78話
全国大会のトーナメント一回戦。一戦目の会場は、緊張と静けさが入り混じる独特の空気に包まれていた。
柚子は背筋を伸ばし、控室を出ると一直線に対局室へ向かった。
緊張よりも、わくわくする気持ちの方が大きかった。
(絶対に勝つ!)
心の中で小さく拳を握りしめ、ドアを開けると、すでに対局相手が席についていた。
目に飛び込んできたのは、くすんだ黄色の登山靴を履いた少女の姿だった。
彼女は机の向こう側に腰掛け、将棋盤の駒を指でそっと触れていた。
柚子と目が合うと、相手は小さく会釈をする。
柚子も頭を下げ、空いている椅子に腰を下ろした。
係員の合図で振り駒が行われ、結果は先手が横浜海浜高校の生徒、後手が柚子となった。
「よろしくお願いします!」
お互いに声を合わせて礼を交わすと、静かな対局室にはわずかな空調の音だけが響いていた。
先手の横浜海浜高校の生徒が迷わず指を伸ばす。
初手、5八飛――原始中飛車。
(えっ!? 原始中飛車!?)
柚子は思わず目を見張った。埼玉県大会では一度も当たったことのない形だった。
だが、次の瞬間には口元を引き締める。
(だったら、こっちも……!)
柚子は迷わず5二飛を盤上に置いた。同じく原始中飛車で真正面からぶつかる構えだ。
盤上に、熱気が立ちこめた。
――
場面はすぐ隣の解説室へと移る。
埼玉県大会でも解説役を務めた甲斐田節人七段が、対局の映像を見つめていた。
その隣には、神奈川県大会で解説をしていた伊達直人五段が座っている。
甲斐田が口を開く。
「横浜海浜高校は、原始中飛車ですか。思い切ったことをしますねえ。」
伊達がにやりと笑った。
「この子、神奈川県大会では一度も同じ戦法を使わなかったんですよ。大会後に本人から聞いたんですけど、対局前にサイコロを振って、その目で戦法を決めてるらしいです」
甲斐田が目を丸くした。
「サイコロで……。将棋で一番しちゃいけないやつじゃないですか」
「でもそれで勝っちゃうんですよ。だから手が読めない。事前研究が役に立たないのはやっかいですね。」
甲斐田は苦笑しながらもモニターに目を戻した。
「しかし、小手指原も中飛車でぶつけに行きましたか。これは面白い一局になりますよ」
――
その頃、横浜海浜高校の控室にも、解説の声がモニター越しに届いていた。
黄色い登山靴の生徒以外の仲間たちは、色とりどりの登山靴を履き、肩を寄せ合って画面を見つめている。
赤い登山靴を履いた生徒が、笑いながらつぶやいた。
「今日も元気に『ダイスロール!』って言ってたもんね」
青い登山靴の生徒が眼鏡をクイッと上げる。
「相手も埼玉県大会じゃ中飛車ばかりだったみたいだし、今日の山場は5五の天王山だな」
緑の登山靴の生徒が頷く。
「アルピニストとしては、天王山は譲れないよ」
最後にピンクの登山靴の生徒が楽しそうに笑った。
「だね〜。どっちが山頂にたどり着くか、楽しみだね!」
――
一方、小手指原高校の控室では。
柚子の指し手がモニターに映し出されるたびに、誰よりも落ち着かない人物がいた。
それは、普段はゆるふわでマイペースな福辺舞だった。
「よし! そう! ……ああ、そっちじゃないってば柚子ちゃん!」
柚子が一手指すたびに、福辺の肩が大きく上下し、思わず小さく叫ぶ。
横で扇子をたたんでいた牡丹が、不思議そうに問いかける。
「先生、そんなに熱心に……?」
福辺は振り向き、真剣な顔のまま言い放った。
「当然でしょ! 柚子ちゃんは私の愛弟子なんだから! もう、私が指してるのと同じなのよ!」
百合が思わず吹き出した。
――
対局室。
盤面はすでに中盤を過ぎ、中央の制圧戦が激しく続いていた。
相手の黄色い登山靴の生徒が指を止め、勝負手を打ち込む。
(来た!)
相手の攻め筋を読み切り、一気にカウンターを仕掛けていく。
盤上の中央――5五の天王山を制圧したのは、柚子だった。
相手の表情がわずかに歪む。
柚子はその一瞬を見逃さなかった。
(行ける!)
持ち駒をさらに盤上に打ち込み、相手玉を追い詰めにかかる。
力強い駒音が響くたびに、控室のモニターの前で福辺が「そう! いいよ!」と小さく拳を握りしめる。
数手後――
黄色い登山靴の生徒は、一度小さく息を吐いて、静かに頭を下げた。
「負けました」
柚子も、深く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
係員が淡々と告げる。
「ただいまの結果により、小手指原高校3pt、横浜海浜高校0ptとなります」
――
対局室を出た柚子は、公式戦初勝利の達成感に頬を赤く染めながら、小走りで控室へと戻る。
控室のドアを開けた瞬間、皆が一斉に振り返った。
「おかえり、柚子!」
桜の声に、柚子は満面の笑みを浮かべてピースサインをする。
「勝ってきたよ!」
控室には、ほっとした空気と小さな歓声が広がっていった。




