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55話

夜。

芽衣のスマートフォンが小さく震え、夜の静寂を破った。


画面に表示された発信者名は「祖父」。

その文字を見た瞬間、自然と背筋が伸びる。

祖父・伊波繁蔵からの電話は、決まって将棋に関する用件だ。


「もしもし、おじいちゃん?」


『ガハハハッ!芽衣か、元気そうだな!』


その豪快な笑い声に、芽衣の頬がふっと緩んだ。

それは、幼いころから変わらない、どこか安心する響きだった。


『次の対局相手との日程が決まったぞ。来週の日曜日、東京のある場所で打ってこい』


「場所って、どこ?」


『……羽鳥探偵事務所というところだ』


「た、探偵事務所……?」


思わず声が上ずる。


『住所はあとで送っておく。準備しておけよ』


「う、うん……分かった」


電話が切れたあとも、芽衣はしばらくスマホを持ったまま、その画面を見つめていた。


(将棋の対局で……探偵事務所? どういうこと……?)



日曜日。快晴。

芽衣は地図アプリを頼りに、東京都23区内のとある雑居ビルの前に立っていた。


建物は年季が入っており、外壁にはくすんだ金属製の看板が取り付けられている。


《羽鳥探偵事務所 二階》


(ここ、で合ってるよね……)


看板を見上げながら、芽衣が一歩を踏み出したそのときだった。


「ねえ、お姉さん!」


背後から声をかけられ、慌てて振り返ると、小柄な男子小学生が立っていた。

年の頃は小学校の低学年といったところ。

短く刈られた髪に、鋭い目つき。だが背中にはランドセルを背負っており、そのアンバランスさが印象的だった。


「お姉さん、事務所に用事?」


「うん……そうだけど」


「やっぱり! 僕、隅田川レフトって言います!」


「……レフト?」


「野球のポジションから取ったんだって! あ、こっちこっち!」


名乗るなり、レフトと名乗った少年は、当然のように建物の中へ入っていく。

芽衣は戸惑いつつも、慌ててその背中を追った。


「レフトくんは、この探偵事務所の関係者なの?」


「うん! 僕のおじいちゃんがやってる探偵事務所なんだ!」


「そうなんだ……」


「今日お客さんが来るって聞いてたから、もしかしてこのお姉さんかなって思って声かけたんだよ」


二階にある一室。

扉には控えめな金属のプレートで「羽鳥探偵事務所」の文字。


芽衣がそっとドアノブに手をかけると、カチリと音を立てて開いた。


中は意外にも整理されており、古びた木製の家具や調度品がどこか懐かしさと重厚さを醸し出している。


部屋の奥、大きな革張りの椅子には、一人の老人が腰を下ろしていた。


紺色のスーツにネクタイを締めた姿は、まるで刑事ドラマに出てくる名探偵のような佇まい。

だがその本人は目を閉じ、静かに寝息を立てていた。


「また寝てるよ……」


レフトが呆れたように肩をすくめ、老人の肩を軽く揺する。


「じいちゃん、起きてー。お客さん来たってば!」


「んん……? む、ふぁ……」


しばらくして、老人が目を覚まし、ゆっくりとまばたきをしながら芽衣の姿を認めた。


「失礼します。伊波芽衣です。祖父の伊波繁蔵に言われて、こちらに……」


芽衣が丁寧に一礼すると、老人はゆったりと頷き、重厚な声を発した。


「ようこそ。私は羽鳥大五郎。君の祖父とは古い付き合いでね。全国大会を控え、武者修行中だと聞いている」


「はい。本日はよろしくお願いします」


「礼儀正しいな。感心だ」


羽鳥大五郎は椅子からゆっくりと立ち上がり、部屋の中央にある応接セットへと向かう。

そのテーブルの上には、すでに将棋盤と駒箱が準備されていた。


芽衣もその後を追い、羽鳥の正面に腰を下ろす。


「ここで指すんですね」


「ああ」


「僕も見てていい?」


レフトが無邪気に尋ねる。


「邪魔をしないなら、いいぞ」


「やったー!」


羽鳥が微かに口元を緩め、芽衣も自然と緊張がほぐれた気がした。

二人は黙々と駒を並べ始める。


(空気が……張り詰めてる)


芽衣はごくりと唾を飲み込み、盤面を見つめた。


「持ち時間は10分切れ負けで、どうだろう?」


「分かりました。お願いします」


羽鳥が振り駒を行い、芽衣が先手となる。


(よし……先手。冷静に、落ち着いていこう)


羽鳥は一度、小さく頷いた。


「では、始めようか。伊波芽衣くん」


芽衣も静かに頭を下げ、心の中で気持ちを整える。


「よろしくお願いします」


盤上に置かれた駒が、静かに――だが確かな響きで、羽鳥探偵事務所の空気を切り裂いた。

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