第10話 カタリーナ・ダ・レーベン
夜。フロイエン邸宅のゲストルームでカタリーナは窓辺から空を見上げていた。番う大小の月は、あの頃と変わりのない穏やかな青と白の光を湛えている。
「ジークフリート様……長うございました」
明日の朝から彼と一緒にいられる――それを思うだけでカタリーナは身体の火照りを感じた。同じ建物の中で過ごしているというだけでもどかしさが募る。
「ああ、ジーク様……愛しています……」
何度、妄想の中でそう語り掛けただろう。同じ部屋、同じ空気、同じ寝床――何度も思い浮かべた隣り合う彼の姿が、明日から現実のものとなる。渇望していた機会が、まさに手の届くところまでやって来ていた――
カタリーナ・ダ・レーベンは、ルクスリア王国レーベン領侯爵家の令嬢である。両親は一人娘の彼女を溺愛し、跡取りに相応しい教育を施した。聡明なカタリーナは両親の期待に応えるため、幼少期から習い事に勤しんだ。
バイオリンにピアノ、絵画に手芸、言語学に礼儀作法、乗馬に魔力操作――おおよそ、令嬢の習い事と呼ばれるものは網羅していた。彼女が上達するたび、母親が「カティ、頑張ったわね」と褒めてくれることが、カタリーナは嬉しくて誇らしかった。
だが7歳になろうとする時、母親が事故で他界する。頑張る彼女を褒めてくれる大好きな母親の死に、カタリーナは落ち込んだ。
塞ぎ込みぼうっとして教師の言葉も聞き流してしまうカタリーナ。「上手くできるからって生意気」「すましているだけでお友達もいない寂しい人」「習い事の話ばっかりでつまらない」――いつもは習い事に懸命で耳に入らなかった他の令嬢たちの心無い言葉が飛び込んできた。それは傷心のカタリーナの心を深く抉るものだった。
頼りの父親は公務に忙しく細かに声をかけてはくれない。それでも母親に褒められたという記憶を頼りにカタリーナは習い事を続けた。その純真な心に傷を刻みながら。幼い彼女は自身を守る術を知らなかった。
そんなある日、レーベン領の隣地、フロイエン領から顔合わせと称して令息がやって来るという。これまで何度か貴族の令息令嬢と面会をしたことはあったが、相手は誰もが子供っぽく我儘で、才能あるカタリーナを敬遠するか、馬鹿にするだけだった。
今度もそうだと暗い気持ちで面会に臨むカタリーナ。親同士の紹介から始まり他愛もない話を挟み、出て来たのは濃い黒髪を短く刈り上げた体格の良い男の子。「よろしく頼む」と大きな声で挨拶した後はむすっとだんまりだった――
「あの頃からそうでしたね」
社交場の第一印象としては悪い部類のはずのその出会いは、カタリーナにとって、とても甘く心地良いものだった。その彼の不器用ささえも愛すべきものだったのだから――
顔合わせが済むと、子供同士でと2人で庭に放置された。客人である彼はカタリーナの後を着いて歩くが会話はない。恐る恐る様子を見れば無表情。噂通り面白くもない自分に辟易しているのだと、カタリーナは当てつけるように口を開いた。
「知ってのとおり、私は習い事ばかりの面白味のない女です。無理にお付き合いいただかなくとも結構です」
すると彼は仏頂面を歪め、目を見開いて答えた。
「それは誰が決めたことだ?」
「え?」
「面白みのない女と俺は思っていない。君が習い事に忙しいということも今、知ったばかりだ」
カタリーナは驚いた。これほど悪い噂が広がっているにも関わらず彼は知らないというのだ。
「君のことを教えてくれ。噂なんて知らない、俺は自分で見て決める」
そうして促され、カタリーナは彼に話をした。何を習っているとか、どれくらい学んでいるとか。同年代の子供へ、こんなに沢山の話をしたことはない。だけれども、それは大人へ説明するような内容で、自分でもユーモアの破片もなくつまらないとわかる話。
「すごいな、俺より年下なのにそこまで。君が優れた令嬢だということがわかった」
だから、その評価に耳を疑った。
「何がつまらないものか、その聡明さは君の努力の成果だ。子供同士のつまらない背比べよりもよほど面白い」
「ですが……ごめんなさい、私は皆様のように面白くお話をすることができません。もっと交友を学ぶべきですよね」
彼の言葉をカタリーナは信じきれなかった。これまでどの令息も令嬢も、表面上は当たり障りのない言葉を並べながら陰口を叩いていた。何なら、目の前で表情を歪めるものまでいたのだから。
「ありのままで良いんだ」
「え?」
どうせおべっかだろう、そう思い自己否定をした彼女を、彼は肯定した。カタリーナはもう一度、耳を疑った。
「無理に変えることはない、君はありのままで良い。君の努力は誇るべきことだ、何も恥じることはない。悪く言う奴は君の素晴らしさが分からないだけだ。俺は今の君が良いと思う」
臆面もなくそんな台詞を言い切る彼の真っ直ぐな視線は、ずっと孤独に怯えていた彼女の心を照らしていく。ずっと諦めていた無私の肯定は、カタリーナの琴線に触れた。
「っ……ありがとう、ござい、ます……」
後から後から溢れ出る涙にどうすれば良いのか分からない彼女の頬を、彼――ジークフリート・オブ・フロイエンは指で掬い、励ますように不器用な笑みを浮かべたのだった――
「ほんとうに、お優しいところは変わっておられない……」
今にして思えば、カタリーナを擁護した彼もあちこちで噂をされたに違いない。そういった風聞は彼の正義の前に無意味だったのだろう。あの頃から真っ直ぐで男らしい強さと自信を兼ね備えていたのだ。
「それなのに忘れてしまうなんて……ジーク様、貴方はいったいどれだけの悲しみを抱えたのですか」
彼の魅力はその男らしさの裏に不器用に隠された優しさなのに。カタリーナは確かめるようにその優しさをたどっていく――
顔合わせ以降、カタリーナは父親であるレーベン当主リカルドにフロイエンとの交流を求めた。母親が亡くなり、塞ぎ込んで我儘を言わなかった娘が初めて口にしたおねだり。リカルドはそれを聞き入れ、フロイエンとの交流を重ねた。隣地の貴族同士、利害も一致することが多い。そうしてカタリーナはジークフリートと何度も顔を合わせた。
ジークフリートは会うたびにカタリーナを肯定した。バイオリンが上達すれば「張りの良い音が踊っているようだ」と難しい顔をして唸り、礼儀作法が上達すれば「王侯貴族と遜色ない」と騎士の礼を返し、乗馬が上達すれば並走して「これで共に駆けることができるな」と笑った。そのたびにカタリーナは自信を取り戻し、彼への尊敬を強め、そして思いを募らせた。もっと彼の傍にいたい、一緒になりたいと。
ジークフリートもカタリーナと会う時に嬉しそうな表情を見せることが増えた。もっともそれは、彼を見続けていたカタリーナだから気付けたことで、レーベンの使用人がリカルドへの報告で「彼は面白くなさそうだった」と言ったことにカタリーナが食ってかかるということがたびたびあった。
やがて、カタリーナはルクスリア王国内の名立たる貴族子女が通う名門ソルア神聖学院へと進学する。ジークフリートは先に上級生として在学していた。カタリーナは彼に虫がついていないか心配したが「君を差し置いて付き合いたいと思う人はいない」と言質を得たことに嬉しくて仕方がなかった。
学院でカタリーナは孤立した。隙のない完璧な礼儀作法、優れた炎の魔法技術、政治学への深い造詣。幼少期と同じくその近寄り難い能力、高貴さを揶揄して『陽炎のアマリリス』と遠巻きにされていた。だがカタリーナはそんな視線も心地良かった。ジークフリートから「君が高嶺の花だという渾名だ、俺も鼻が高い」と認めてもらえていたからだ。
カタリーナの眼中にはジークフリートしか映っていなかった。学年を超えて行うダンジョン攻略の合同授業ではジークフリートとペアを組み、半日で10階層踏破という新記録を打ち立て、その実力と彼との絆と相性を誇示した。表彰での彼の「最高のパートナーだ」という言葉に涙が溢れ出た。
そして学院の冬の行事、聖夜祭。ここで結ばれた者同士は、公的に交際を始められるという慣習があった。カタリーナは父リカルドに交際の許可を取り、ジークフリートへ打診した、『お迎えに来てください、お待ち申し上げております』と。
この日のためにしつらえたドレスに着飾り、赤い髪を丁寧に結い上げ、いつもとは違う化粧を施し、彼の到着を待った。開始1時間前にそわそわし、直前になり焦り、時間を過ぎて彼の身を案じ。そして――彼は来なかった。
夜中も待ち、夜明けまで待ち続け、朝の光を見てカタリーナは倒れた。まる1日眠り続け、目が覚めてから彼女はその理由を知った。彼は別の女性――イザベラ・ド・ヴァイスをパートナーとして踊ったと、政略結婚なのだと――
「私から奪っておいて……なのに……」
カタリーナは拳を震わせた。パートナーであるあの女は、彼の優しさを理解するどころか見限り、彼の純真な心に大きな大きな傷をつけて出ていった。到底、許せることではない。
でも、だからこそ、そこにできた隙間にカタリーナは収まろうとしている。彼の不幸には心が痛むのだが、終わることのなかった長い長い恋慕の結実が始まったことに、つい笑みが浮かんでしまう。
「ふふふ、ジーク様。カティがお傍におります」
想像する。自分の隣に立つ精悍な彼と手を繋ぎ……そうだ、彼の娘、ロザリアはどうなのか。溺愛している娘がいなければ彼は悲しむ。彼女から母親を奪うことは人の道に逸れるのでは。彼を悲しませるのではないか。
ならば。彼をこれほどまでに打ちのめしたあの女を許せるのか――否!
「……やはり、私が」
今度こそ自分がパートナーとなる。そのためならばこの手を血で染めようとも――カタリーナはひとり、双月へ決意を誓った。