50話
「よし、じゃあ始めようか」
まーさんが笑みを浮かべ、盤の前で背筋を伸ばした。
「お願いします」
芽依も静かに頭を下げる。
「お願いします」
互いに礼を交わし、チェスクロックが静かに時を刻み始める。
——先手、まーさん。後手、芽依。
まーさんは初手▲2六歩と突き、居飛車を選択。芽依も△8四歩と応じ、序盤はごく自然な立ち上がりとなった。
そして数手後、角交換が入り、盤面は「角換わり」へと姿を変える。
「ほぉ、棒銀じゃないんだね」
まーさんが軽く目を見張った。
「ちょっと意外だな。てっきり、また真っ直ぐ突っ込んでくるのかと思ってたよ」
「……前に、県大会で棒銀を完璧に対策されて負けたんです。それで、ワンパターンじゃ通用しないって気づきました」
芽依は一度言葉を区切ってから、静かに続けた。
「それから、いろいろ試してみるようになったんです」
まーさんは感心したように頷く。
「なるほどねぇ。柔軟になったんだな」
二人のやり取りを黙って聞きながら、祖父は芽依の背後で腕を組んでいた。口を閉ざし、視線だけを盤に落としている。
駒が進む音と、蝉の鳴き声が混ざり合い、夏の公園に静かな緊張感が漂っていく。
まーさんは次第に駒を前へと進め、攻めの形を整えていった。
先手の意図が、はっきりと見えてくる。
「さて、芽依ちゃん。受け切れるかな?」
「……!」
芽依は黙ってうなずくと、自陣に兜矢倉を築いて対抗した。
今までの彼女なら、ノーガードの殴り合いに突っ込んでいたかもしれない。
——でも、今は違う。
あの頃の自分は、もういない。
まーさんの攻めは厚かった。歩の連打、端攻め、角の遠当たり——一手一手に重みがあった。
それでも芽依はじっと受ける。持ち駒を無駄にせず、守るべきところを守り、無理な反撃はしない。
一進一退の攻防が続いた末——ついに、まーさんの攻め手が止まった。
その瞬間、芽依の目に、一筋の光が差し込む。
「……今だ」
矢倉の奥から銀が飛び出したタイミングを見計らって、芽衣は相手の玉頭を狙う。
まーさんは受けに回る。
しかし——そこでミスが出た。
「しまった、これは……!」
受けを誤った一手。芽依はすかさずそこを突いた。盤面は一気に逆転する。
「うまいなあ……」
まーさんが苦笑する。
「無理やり潰しに行くしかないか!」
追い込まれたまーさんが、力技のように攻め返してくる。だが、それは形を成していなかった。
芽依は深呼吸をし、盤面を俯瞰する。
——焦らないで。全体を見る。落ち着いて。攻めに混乱しない。
今までの芽依なら、ここで攻め込まれてパニックになったかもしれない。でも、今は違う。
冷静に、受けるべきところは受け、逃げ道を封じ、玉の逃走経路を完全に断つ。
まーさんの玉は徐々に追い詰められ、ついに逃げ道を失った。
「……負けました」
まーさんが静かに頭を下げる。
芽依も頭を下げ返した。
「ありがとうございました」
蝉の声が、一段と強くなったような気がした。
——静かに、しかし確実に、自分は強くなっている。
まーさんが肩をすくめて笑った。
「いやぁ、参った参った。芽依ちゃん、短期間でほんと強くなったねぇ。若い子は吸収が早いや」
「ふっ……まあ、オレの孫だからな」
祖父が口を開き、満足そうに笑った。
「でもな、まだまだここは通過点だ。次の対局も気を抜くなよ」
「……うん」
芽依は、汗をぬぐいながら頷いた。
———
対局が終わると、三人は巣鴨の駅前まで戻ってきた。
「じゃあ、芽依。次の対局相手が決まったら、また電話するからな」
祖父がそう言って、芽依の肩を軽く叩く。
「うん、分かった。ありがとう」
「まーさんも、ありがとうございました」
「こちらこそ楽しかったよ。また指そう。あ、そうそう」
まーさんが思い出したように、手提げ袋を差し出す。
「勝者へのご褒美。シフォンケーキと焼き菓子、芽依ちゃんが来る前に買っておいたんだ。あとで家族で食べな」
「えっ……本当に?ありがとうございます!」
芽依は両手で袋を抱きしめ、何度も頭を下げた。
「じゃあな、芽依。しっかりやれよ!」
祖父とまーさんが手を振りながら去っていく。
その背中を見送りながら、芽依は袋をぎゅっと抱きしめた。
——勝った。でも、それだけじゃない。
着実に自分が強くなっていると実感できた一日だった。




