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73話

8月4日、朝からじっとりとした夏の湿気が街を包んでいた。


芽衣の両親は今日も仕事で、今回は一人で祖父の繁蔵のもとへ向かうことになっている。


「行ってきます」


寝ている両親に小さく声をかけ、ドアを閉めると、芽衣は駅までの道を少し早足で歩き始めた。


電車を何本も乗り継ぎ、特急列車の窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めるうちに、芽衣は半分うたた寝していた。


真夏の日差しがガラス越しに刺し、白いシャツの袖口がじんわりと汗を吸っていく。


途中の乗り換え駅では、人の波に流されながらも、芽衣の頭の中には祖父と約束した「最後の対局相手」のことが頭の中を埋め尽くしていた。


ようやく祖父の家の最寄り駅に着いた頃には、すでに昼を回っていた。

駅前のロータリーで待っていたのは、日焼けした祖父の顔だった。


「ガハハハッ! 来たか、芽衣!」

祖父は麦わら帽子をくいっと持ち上げて笑った。


「久しぶり」


芽衣は軽く返事をすると、休む間もなく祖父に手を引かれ、そのまま車に乗せられた。


祖父の車は古い軽トラックで、車内にはうっすらと煙草の匂いが残っていた。

芽衣が助手席で小さく伸びをすると、祖父がおもむろに紙袋を差し出した。


「腹減っただろう。着く前に食っとけ」


中には、祖父が駅前のパン屋で買ったらしいサンドウィッチが二つと、お茶のペットボトルが入っていた。

芽衣は遠慮なく一つを手に取り、包み紙を破った。


車は国道を進み、少しずつ街並みを抜けていく。

芽衣はサンドウィッチを頬張りながら、運転席の祖父に声をかけた。


「浅野さんから聞いたけど、最後の対局相手って……おじいちゃんの弟子なんでしょ?」


芽衣がパンを手にしたまま尋ねると、祖父は「おう」と短く頷いた。

そして少し目を細め、遠い昔を思い出すように話し始めた。


「名前は常盤謙信ときわ けんしんって言うんだがな、あいつはちょっと変わった奴でな」


祖父の声に合わせて、車のエンジン音が単調に響く。


「生まれつき霊媒体質でな。幽霊とか、そういうのが見えるらしい」


芽衣はサンドウィッチの端をかじりながら目を丸くしたが、祖父はお構いなしに話を続けた。


「謙信が中学生のときに、江戸時代の名もなき将棋指しの霊に取り憑かれたんだ。普段の霊なら自分で除霊できるらしいんだが、そいつはどうやってもできなかったらしい。それでお祓いにも行ったが、結局どうにもならなかったそうだ」


車はゆっくりとカーブを曲がり、祖父は片手で帽子を押さえながら笑った。


「でな、謙信は直接その霊に聞いたんだと。どうしたら消えるんだってな。そしたら霊が言ったらしい。『将棋で俺を倒したら成仏してやる』ってな」


芽衣は飲み込んだパンを咳き込みそうになり、慌ててペットボトルのフタを開けた。

祖父はちらりと笑いをこらえて話を続けた。


「謙信は、将棋なんてルールくらいしか知らんガキだったんだが、当時うちの近所に住んでてな。ある晩、うちに来て頭を下げたんだ。『将棋を教えてください』ってな。」


芽衣はペットボトルのフタを閉じると、目を輝かせて祖父を見つめた。


「それで教えたの?」


「ああ。そりゃあもう毎日だ。学校から帰ったらすぐ来て、夜までな。何ヶ月もそんな日々だった。」


車の外では、蝉の鳴き声が途切れることなく響いていた。

芽衣は窓の外に目を向けながら、祖父の話に耳を澄ませた。


「でな、そんだけやったあとだ。ある晩、謙信はその将棋指しの霊と、魂を賭けて一局指したんだ。

俺もその場に同席してたんだが、あのとき初めて幽霊ってものを見た」


芽衣の手がぴたりと止まった。


「魂を賭けるって……どういうこと?」


「負けたやつの魂が消える。つまり自分の体を乗っ取られるってことだ」


祖父はそう言って、ダッシュボードをポンと叩いた。


「勝てば霊は消える。負けたら自分が消える。馬鹿げた話に聞こえるだろうが、あれは現実だった」


祖父の声には、どこか懐かしげな響きが混じっていた。

芽衣は恐る恐る口を開いた。


「……で、謙信さんは勝ったんだよね?」


祖父は大きな声で笑った。


「当たり前だろうが! 勝たなきゃ、今ごろお前にこんな話しとらん! ガッハハハ!」


助手席の芽衣も、つられて小さく笑った。

エアコンの生ぬるい風と、サンドウィッチの香りが車内にふわりと残る。


「今じゃ俺の次に強いからな。芽衣、お前にとっちゃ、いい修行相手だ」


「魂を賭けて将棋を指した人と……私が?」


芽衣は自分の指先を見つめた。

まだ見たことのない世界が、目の前に広がっている気がした。


祖父の車は緩やかに坂を下り、オフィス街へと入っていく。

地方都市には不釣り合いなほど高いタワーマンションが、青空を突き刺すようにそびえている。


「そろそろ着くぞ」


祖父はそう言うと、タワーマンションの地下駐車場へ車を滑り込ませていった。

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