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75話

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

芽衣の正面に座る常盤謙信は、背筋をぴんと伸ばしたまま、ほとんど瞬きをせずに盤面を見つめていた。


静かな部屋には冷房の低い唸りだけが漂っている。

ソファにどっかりと座る祖父の伊波繁蔵は腕を組み、口元だけをわずかにゆがめて二人を見守っている。


「振り駒の結果、先手は謙信、芽衣は後手だな。持ち時間は30分切れ負けだ」


祖父の低い声が、張りつめた空気を一瞬震わせた。


謙信の初手は2六歩。

芽衣は深呼吸した後、3四歩と指した。


謙信の2手目は7六歩、芽衣は4四歩と続ける。

まだ互いに様子見をしている。

だが芽衣の心の中では、すでに緊張が走っていた。


(持久戦に持ち込みたい……)


序盤で不用意に隙を作れば、謙信の攻めは一瞬で牙を剥くだろう。

だからこそ、持久戦に持ち込み相手のミスを待ちたい。


5手目、謙信の1六歩に、芽衣は9四歩とする。

端を突き合い、探り合うように手を進める。


「どうだ、芽衣」


祖父の低く抑えた声が、後ろから響く。

芽衣は答えなかった。

駒を持つ指が少しだけ汗ばんでいる。


6四歩、8七歩打――。

謙信の指し手は迷いがなく、こちらの意図を読んでいるかのように、わずかな隙間を縫って形を整えてくる。


(隙がない……)


小さく息を吐き、駒を進める。

謙信は視線を一度だけ芽衣に向けると、ほんのわずかに口元をほころばせた。


そして23手目。

謙信が指した3四歩打。

その瞬間、盤面の空気が変わった。


「面白い……」


祖父が小さく笑う声がした。


(望むところだ……!)


芽衣は心の中でつぶやき、ひと呼吸置いてから力強く駒を打つ。

駒音が乾いて響く。


だが、謙信の攻めは速く正確だった。


(まだ……まだ大丈夫……)


形勢は五分に近いはずだ。

だが、芽衣には漠然とした不安が膨らんでいた。


そして44手目。

芽衣はわずかに迷った末に、1三桂を指した。


謙信の目が細くなり、祖父の声が小さく漏れる。


「……ん?」


(しまった……)


指した瞬間に芽衣は気づいた。

悪手だ。

相手に攻めのきっかけを与えてしまう。

局面の均衡が大きく狂った。


謙信はすぐに飛車を2六に引いて体勢を整える。

そこから先は、完全に謙信のペースだった。


「流石、俺の一番弟子だな」


祖父の言葉がどこか楽しそうに響く。

芽衣は答えず、奥歯を噛み締めた。


謙信の駒は芽衣の小さな抵抗を飲み込むように動く。


盤面を見つめる謙信の表情はずっと変わらなかった。

だが駒を置く指先には迷いがない。

ありとあらゆる手を尽くしても、差は縮まらない。

逆転の術はもうなかった。


114手目。


芽衣は深く息を吸い、駒台に手を乗せて頭を下げた。


「……負けました」


それだけを告げると、芽衣は盤を見つめたまま、深く息を吐いた。


「お疲れさん」


祖父が立ち上がり、パンパンと大きな音で手を叩いた。

芽衣を褒めているのか、からかっているのか、わからない笑みが浮かんでいる。


「さて、これで決まりだな」


祖父は謙信を見て、無言で頷いた。


「後は頼んだぞ」


謙信は軽く頭を下げた。

そのやりとりだけで通じ合う様子が、二人の付き合いの長さを物語っている。


繁蔵は何も言わずに立ち上がり、芽衣の肩をぽんと一度だけ叩いた。

無言のまま軽トラックのキーをポケットから取り出すと、玄関へと歩いていく。


「師匠、駐車場まで送りますよ」

謙信が立ち上がろうとしたが、繁蔵は背を向けたまま手を振った。


「いい。お前らは、さっさと続きをやれ」


ドアが閉まる音がした。

部屋に残されたのは、謙信と芽衣だけだった。


謙信は盤面の駒をそっと動かすと、芽衣に向き直った。


「さっそく、感想戦を始めましょうか」


芽衣はわずかに息を整え、顔を上げると頷いた。


「……お願いします」


全国大会に向けた修行が始まる。

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