深読み探偵の事件簿 ~爆破未遂と迷える漫画家~
駅から近いことだけが取り柄の、お世辞にも綺麗とは言えない雑居ビルの三階に、その探偵事務所はあった。
ガタガタと音を立てる年季の入ったエレベーターに乗って三階まで上がり、右手にある不動産屋を通り過ぎて左奥の通路に入る。そんな奥まった分かりにくい場所に、「深謀探偵事務所」と書かれた扉がある。
そして、今――その扉が勢いよく開かれた。
その事務所は、せいぜい八畳程度しかない狭い部屋だった。部屋の隅の棚には過去の事件資料がぎっしりと押し込まれ、今にも崩れ落ちそうだった。
そして、ただでさえ狭い部屋のほとんどを、ダークブラウンの大きな木製のワークデスクが占めていた。机上には「所長:深謀 賢」と書かれたネームプレートが置かれている。
深謀は、オフィスチェアに優雅に腰かけて新聞を読んでいた。
「どうしたんだい、和戸村君。そんなに慌てて、君らしくもない」
深謀は新聞から顔を上げると、事務所に飛び込んできた青年を一瞥し、落ち着いた低い声で話しかけた。和戸村は息を切らせ、膝に手を突きながら答えた。
「はあ、はあ……危うく遅刻するところでしたよ、先生」
和戸村は二度深呼吸をして姿勢を正し、深謀に向き直った。
「ギリギリ間に合いました。先生、おはようございます!」
「ギリギリ?」
深謀は怪訝な顔をし、のんびりとした仕草で壁に掛かった年季の入った時計を見上げた。
「何をいっているんだい、和戸村君。今はまだ 8時半じゃないか。いつもより 30分も早いぞ」
「え?でも、僕の時計では」
和戸村は腕時計を覗き込み、事務所の時計と見比べた。そして首を傾げる和戸村を見て、深謀はさては、と何やら思いついた様子でニヤリと笑みを浮かべた。
「時計の電池が切れかかっているのではないか?それで時計が間違った時刻を示し、君は勘違いをした。そういうことだろう」
深謀はそれで間違いない、と言わんばかりにウンウンとうなずいたが、和戸村はキョトンと目を丸くした。
「あ、先生、大変申し訳ないのですが、遅刻を防ぐために、自分でわざと時計を 30分進めていたのを忘れていました」
「……」
深謀は誤魔化すように再び新聞に目を落とした。
「遅刻でないのなら何も問題ない。私は大事な情報収集の最中なのだ。あまり騒ぎ立てないでくれたまえ」
「でも今先生が見てるのって、競馬新聞ですよね」
「うむ。次のレースが近いからな」
和戸村は思わずため息をついた。深謀のことは尊敬しているが、その推理が、ギャンブルでは一度も当たったことがない。
話を逸らすべく、背負っていたリュックから手書きの事件ノートを取り出す。パラパラとページをめくっていくと、一枚のページに目が留まった。
「連続爆破事件、最近また話題になってますね」
連続爆破事件。今最も世間を騒がせている事件だ。
「爆破されたくなければ身代金を払え」と書かれた爆破予告メールが送りつけられるというもので、ここ一月ですでに三件発生した。そのうち二件は要求を無視した結果、実際に爆発してけが人も出ている。犯人はいまだ捕まっていない状況だ。
「物騒な世の中ですね。早く犯人が捕まるといいのですが。先生、どうにかなりませんか?」
和戸村は期待のまなざしを向けるが、返事はそっけない。
「今回こそ、7番のサイゴニササレールだ。私の目に、狂いはない」
「依頼さえしてくれれば犯人なんてすぐに逮捕できる、ってことですよね!さすがです、先生!」
和戸村は深謀の言葉を聞き流すと、すぐに気を取り直して仕事モードに入った。
「それでは本日はこのあと 10時から依頼人との待ち合わせがあります。場所はITSUMONOカフェですね。準備はできていますか?」
「待ちたまえ。和戸村君」
「なんでしょうか?」
「まだ馬券を買えていない」
和戸村は素早く深謀のもとへと歩み寄ると、深謀の右腕をガッチリと掴んだ。
「競馬の話はそれくらいにして、今日も張り切って仕事しましょうね!」
「ま、待て、和戸村君、私は 7番の単勝を買うんだ。今回こそは絶対に勝てるから、このチャンスを逃すわけにはいかないんだ!」
「諦めてください。先生に似合うのは、馬券よりも事件ですから!」
和戸村は渋る深謀を強引に事務所の外へと連れ出した。
◇
雲一つない晴天の下、男は一人立ち尽くしていた。
男は漫画家だった。幼い頃から漫画家を志し、ひたすら漫画を描き続けて早二十年。
とある雑誌の新人賞で佳作を受賞したまでは順風満帆だったが、そこから伸び悩んだ。何度となく出版社に新作を持ち込んでは、ボツを食らい続ける毎日だ。
三十歳を迎え、バイトをしながら漫画を描き続ける生活にも限界が来ていた。両親は何かにつけて、そろそろ区切りをつけて就職してはどうか、と連絡をよこしてきていた。
次の作品が連載にならなかったら、漫画家になる夢はすっぱり諦めよう。そう決意したはいいものの、それ以降アイデアはさっぱり浮かんでこなくなった。
男は、絶体絶命だった。
目の前のトラックがクラクションを鳴らし、そのけたたましい音で男はハッと我に返った。
なんとかアイデアをひねり出そうと散歩に出かけたところまでは覚えている。だが、気づけば随分遠くまで歩いてきてしまったようだ。
こんなことをしている場合ではない。男は来た道を戻ろうと、クルリと向きを変え、そのまま歩き出した。そして自宅へと向かって一歩踏み出したところで、ふと目の前のカフェが目に入った。
「ITSUMONOカフェ」という、初めて見たその店は、何の変哲もないカフェに見えたが、不思議と心惹かれるものがあった。
時間はちょうど昼時だ。最近はコンビニ弁当ばかりの毎日であったから、たまにはカフェで外食するのもいいかもしれない。
しかし、と男は逡巡した。初めて入る飲食店というのは緊張するものだ。普段よく行くファストフード店が近くにあれば、そちらの方がずっと気楽だ。
男はきょろきょろと辺りを見回しながら、カフェの前を通り過ぎて歩いていく。
結局、近くに魅力的な店は見つからなかった。
男は左折を繰り返し、ぐるりと回ってまた先ほどのカフェの前までやってきた。店の前をゆっくりと歩きながら、店内をじっと観察する。
客はまばらでまだ空席がそれなりにある。今なら、すんなりと入れそうだ。
男がカフェへ入ろうと歩きかけたところ、ちょうど店内にいた二人組が目に入った。
片割れは茶色いトレンチコートに、同じく茶色い帽子をかぶった、いかにも「探偵です」と言わんばかりの格好だ。その隣に座っているのはごく普通の青年だ。これはこれで、探偵助手のイメージぴったりだ。
そこまで考えたところで、男の中でふつふつと創作意欲が沸き上がってきた。
(そうだ、次回作は探偵ものにするのはどうだろう。これでもかというくらい分かりやすい見た目の探偵というのが、今の時代は逆に映えるかもしれない)
ふと、探偵と目が合った……気がした。
(自分なんかに何か気になることでもあるのか……いや、違う。彼は私のことを見ているのではない)
男は素早く後ろを振り返った。車道を挟んで反対側の道に、足早に歩くサラリーマン風の男の姿が見える。
(そう、この探偵はあのサラリーマンを見ていたのだ。鋭い眼光で真実の奥の奥を見通す、なかなか描きがいのあるキャラクターではないか)
男の妄想は止まらない。
(この探偵の隣に置くなら、今隣にいるような地味な青年では物足りない。そう、知的な眼鏡美少女を助手にしよう。そして、ライバルの怪人・八十八面相と繰り広げる騙し騙されの頭脳戦。今時珍しい本格ミステリ、我ながら名作ではないだろうか?)
望外の超大作に思わずニンマリしたところで、男は我に返った。
こんなところで一人立ち止まってニヤニヤするなんて、恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。カフェの店員や他の客になんて思われるか、想像しただけで恐ろしい。
男は店に入るタイミングを逸し、再びカフェの前を通り過ぎた。
そもそも、ギャグ漫画ばかり描いてきた自分なんかに本格ミステリが描けるわけがない。せいぜい探偵モチーフのギャグ漫画くらいが関の山だ。
カフェを通り過ぎたものの、今更家に帰ってコンビニ弁当で昼食を済ませる気分にはなれなかった。男はカフェの周りをもう一度ぐるりと回って、今度こそあのカフェに入るべく歩を進めた。
男は三たび、カフェの前にやってきた。しかし、男が店の入り口に辿り着く直前、三人組の男たちがカフェへと入っていった。店の入り口で何やら店員と会話している。
このまま後ろに並ぶと、三人組の陰に隠れて店員に見逃されそうだな、とか、大して混んでいないのにカフェの前に列を作るのも変だな、とかあれこれ余計なことを考えてしまう。
男はため息をついた。このカフェとは縁がなかった、そう思うことにしよう。
アイデアは依然として思いついていなかったが、さすがにそろそろ題材くらいは固めないと、出版社も両親もいつまでもは待ってくれまい。
男は自宅に帰ろうとカフェの前を通り過ぎる。未練がましいかと思いつつもカフェの入り口を横目で見ると、扉の下に何かが落ちていることに気が付いた。
扉の陰になって見えにくいが、黒い小さな鞄だ。誰かの落とし物だろうか。
男は首を傾げつつも、その鞄のもとに歩み寄った。店の入り口に近づいたのは、入店したかったわけではなく鞄を拾うためなんですよ、と誰にともなく取り繕うために。
男は落ちていた鞄を拾い上げた。軽い。中を見れば持ち主が誰か分かるだろうか、と鞄のファスナーに手をかけて、危うく思いとどまった。
持ち主が分かったところでどうだというのだ。電話を掛けて、待ち合わせをして渡すなんて、難易度が高すぎる。もしもそれが女性だったら、ついでにカフェでお茶でも、と誘うのだろうか。自分には到底、無理な話だが。
交番の場所を検索してみると、意外と近い場所にあるようだ。届ける途中で落として中身を壊してしまったら大変だ。男は拾った鞄を両手で大事そうに抱え、足早に交番へと向かった。
鞄を警官に引き渡して連絡先だけ渡した後、男は交番を後にした。ただの気分転換の散歩のはずだったのに、いつの間にか大冒険になってしまった。
何気なくスマートフォンを取り出して画面を覗き込むと、世話になっている出版社の編集から三件の不在着信が入っていた。
男の気分は一気に沈んだ。十中八九、次回作の催促だろう。
ただでさえ電話は苦手だというのに、小言を言われるかと思うと気が重い。今更、次回作のアイデアが思いつかないとでも言うのか。
(せっかくだし、探偵もの、描いてみるか……?)
男はとぼとぼと帰路に就いた。
◇
深謀たちは、依頼人との待ち合わせ場所であるITSUMONOカフェの一席に腰かけていた。
「なかなか来ませんね、依頼人の方」
「ふむ。和戸村君、また君の時計が狂っているのではないかね?」
「そんなことはないはずですが……」
和戸村は腕時計を覗き込み、店内の時計と見比べている。一方の深謀はというと、そんな和戸村をよそに、まったく別のことを考えていた。
「ところで和戸村君。店の前にいるあの男、怪しいと思わないかね?」
深謀たちが座っている席はガラス張りになっている店の正面側で、店の前の通りがよく見える。カフェの前を歩く一人の男が見えた。
「怪しい、ですか? 僕にはそうは思えませんが」
和戸村は首を傾げる。男はそのままカフェの前を通り過ぎて、きょろきょろと辺りを見回しながらどこかに行ってしまった。
「あの男、先ほどまで店を通り過ぎて真っすぐ歩いていたというのに、急にUターンして店の前まで戻ってきた」
「そうなんですか? そこまで見ていませんでした」
「何もない場所で急に立ち止まり、いきなり引き返すなど普通の人間ならまずしない。何かあると考えるのが自然だ」
「確かに、そう言われればそうかもしれません」
しばらくして、先ほどの男がまた店の前へやってきた。
「また来ました、あの男。ついさっき通り過ぎたばかりなのに……というか、さっきと同じ方向に歩いていますね。ということは、店の周りを一周して戻ってきたということですか?」
「その通りだよ、和戸村君。どうだ、あまりにも不自然だろう」
「はい!まともな人間の取る行動とは思えません! 先生、よくそんな細かい行動に気が付きましたね! 観察力の鬼とはまさにこのことです!」
男は、今度は急に立ち止まり、深謀たちのことをジッと見つめている。
「一周してまた戻ってきたということは、店の周りを警戒して見て回っていた、というわけか? そして今、探偵の私のことを凝視している。これはなにやら犯罪の香りがするな」
「はい! もはや何か悪事を企んでいることは間違いありません! 先生、捕まえてきましょうか?」
立ち上がり駆け出そうとする和戸村を、深謀は静かに呼び止めた。
「待ちたまえ、和戸村君。そう慌てては、奥深くに眠っている真実を取りこぼすぞ」
「は、はい、先生。でもこの男、明らかに挙動不審ですよ? ほら、今もまた、唐突に後ろを振り向きました」
「うむ。人の目を気にしていることは明らかだ。しかし、その理由を突き止めるのが先だ。根拠なく人を疑うようでは探偵失格だぞ」
「はい……」
和戸村はシュンと肩を落とした。
その時、男はふいにニヤリと笑みを浮かべた。まるで考え込む深謀をあざ笑うかのようだった。そして、そのまま立ち去ってしまった。
「! せ、先生、今のは」
「読み解けるものなら読み解いてみろ、と言わんばかりだな。随分と挑発的だ」
「先生に喧嘩を売るなんて……逃がしてしまったのが悔やまれます」
「いや、あの男は必ず戻ってくる。私の探偵としての勘が、そう言っている」
深謀の予想通り、男はまたしても店の前へと現れた。和戸村はわずかな情報も見逃すまいと、緊張した面持ちで、男の一挙手一投足に注目した。
男は今までと変わらない様子でゆっくりと歩いていたが、やがて入り口の扉の前までやってきたところで、ついに動いた。
店の入り口へと近づくと、扉の裏に回り込んだ。しゃがみこみ、何かを手にする。和戸村は目を凝らした。どうやら、小さな黒い鞄のようだ。
鞄を拾った男は、スマートフォンを取り出して何やら操作をすると、そのままスタスタとどこかへと立ち去って行ってしまった。
「鞄を拾っただけ、ですか。なんだか拍子抜けですね」
「まあ待て。少し順を追って整理してみよう」
深謀は額に手を当てながら左上の虚空を見つめ、先ほどの光景を思い返していく。
「まず第一に、あの男は荷物を何も持っていなかった。もしこれから犯罪をしよう、と考えているのだとしたら、それは少し変だ」
「そうですね。泥棒や強盗、誘拐など、いろいろな犯罪が考えられますが、どれも凶器や車などの準備が必要なはずです」
「うむ。そして第二に、男は終始挙動不審だったが、直接的な行動は小さな鞄を拾う、ただそれだけだ」
「はい。しかし、あんな漫画の単行本一冊くらいしか入らなそうな小さな鞄に、一体どんな秘密が?」
「あれだけ両手で大事そうに抱えて、そそくさと立ち去ったのだ。人に見られたらまずいものが入っていた、その可能性を追うべきだ」
「確かに、鞄を拾っただけなら、その鞄自体に問題がある、と。さすがは先生、理路整然とした天才的な推理です!」
深謀は表情は変えなかったが、フフン、と得意げに鼻を鳴らした。
「あの鞄に違法なものが入っていたことは事実だとしよう。さて、次に最大の問題だ。その違法なものとは一体、何か?」
「はい。それこそがこの事件の最後のカギですね」
「では、一つの可能性を示そう。あれだけ小さい鞄でも運べるような少量で、重大犯罪にかかわるものと言われて真っ先に思いつくものは?」
和戸村はしばらく考えこんだ末に、やがて真っ青になって顔を上げた。
「ま、まさか、麻薬……」
「可能性の話だ。まだ、な」
「ご謙遜を!あからさまな挙動不審、突然笑い出す奇行、どれも麻薬中毒によるものに違いありません! 先生の灰色の脳細胞が冴えわたっています! ああ、もしあの時僕が後を追っていれば、今頃は!」
和戸村の文句なし賞賛に、深謀は表情を崩さないようでいて、鼻がわずかにピクピクと動き、口元もわずかに緩んでいる。
「仕方がない。あの時点ではあくまで疑惑でしかなかったのだ。真相が分かった今となっては悔しい気持ちも分かるが、ここから先は警察の領分だ」
「でも……」
和戸村は依然として納得がいかない様子だったが、ちょうどそのタイミングで和戸村のポケットが震え、気がそがれた。
「えーと、依頼人からのメールでした。今日は急用ができたから日付を変えてほしい、と」
「そうか。それなら仕方ないな。日を改めよう」
深謀はそう言うと、すぐに席を立った。和戸村もそれに続く。
「依頼人は来ず、大悪党も捕まえられず。まったくの無駄足でしたね。先生の見事な推理が炸裂したのは、痛快でしたけど」
「そう思うか、和戸村君」
和戸村は深謀の問いの意味が分からず、深謀の顔色を探った。深謀はいつもと何ら変わらないようでいて、足取りはリズミカルだ。和戸村に褒めちぎられて、満更でもない様子だ。
「無駄かどうかを決めるのは、自分自身だぞ」
「どういう意味ですか……?」
深謀は和戸村の問いには答えず、どこかに電話を掛けだした。
「ああ、もしもし。やはり、7番だった。単勝にオールインだ」
深謀はそれだけ言うと、すぐに電話を切る。
「先生、また競馬ですか? こんなときに……?」
「さあ、果たしてこれも、無駄になるかな」
「???」
深謀はそれ以上は語ろうとはしなかった。和戸村は不思議に思いながらも黙って深謀の後に続いた。
◇
一か月後。
深謀は事務所で優雅にコーヒーを楽しんでいると、ガチャリと音を立てて事務所の扉が開いた。
「おはようございます、先生。あれ、テレビを見てるんですか?」
「ああ、和戸村君も見たまえ」
和戸村がテレビに目をやると、それは朝の報道番組だった。
『連続爆破事件、容疑者逮捕』
和戸村は目を丸くした。
「もしかして、この映像に映っているのは……この前のITSUMONOカフェじゃないですか」
「ああ。あのカフェにも爆弾が仕掛けられていたらしい」
「こ、怖いですね。えっ、実際に爆弾が仕掛けられたのは、僕らがカフェに行ったあの日じゃないですか。運が悪ければあるいは僕らも犠牲者になっていたかもしれないなんて」
「そうだな。紙一重とはこのことだ」
「へえ、小型爆弾が入った鞄は手違いによって交番に届けられたんですね。中身を確認しようとした警官が異変に気付いて発覚した、と。なんだか間抜けな爆弾魔ですね」
深謀は大きく頷く。一方の和戸村は、何かまだしっくりこないという風に、眉間にしわを寄せながら、何か考えこんでいる。
「しかし、長いこと捕まらなかったというのに、どうして犯人が捕まったんでしょう?何かきっかけでもあったんですかね?」
「まあ、あの日に私が電話で刑事君に伝えたからな」
意外な言葉に、和戸村は首を傾げた。
「電話?でも先生、カフェでそんな電話はしていませんでしたよね?」
「いや、しただろう。思い出してみたまえ。7番の単勝でオールインだ、とね」
和戸村はハッと目を見開いた。
「え、な、まさか……あれは馬券を買っていたわけではなかったんですか?」
「もちろんだ。街中で"爆弾魔がいる"などと話すわけにはいかないだろう。あれは刑事君とあらかじめ決めていた符丁だよ。カフェで何かあったら連絡すると言ってあったのだ」
「な、なるほど。さすがは先生、あの時点でまさか、爆弾魔の犯行についても見抜いていたなんて! 味方の僕まで欺くなんて、さすがです!」
和戸村は深謀に尊敬のまなざしを向けるが、深謀はサッと素早く視線をそらした。
「いや、馬券は馬券で買ってしまったわけだが」
「え?」
「7番に全てを託した馬券を、な」
「念のため確認ですが、あのレースで 7番は最後にきっちり差されて 2着でしたよね」
「……」
「先生!」
詰め寄ってくる和戸村に、深謀は何か逃げ道はないかと視線をめぐらせた。そして、和戸村の手元に目が留まる。珍しく、コンビニ袋を手に提げている。
「それは?」
和戸村は何のことかとキョトンとしていたが、すぐに深謀の視線に気が付き、袋の中身を取り出した。
「今日発売の漫画雑誌です。来週から、探偵ものの新作が始まるようで、楽しみにしてるんです!」
「そ、そうか、漫画の中でも探偵は頑張ってるんだな」
「はい先生、ですから、競馬の負け分を取り返せるように、しっかり真面目に働きましょうねー!」
和戸村はそう言うと、次の依頼者のもとへと向かうべく、深謀を事務所の外へと連れ出した。
深謀の腕をつかんで引きずりながら、和戸村はふと足を止め、考えこんだ。深謀は、「カフェで何かあったら連絡すると、刑事と符丁を決めていた」と言った。
しかし、それはおかしい。
なぜなら、カフェで事件が起こることをあらかじめ知っていなければ、そんな決め事はできるはずがないのだ。
それに、カフェの中では怪しい男と麻薬の話で持ちきりで、爆弾の「ば」の字も出てこなかった。一体、いつからこの探偵は事件に勘づいていたのか。緻密な推理によるものなのか、はたまた、ただの偶然なのか。
深謀を連れ出した和戸村の手によって事務所の扉が勢いよく閉じ、その勢いで机の上の漫画雑誌がぺらりとめくれた。
「期待の大型新人、待望のデビュー! 本格ミステリ『深読み探偵の事件簿』次週スタート!」
雑誌の最後のページには、次週の予告がでかでかとした文字で書かれていた。