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72話

8月1日。

合宿もいよいよ最終日を迎え、将棋部の面々は、昨日までの対局の疲れを感じさせない表情で食堂に集まっていた。


「さて、みんな。今日の予定だけど――」

テーブルの上に置かれた冷えたオレンジジュースのグラスを片手に、部長の十六夜桜が全員を見渡す。


「今日はもう対局はなし。午前中に少し観光をして、午後には牡丹のリムジンでそれぞれの家まで送ってもらいます」


「リムジンで観光って、なんか芸能人みたい!」

柚子が笑いながら言うと、隣で百合が小さく吹き出した。


朝食を終えると、それぞれ自分に割り当てられた個室へ戻り、荷物の片付けを始める。


芽衣も自室のベッドに腰を下ろし、荷物をキャリーバッグに詰めていった。

荷物を詰め終えて廊下を歩いていると、扉の向こうから聞こえてくる百合の小さな鼻歌や、柚子が荷物を探して慌てる声が聞こえ、自然と笑みがこぼれた。


全員が一階の広いエントランスホールに集合すると、桜が前に立った。


「それじゃあ最後に。この合宿中、本当にお世話になった別荘の皆さんに、しっかりお礼を言いましょう」


芽衣たちは一斉に背筋を伸ばす。


「「ありがとうございました!」」


老執事がゆっくりと前へ出て、穏やかな声で言葉を返す。


「皆さまの全国大会でのご活躍を、使用人一同、心よりお祈り申し上げます。どうかお身体に気をつけて、悔いの残らないようにしてくださいませ」


老執事の言葉に、芽衣の胸の奥が少し熱くなる。

隣に立つ桜が、「全力を尽くします」と力強く答えた。


真っ黒な車体が鈍く光るリムジンに、芽衣たちは手荷物だけを持って乗り込んだ。

キャリーバッグなどの大きな荷物は、行きと同様に使用人達によって別の車に積み込まれていく。


「さあ、まずは鎌倉大仏へ行こうか」

桜の声に、車内の空気が和んだ。


リムジンはゆっくりと別荘を後にし、海沿いの道を進む。

窓から見える海に、芽衣は思わず顔を近づけた。

埼玉県は海なし県なので、海はしばらく見納めだ。


柚子は百合と小声でおしゃべりを続け、牡丹はタブレットでこの後の予定を確認している。

桜は、車内の仲間たちを一人ずつ見守るように眺めていた。


高徳院に到着すると、境内にはすでに多くの観光客が集まっていた。

芽衣は目の前に立つ大仏の大きさに小さく声を上げ、スマホを取り出す。


「芽衣ちゃん、撮ってあげようか?」

福辺先生がにこやかに声をかける。


「はいっ……お願いします!」


何枚か写真を撮ってもらった後、一同は再びリムジンに戻り、今度は鶴岡八幡宮へ向かった。

朱塗りの鳥居をくぐり、静かに吹く風に包まれながら、本殿の前で手を合わせる。


芽衣は目を閉じ、心の中でそっと誓った。


(全国大会で勝ち進めますように――)


ふと隣を見ると、桜も同じように手を合わせていた。

きっと同じ願いを胸に抱いているのだろう。

芽衣は小さく息を吐き、ゆっくりと目を開けた。


お参りの後は、近くのしらす丼の有名店へ。

店内に漂う海の香りに、柚子が丼を前に目を輝かせる。


「美味しそう!」


「柚子、少し落ち着きなさいって」

桜が小声でたしなめると、柚子は頬を赤らめながら箸を口に運ぶ。


「でも美味しいもん……!」


笑い声と潮の香りがテーブルを満たし、芽衣も自然と笑顔になった。


昼食の後は、それぞれ家族へのお土産選びへ。

両親にはお菓子を、祖父には渋い木製のストラップを選び、袋に入れてもらった。


ふと振り返ると、百合が桜と並んで真剣な顔で和菓子を選んでいる。


すべての予定を終えると、一行は再びリムジンに乗り込み、夕方に差しかかる青空の下、帰路についた。


数時間後、リムジンが芽衣の家に到着した。


「別荘の準備とか送迎とか、本当にありがとうございました、牡丹先輩」

玄関の前で、芽衣が振り返って言った。


「何も気にする必要はありませんわ」

牡丹が柔らかく笑った。


桜、柚子、百合もそれぞれ手を振ってくれる。

芽衣は深く頭を下げ、スーツケースを引きながら玄関へと向かった。


玄関先で振り返ると、リムジンはすでにゆっくりと走り出していた。


(次は、いよいよ全国大会――)


芽衣はその後ろ姿をしばらく見送り、胸の奥がふつふつと熱くなるのを感じた。

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