69話
7月30日、神奈川県・三浦半島の牡丹の別荘。
浅野志之輔が去っていった後、部屋を包んでいた緊張の糸が、ゆっくりとほどけていく。
「さあ、芽衣、切り替えましょう。これから先生達との指導対局よ」
「はい。分かりました」
気を取り直した将棋部の面々は、再び屋敷奥の広間へと集まり、土門龍弥六段と不動哲九段による指導対局を受けることになった。
「んじゃ、始めようか」
土門の一言で、最初の組み合わせが決まる。
•土門六段 vs 牡丹、百合、柚子
•不動九段 vs 桜、芽衣
「せっかくだし、先生もどうですか?」
不動九段は、プールサイドで日光浴を楽しんでいた虎門に声をかける。
「いやぁ、自分はちょっと……さすがにこの格好じゃアレですし……」
ラッシュガード姿の虎門は冗談めかしながら、丁寧に辞退した。
「それは残念ですね」
不動は口元にわずかに寂しげな笑みを浮かべたが、すぐに視線を横へ向けた。
「では、あなたはいかがです? 一局お相手願えませんか」
「……私なんかで、いいんですか?」
福辺はそう言いながらも、その目にはどこか楽しげな色が宿っていた。
こうして、不動九段の対局相手は桜、芽衣、そして福辺の3人となった。
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静寂が広間を満たす中、対局が始まる。
響くのは、駒を打つ音と時計の針が刻む時間の気配だけ。
それぞれの盤で熱戦が繰り広げられ、やがて、ひとつ、またひとつと終局を迎えていった。
「はい、負けました……」
柚子が静かに頭を下げる。続いて牡丹と百合も礼を述べる。
「でも、3人とも本当に強くなってるよ。前に比べると格段に落ち着いているようだしね」
土門六段は穏やかな笑顔で言った。
「特に柚子ちゃん。攻め筋が、福辺先生の若い頃にそっくりだ」
「ほんとですかっ!?」と目を輝かせる柚子。百合と牡丹も嬉しそうにうなずいた。
一方の不動九段側では、桜と芽衣が敗れた。
不動は二人の棋譜を眺めながら、感心したように口を開く。
「……君たち二人はかなりの物だ、良い筋をしている」
「光栄です」
桜が礼儀正しく答え、芽衣も静かに頭を下げた。
そして最後まで残っていたのは、福辺舞の対局。
盤上で不動の手が止まり、駒がそっと駒台に戻された。
「……参りました」
広間の空気が一瞬静止し、続いてどよめきが走る。
「えっ、先生、勝ったの!?」
柚子の驚いた声が響いた。
「いえいえ。不動先生が手加減してくださっただけですよ」
福辺は頬をわずかに赤らめながら、謙虚に微笑む。
だが不動九段は、静かに首を横に振った。
「いや、君の実力は本物だ。さすが元奨励会三段だな」
⸻
午後。2巡目の指導対局が始まる。組み合わせは以下の通り。
•不動九段 vs 牡丹、百合、柚子
•土門六段 vs 桜、芽衣、福辺先生
各盤に、新たな戦いの気配が宿る。
不動の前では、柚子が一手ごとに真剣な表情を浮かべ、百合は静かに集中して盤と向き合っていた。
「うん、筋がいい。全国大会に向けて、しっかり仕上がってきてるようだね」
不動はやわらかく言葉をかけたあと、牡丹の盤に目を移す。
「牡丹君。君はもう少し丁寧に手順を踏もう。この一手は少し焦って見える」
普段から指導している牡丹に対しては、少しだけ厳しめのトーンだった。
それでも牡丹は、真剣な面持ちでうなずく。
「……ありがとうございます。不動先生」
一方の土門側では、桜と芽衣が再び敗れる。
盤から顔を上げた土門は、二人に向かって穏やかに言った。
「君たちは本当にレベルが高い。特に芽衣ちゃんと、さっきの百合ちゃんは、少し王道とは違った成長の仕方をしてるね」
「えっ、どういう意味ですか?」
桜が首を傾げると、土門はにっと笑った。
「セオリー通りじゃない。でも、自分なりの考えがはっきりしてる。それは自分にしかない強さになるよ」
そして、福辺と土門の対局。
福辺は落ち着いた指し回しで、再び勝利を収めた。
「えー……また勝ったの!?」
柚子の声に、福辺はさらりと返す。
「土門先生には、奨励会時代から勝ち越してるんですよ。実は」
「ちょ、ちょっと舞さん、それ言わなくていいから……」
土門は苦笑いしながら頭をかいた。
「これでも一応、今じゃ若手有望株って呼ばれてるんだけどなぁ……」
和やかな笑いが、広間を包んでいく。
陽光が柔らかく差し込む午後――
合宿3日目の指導対局は、穏やかに幕を下ろした。




