80話
全国高等学校将棋選手権大会――一回戦、第二局。
対局室のドアが静かに開き、百合が姿を見せた。
堂々とした足取りで入室すると、すでに席についていた対局相手――赤い登山靴を履いた横浜海浜高校の生徒と目が合う。
相手は軽く顎を引いて挨拶をした。百合も柔らかく微笑み返し、空いている椅子に腰を下ろす。
間もなく、係員の合図で振り駒が行われた。
結果は、先手・横浜海浜高校、後手・小手指原高校。
「よろしくお願いします」
二人の礼が交わされ、対局が静かに始まった。
先手の赤い登山靴の生徒は、ためらいなく初手で角道を開けた。
百合も2手目で同様に角道を開ける。得意の向かい飛車を視野に入れた構えだ。
そして3手目――先手が早くも角交換を仕掛けてきた。
(早い……!)
百合の目が細まる。だが、動じる様子はない。
スッと駒を持ち上げ、同飛車で角を取り返す。自然と向かい飛車の形となった。
続く5手目、先手はすぐさま6五角打。
盤面に緊張感が走った。
――
場面は解説室へと移る。
甲斐田節人七段が、盤面を映すモニターを指しながら口を開いた。
「横浜海浜高校は、序盤から力戦に持ち込みましたね」
その隣に座る伊達直人五段が頷く。
「この生徒は、神奈川県大会でも毎回力戦で挑んでいました。どうやら定跡よりも、混沌とした中での読み合いを好むタイプのようです」
甲斐田は肘をつきながら、モニターを見やった。
「しかし、もしこの局で小手指原が勝てば――その時点で小手指原高校のコールド勝ちが決まりますね」
伊達は眉を上げる。
「つまり、横浜海浜高校にとっては、もう一歩も引けない勝負というわけですね」
――
一方、横浜海浜高校の控室。
画面に映る盤面と解説を見つめながら、登山靴の仲間たちが肩を寄せて話し合っていた。
「うわ〜、小手指原、2ptの生徒を出してきたか〜」
黄色い登山靴の生徒がため息をつくと、青い登山靴の生徒が頬をかいた。
「ちょっと相手のオーダーの読みが甘かったかもね」
緑の登山靴の生徒が肩をすくめる。
「勝ちゃあいいんだよ、勝ちゃあ!」
「だね〜♪」
ピンクの登山靴の生徒が、いつも通りのテンションで笑い、緊張した空気を少しだけ和らげた。
――
遠く離れたロンドン。
夜が明け始める中、一人の若い男が、カーテンを閉めたままの部屋でタブレットを手にしていた。
タブレットの画面には、百合の対局のライブ配信。
眠そうにあくびを噛み殺しながら画面を見つめる彼の名は、ジョン・マッケニー――通称“ランガ”。
彼は世界チェス連盟公認のグランドマスター。
(その調子だ、ユーリ)
ジョンは百合と、MMORPG『ラストストーリー』で出会い、ゲームを通じて対局中の考え方を教えていた。
将棋についてはアマチュアだが、戦術や読み合い、相手の心理を読むことにかけては、チェスも将棋も共通している。
それゆえに、彼のアドバイスは百合にとって大きな助けとなっていた。
(こちらから攻め急ぐ必要はない……相手は混乱に乗じて強引な突破を狙ってくる。そこを突け)
ジョンの目が鋭くなる。
――
再び、対局室。
赤い登山靴の生徒は、角を打ち込んだ後、構えを崩して飛車を振り直した。
中飛車――中央突破狙いだ。
駒を一気に前線へと送り込み、力で押し通そうとしてくる。
しかし、百合は一歩も引かなかった。
「ふふっ……そう来るよね」
小さく笑いながら、金と銀を配置。
まるでバリケードを築くかのように、中央を固めていく。
一手一手が緻密で精巧。
まるで相手の動きをすべて見透かしているかのようだった。
飛車を敵陣へ突入させたい先手に対し、百合は着実にそれを封じていく。
そして数手後――
盤上は、均衡状態に入っていた。
中央突破を試みた先手と、それを完全に封じた後手。
盤面は膠着し、双方が次の一手を探る沈黙に包まれていた。




