表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/80

58話

夏休み初日。

朝から蝉の声が全力で響き渡るなか、伊波芽衣は部屋の机に向かい、宿題のワークにシャーペンを走らせていた。


とはいえ、気持ちはどこか上の空だった。

ひと通り答えを埋め終えたところで、芽衣は鉛筆を置いた。時計の針は、まだ午前10時を指している。窓の外では、青空の下、街がゆっくりと夏を始めていた。


「……よし、行こう」


筆記用具を片付けると、芽衣は肩に小さなショルダーバッグを掛け、駅へと向かった。


向かった先は――新座台高校。

県大会の準決勝で敗れた因縁の相手。その大将と再戦するためだった。


この対局は、福辺先生が新座台の顧問を通じて手配してくれたものだ。

相手はすでに引退している3年生だったが、全国大会を控える芽衣の申し出を快く引き受けてくれたのだという。


電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られてたどり着いた見慣れぬ校舎の前。

芽衣はひとつ深呼吸をして、気を引き締めた。


校門の前には、制服姿の女子生徒がひとり、静かに待っていた。


「小手指原高校の伊波芽衣です。この度は、再戦のお願いを聞いてくださってありがとうございます」


芽衣が丁寧に頭を下げると、相手はやわらかな微笑みを浮かべて応えた。


「こんにちは。新座台高校の乃間巴のまともえです。こちらこそ、全国出場校の方から再戦を望んでもらえるなんて、光栄です」


そう言って、乃間は芽衣を校舎の中へ案内した。


土曜日にもかかわらず、将棋部の部室には数人の生徒がいた。

将棋盤を挟んで真剣な眼差しを交わす者、黙々と棋譜をノートに書き写す者と様々だった。


「こちらです」


案内された奥のテーブルに向かい合って座り、ふたりは将棋盤を前に駒を並べる。

丁寧に並び終えると、振り駒を行った。


結果は乃間の先手。芽衣は後手となった。


初手が指された瞬間、部室の空気が変わった。


乃間は三間飛車。

大会と同じ戦型で来たことで、芽衣の記憶が呼び起こされる。


(……前回は、この形に綺麗に捌かれて負けた)


だが、今日は違う。

芽衣は棒銀に構える素振りを見せつつ、バランス重視の居飛車へと柔軟に構えていった。


乃間は美濃囲いを築く。

互いに中盤への布石を打ち合いながら、じわじわと駒がぶつかる距離へと迫っていく。


(今……!)


芽衣は一瞬の隙を見逃さなかった。

乃間も鋭いカウンターを仕掛けてきたが、芽衣は怯まず、最小限の受けで切り抜けると、主力を相手の本陣へ一気に叩き込んだ。


――攻め切った。


相手の玉を詰みに導き、芽衣は静かに最後の駒を置く。


「……負けました」


乃間が潔く頭を下げる。

芽衣も一礼しながら、心の奥で小さく拳を握った。


「ありがとうございました。ようやく、リベンジできました」


その声は震えていたが、緊張ではなかった。芽衣は心から、嬉しかったのだ。


「いやあ……正直、驚きましたよ」


乃間は少し笑って言った。


「序盤の手筋も、攻めの間合いも、あのときとは別人みたいでした。ずいぶん、強くなってますね」


「そう言ってもらえると、すごく嬉しいです」


「もしよかったら――うちの後輩たち、たまたま今日集まってたんです。今のあなたの将棋を、彼らにも体験させてあげてもらえませんか?」


「もちろん。お相手させてください」


芽衣は穏やかに微笑んだ。


こうして芽衣は、部室にいた新座台の1年生や2年生たちと、次々に盤を挟むことになった。


1局目、鋭い角換わりを制して完勝。

2局目、振り飛車党の相手にも落ち着いて対応し、終始優勢のまま押し切る。

3局目、序盤から主導権を握り、圧倒的な差で快勝。


結果は三戦全勝。


芽衣は一人ひとりに丁寧に礼を述べ、部室を後にした。


夕方、新座台高校の校門前。

空は茜色に染まり、蝉の声はさらにその音を増していた。


「本当に、今日はありがとうございました。おかげで、自分の成長を実感することができました」


芽衣が深く頭を下げると、乃間は涼しげな表情で首を振った。


「こちらこそ、受験勉強の良い気分転換になりました。全国大会、応援してます。あなたなら、きっと、いい将棋が指せますよ」


「……頑張ります」


ふたりは再び頭を下げ合い、別れた。


帰りの電車の中。

芽衣は窓の外をぼんやりと眺めていた。

風景が流れていく。見慣れた住宅街。沈みゆく夕日。


(――私は、ちゃんと、強くなってる)


あのとき、涙を呑んで終わった準決勝。

その相手に、今の自分で勝てたこと。

それは、これまでの努力と修行が、決して間違っていなかったという証だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ