一息ついた。ひやりとした月夜の空気が火照った頭を冷ましていく。信じられないことが多すぎた。彼の身に起こった不幸も、自分が通い妻のような立ち位置になれたことも。
テニスコートでの出来事を思い出すたびに、むふふ、とニヤニヤが止まらない。すれ違う人に怪訝な目で見られ、緩んだ頬を戻す、ということを繰り返した。何より諦めたはずの憧れの人の隣にいられると考えるだけで、やったぁ、と叫び出してしまいそうだった――
鷹峰沙織は東北は秋田県の出身だった。まだ新幹線の通って間もない時代に大学進学のため上京した。初めて見る大都会。初めての一人暮らし。流行り始めたばかりの携帯電話。広がるインターネット。そして広大な大学のキャンパスに人の波。何もかもがキラキラと輝き刺激的で……そして気後れした。
お洒落な服を着て、綺麗なメイクをして、楽しくサークル活動をして――思い描いていた理想とは程遠いところにいた。野暮ったい格好におどおどした方言混じりの言葉は田舎者と蔑まれるのに十分で、授業仲間などできず孤独に苛まれた。
少しでも楽しみが欲しいと、縋るような思いで参加したのがテニスサークルだった。思い切って門戸を叩いたものの、初めて持つラケットで四苦八苦した。もとより運動が得意というわけでもない。皆が楽しそうにラリーをしている横で、一人フォームの練習を繰り返している時にこみ上げるものがあり、物陰に走った。あとからあとから溢れ出る涙が、余計に惨めだった。
そんな時だった。「大丈夫かい? ほら、これ飲んで元気を出して」と頭をぽんぽんと撫でられ、手に温かい飲み物を握らされた。はっとして顔を上げると、そこには4年生の先輩がいた。短い黒髪の眼鏡顔で、いつも雑用に駆け回っているパッとしない――でも自分より、よほど垢抜けて洗練されている先輩。今もラリーから外れ、一人で事務仕事という損な役回りを引き受けていた人だ。
ありがとうございますとか、大丈夫ですとか、とりあえずの返事の言葉さえ出て来ずに、えぐえぐと嗚咽を漏らしてしまう自分にさらに自己嫌悪した。けれどもその人は沙織が落ち着くまで、周囲から隠してくれるような位置に立って、ただ頭を撫でてくれた。その優しさに、まるで惨めさが解かされるようだった。
礼を言うと「初心者の君の面倒を見てあげられてなくてごめん」と謝られる。その日は軽く雑談をして、帰り際に「次の活動日は俺が教えてあげるよ」と約束をしてくれた。その一言は、彼女を孤独の海から引き揚げてくれた――
「……覚えてなくても同じように撫でてくれた。やっぱり先輩だよね」
夜道、人目がないことを確認して沙織は自身の髪に触れる。まだ彼の手の温もりが残っているようだった。それだけで胸が苦しくなってくる。この苦しさはあのときのものと同じ。両手を胸に添え、その苦しさを掬い上げていく――
そのパッとしない先輩は沙織の面倒を見てくれた。ほかの先輩たちや同期は野暮ったい沙織に見向きもしないけれど、そのパッとしない先輩だけは「俺も自信がなくてよくハブられて独りになるから。君みたいな子を独りにしたくないんだ」とずっと一緒にいてくれた。沙織が徐々に上達すると「上手くなったね」とよく褒めてくれた。「教えがいがあって楽しいよ」と、やる気を引き出すのが上手な人だった。一人じゃないと思えるだけでサークルが楽しくて仕方なかった。
サークル運営は細々とした雑務が必要だが『楽しむ場所』でそういった面倒ごとは他人にやってもらいたいと考える人が多い。結果、その押しつけは先輩へと集まった。「誰かがやらなきゃね」と面倒ごとを引き受けて奔走する先輩。いつも自分のことは後回しにする、底知れぬお人好しで苦労人の先輩。沙織を救ってくれた彼の善性を、押しつぶそうとする小さな悪意から守りたい――そう考えた沙織はすぐに彼の手伝いをするようになった。
あるとき先輩は「俺の苦労を分かってくれるのは君だけだよ。優柔不断って言わずに尊重してくれて嬉しいんだ」と眩しいほどの笑顔を向けてくれた。胸の高鳴りを感じながら「優柔不断なんて! 先輩は優しいんです、わたしのことをこうして分かってくれるのは先輩だけですよ」と返した。頼りない後輩ではなく対等だと認めてもらえた――そう感じたこのときから、強く先輩を意識するようになった。
絶対に先輩に釣り合う女になろう――その思いが沙織を突き動かした。若者の街と呼ばれる下北沢や渋谷に通い、ファッションもメイクも徹底的に研究した。先輩の前でお洒落な格好をして可愛い、似合ってると褒められると舞い上がった。
学校のコンピュータールームでパソコンを使い倒しインターネットを理解し、先輩とメールアドレスを交換すると、可愛らしい文面を意識してこまめに連絡を取った。メールで言葉のキャッチボールをするうちに話し方も意識した。方言混じりの言葉とイントネーションを改め、話題の振り方や表情の出し方も本を読んで研究した。先輩の笑顔を会話で引き出せるようになった。
料理を練習して見栄えの良いお弁当を作り、テニスの試合の日に先輩と食べたときの「美味しいね」の一言で涙が出そうになった。先輩のおかげで生まれ変わることができた、ついに春が来たんだと夢中になった。この世のすべてが明るく輝いて見えた。
けれども時間は残酷だった。その先輩はたった1年で卒業の日を迎えてしまう。1年間という長くて短い期間、磨き抜いた自分を、等身大の自分を受け止めて欲しくて。卒業式の日、沙織は先輩に告白した。とっておきのメイクをしてお洒落をして、先輩に花束を渡しながら。
だが答えはノーだった。就職した会社の方針で数年は飛行機の距離の地方勤務になるから――そんな彼の言い分は絶望の足音にかき消された。沙織は遠距離でもよい、卒業したら追いかけると泣き縋った。だが先輩は「沙織はこんなに魅力的な女性になれたんだ。もっと素敵な恋を見つけられるから」という言葉を残し、沙織が言葉を尽くす前に行ってしまった。
輝いていたはずの世界は、全てが終わってしまったように暗くなった。胸がぎゅうぎゅうと締め付けられ苦しかった――
そう、この溢れる苦しさは失恋の痛み。あのときに捨てたはずの、届かない想いの慟哭。今の彼に既婚という枷がある限り、この想いが成就することはない。ないのだが――
先輩がいなくなり、火が消えたように意気消沈した沙織。孤独が戻ったと暗い気持ちで教室へ行くと、男女問わず彼女に話しかけて来て、思いもよらずにすぐ仲間ができた。それが先輩のためと思って自分磨きをした結果だったと気付いた時、「先輩のお陰です」と涙した。そこからの大学生活は、黒野というサークル同期の問題児がいたものの、順調だった。
やがて大学を卒業して就職をして。何度か言い寄られた男性と付き合うも、どうしても先輩と比べてしまいすぐに別れてしまう。これはもう駄目だなと仕事に打ち込んだ。
そして数年前、新しく立ち上がった部署へ異動したときにその先輩――一ノ瀬駿――と再会したのである。これは運命と、こみ上げる喜びに声をかけようとしたところで、彼の左手、薬指の指輪に気付き、そして声をかけるのをやめた。沙織を見た駿も、少し驚きながらも平静を装った。互いによろしくお願いしますと、一辺倒の言葉で片付けるだけだった。
この再会の日、沙織は初めて夜通し泣いた。泣いて泣いて、酷い顔になり翌日は仕事へ行けなかった。そしてここに至り初めて、沙織は自分の長い長い初恋が終わったことを悟った。そして別のほの暗い感情――駿の隣には自分がふさわしいのに、という気持ちが渦巻いていることに気付いた。沙織はその気持ちにそっと蓋をした――
終わらせたはずの初恋。職場の先輩と後輩。かつての関係を上書きしたそれは、これからも穏やかな人間関係を維持していくはずだった。あの頃と同じようにパッとしない雰囲気の先輩には、婚姻だけでなくかすがいまであるというのだから沙織が入り込む一分の隙間もない。
それなのに今日、ぼうっとした駿をスーパーで発見したときから、止めていた時間の歯車が動き出したのだ。お節介にも、かつて自分がされたように彼の世話を焼いていくうちに、蓋の上に乗っていたはずの重しがごとりと少し動いてしまった。僅かな隙間ができていた。
この婚姻という重しは動かせる。胸の内に溢れる苦しさが、まるでてこのように重しをどかそうとしている。紙切れ一つで結ばれる法律上の契約を動かすだけで、世間は鬼の首を取ったように騒ぎ立てる――そのことも沙織に無意識の制約を課していたはずなのに。
邪魔なあの人も、かすがいも、彼の優しさを見限り出て行った今ならば、彼が焦燥の末に色々なことを忘れてしまった今ならば、重しを簡単に動かせてしまう。沙織はその可能性を強く感じた、感じてしまった……そして重しをどかしてしまいたいと願ってしまった。そう、この重しを動き易いようにしてやれば――
「……先輩のことを分かってあげられるのはわたしだけですよ」
優しい先輩にふさわしいのは、その優しさを理解できず離れてしまったあの人ではない。今、隣で献身的に寄り添う、先輩の理解者のわたしだ。だから先輩に私が必要だと選んでもらいたい――ぽそりと呟いた沙織の言葉は、ひっそりと夜の帳へ消えていった。