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68話

空気が、ふっと張り詰めた。

浅野志之輔と伊波芽衣の対局が、今まさに始まろうとしている。


序盤から両者ともに居飛車を採用し、角交換が行われた時点で、すでに戦いは力戦の様相を呈していた。

浅野も芽衣も、チェスクロックを打つ音が普段よりわずかに強い。その音に、観戦している将棋部の部員たちの背筋がピンと伸びる。


「……この感じ、いつもの芽衣とは全然違う」

桜が小声でつぶやいた。


横にいた牡丹も、眉を寄せて盤面を見つめる。

「そうですわね。部室や大会のときとは、まるで別人みたいですわ」


「圧が……すごいね」

百合は顎に手を当てながら、じっと盤面を見つめていた。


柚子はただ、唖然としていた。

「なんか……芽衣じゃないみたいだよ。気迫っていうか、雰囲気がさ」


チェスクロックを押す音が、まるで一発一発の銃声のように響く。


だが、34手目――。


「……あら。あれは、どうして……?」

福辺先生が小さく漏らした。


芽衣が指した34手目、3六歩打は、やや疑問の残る手だった。

その瞬間、明らかに形勢が浅野側に傾く。

観戦していた福辺の表情が、少しだけ曇った。


「うーん……芽衣ちゃん、ちょっと良くない手ね」


そこから、形勢は明確に浅野の優勢へと傾き始める。

浅野は攻勢を強め、ミスなく差を広げていく。

芽衣はじわじわと追い詰められていった。


だが、61手目。

浅野が突如、6二歩打という手を指す。


「今のは……悪手ね。5六金のほうが自然だったのに……」


その福辺の声に、百合と牡丹が顔を見合わせた。


「……え? 先生、悪手って……?」と百合が問うと、福辺はうなずいた。

「芽衣ちゃんの妙な手の連続に、ペースを崩されたのかも。わざと悪手を指して誘ってたのね……」


浅野の悪手によって、形勢は一気に互角へと引き戻された。


芽衣の瞳が、わずかに細まる。

彼女はその揺らぎにすぐ気づいたのだろう。

62手目で、彼女は再びわざと疑問手を指した。


浅野の思考が、乱れ始める。


案の定、63手目で浅野は6八金という、またしても微妙な手を選ぶ。

そして芽衣がさらに疑問手を重ねると、65手目で浅野は6九歩打――。


形勢は、一気に芽衣の優勢へと傾いた。


将棋部の誰もが息を呑む。

浅野と芽衣の戦いは、精神力を限界まで出し切る、まさに真剣勝負の対局だった。


「これは……すごいな」

近くで見ていた土門龍弥六段が、小さく声を漏らす。


(わざと悪手を重ねて、相手の思考を攪乱してる……普通、あんな指し方、誰もしない。いや、できない。……独特すぎる)


土門の目には、芽衣の対局姿が「異質」に映っていた。


そして、形勢を掌握した芽衣は、冷徹なまでの指し回しで優勢をさらに拡大していく。


最後は134手目。

「8七角成」を見た浅野が、静かに駒台に手を伸ばした。


「……負けました」


観戦者が息を飲む中、芽衣は深く一礼をした。


そして浅野は、ゆっくりと立ち上がると言った。


「ルール通り、お前さんが私に向かって猟銃を撃て」


芽衣は少し眉をひそめたが、すぐに微笑んだ。

「どうせ、両方とも空砲なんでしょう?」


浅野の目が、一瞬見開かれる。


「……見抜いていたか。どうしてだ?」


「福辺先生が、反対しなくなったからです」

芽衣は静かに言った。


「先生があのまま止めに入らないってことは、もし私が負けて撃たれたとしても怪我しないようにしてたってことかなって」


浅野は目を細め、ふっと笑った。

「なるほど……お見通しだったか」


そして浅野は、ゆっくりと語り始める。

彼が語ったのは、芽衣の祖父・繁蔵にまつわる話だった。


「……繁蔵から聞いた。大会前の最後の修行相手。繁蔵自身が教えたやつらしいな。お前から見たら“兄弟子”みたいなもんだ」


芽衣は驚いた顔で、浅野を見つめた。


浅野はそれ以上、詳しくは語らなかった。

ただそれだけを伝えると、静かに帰り支度を始めた。


「少し、お茶でも……」

牡丹が控えめに声をかける。


「いや、遠慮させてもらう。邪魔して悪かったな」

浅野は丁寧に断ると、颯爽と背を向けた。


玄関を出て、その背中が遠ざかっていく中、芽衣はひとり、ぽつりとつぶやいた。


「……兄弟子、か」


祖父が用意した“最後の修行相手”。

それを想像しながら、芽衣はぎゅっと拳を握った。

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