67話
7月30日。合宿3日目の朝は、静かな陽ざしに包まれていた。
神奈川県・三浦半島。海を望む牡丹の別荘では、ふっくらと焼かれたアジの干物や、出汁巻き卵、炊きたてのご飯と味噌汁が朝食のテーブルに並んでいた。
「えっと……部長、牡丹先輩。ちょっと話があって……」
おずおずと口を開いたのは芽依だった。ご飯をひと口口に運び、湯呑みに手を伸ばす。その動作の中に、どこか落ち着かない様子が滲んでいた。
「昨晩、祖父から電話があって……今日、私と対局する人がここに来ることになってしまいました。急に予定を増やしちゃって、すみません……」
申し訳なさそうに頭を下げる芽依に、桜と牡丹は顔を見合わせ、やがてふっと笑みを浮かべる。
「別に問題ないわよ」
「ふふっ。芽依さんのお祖父様って、あの埼玉県大会のときに来てた、声の大きな……」
「そうそう。あのテンション高めな方よね」
桜がくすりと笑い、牡丹もうなずいた。
「“ガハハッ!”って声、忘れられないよね!」
柚子も会話に加わる。場の空気が一気に和んだそのとき、ダイニングの奥でコーヒーを飲んでいた福辺先生が口を開いた。
「じゃあ、今日の指導対局の前に、そのお客さんと一局って感じかな?」
「うーん、いつ来るかは分からないので……到着次第、対局できたらなって思ってます」
やがて朝食を終えると、いよいよ今日の合宿の目玉、プロ棋士による指導対局の時間がやってきた。
まず現れたのは、土門龍弥六段。
そして、もう一人は不動哲九段。
全国大会に向けて牡丹が個人的に指導を受けている、永世称号を持つ大棋士である。
二人の登場に、部員たちは自然と背筋を伸ばし、別荘の空気に一気に緊張が走った。
「今日はよろしくお願いします!」
全員が一斉に頭を下げる。
到着後、二人は10分ほど休憩をとり、いよいよ指導が始まるというその時――
「失礼します。来客です」
使用人の声が響いた。
全員が顔を見合わせ、エントランスホールへ向かう。そこには、一人の男が立っていた。
猟師のような粗野な服装。背中には黒光りする二丁の猟銃。
異様な姿に、一瞬その場の空気が凍りつく。
「ご用件をお伺いします」
使用人の問いに、男は答える。
「伊波繁蔵の孫娘と一局、指す約束で来た。浅野志乃輔だ。……芽依ってのは、どいつだ?」
芽依が一歩前に出て名乗る。
「……私です。伊波芽依」
「そうか」
浅野はそれだけを言うと、視線を逸らした。
芽依は土門六段と不動九段に頭を下げて言う。
「すみません。私だけ一時的に抜けて、この方と一局、対局してもいいですか?」
土門はうなずいた。
「もちろん構わないよ」
「ウチ、見たい!」
柚子が勢いよく手を挙げると、土門も「面白そうだ」と頬を緩めた。
こうして、土門六段と将棋部のメンバーは見学に回ることに。
一方、不動九段は「ワシは移動でちょっと腹が減ってのう」と呟き、牡丹がすかさず使用人に指示する。
「先生を食堂にご案内して、お好きなものをお出しして」
対局は、別荘内の練習ホールで行われることになった。
畳の上に置かれた将棋盤を挟み、芽依と浅野が向かい合って座る。
浅野は座布団に腰を下ろすと、口を開いた。
「ルールはこうだ。持ち時間は30分切れ負け。手番は振り駒で決める。後手の利き手側に時計を置く」
芽依は無言でうなずいた。
だが、次の言葉に場が一変する。
「それと、負けた方はこの猟銃を一つ選ぶ。勝ったやつが負けたやつを撃つ。片方は実弾入り、もう片方は空砲だ。……運が良けりゃ死なずに済むさ」
場にいた全員が息を呑んだ。
「なっ……!? ふ、ふざけないでください!」
福辺先生が前に出て、声を荒らげる。
「そんなルール、教師として認めません!」
しかし浅野は福辺を一瞥するだけで、まるで無視するように芽依へと視線を戻す。
「お前はどうだ? 逃げても構わん。だがな――覚悟のない者が、この先、勝ち続けられると思うなよ」
「こんなの、おかしいわ!」
福辺が再び声を上げようとした瞬間、浅野が彼女に歩み寄り、耳元で何かを囁いた。
その瞬間、福辺が何かを理解したような顔になり、沈黙する。
数秒の沈黙の後、芽依は目を閉じて深く息を吸い、そして、ゆっくりと開いた。
「……分かりました。そのルール、受け入れます」
静かだが、芯の通った声だった。
桜も、牡丹も、百合も、何も言えなかった。
(これは……きっと、おじいちゃんが私にくれた、試練なんだと思う)
芽依は覚悟を胸に、再び盤に向かって座り直した。




