49話
全国大会のルール説明を受けた日の夜。
芽依は自室で英語の宿題をこなしていた。夏の夜の蒸し暑さの中、扇風機の風が静かに揺れるカーテンを通り抜けてくる。
そのとき、スマートフォンが震えた。画面には「祖父」の文字が光っている。
寝る準備をしていた芽依は、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、おじいちゃん?」
『ガハハハッ!芽依か。元気にしとるか!』
耳をつんざくような大声。いつもの調子である。
「うん、元気だよ。どうしたの?」
『実はな、今度の土曜日、オレとまーさんで東京観光に行くんだ。せっかくだから、お前も来い』
「えっ、観光? 私も一緒に?」
『そうだ。観光だけじゃないぞ。まーさんと一局やってもらうぞ』
芽依の心臓が、ひとつ跳ねた。
「……まーさんと?」
『ああ。リベンジのチャンスをやろう。巣鴨駅で午前11時集合でどうだ?』
「分かった。行く」
通話が切れたあと、芽依はスマートフォンを胸に抱え、そっと目を閉じた。
あの日の悔しさが、胸の奥からよみがえる。
―――リベンジマッチか。
まーさんとの前回の対局は、完敗だった。
押し切られるような敗北感が今も心に残っている。
けれど今度こそ——と、芽依の中に闘志が灯った。
―――
そして土曜日。空は雲ひとつない快晴だった。
強い日差しが、電車の窓ガラスを照らしている。
車窓に映る芽依の顔は、どこか引き締まって見えた。
自宅の最寄り駅から電車に揺られて約40分。
降り立ったのは「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれる巣鴨駅だった。
改札の前では、すでに見慣れたふたりの姿があった。
まーさんがサングラスをかけ、革ジャン姿で大きく手を振っている。
「よっ、芽依ちゃん!」
その隣には、恰幅の良い祖父が立っていた。
「おじいちゃん、まーさん、お待たせ」
「ガハハハッ!よく来たな!」
祖父が豪快に笑い、周囲の視線を集める。
「さて、まずは腹ごしらえだな。オレが行きたかった店がある」
そう言って、祖父は意気揚々と歩き始めた。
向かった先は、駅からほど近い昔ながらの中華料理店。
昭和の面影が色濃く残る店内には、手書きのメニューが壁一面に貼られている。
「餃子定食一つ!」
まーさんが元気よく注文する。
「オレは回鍋肉定食じゃ」
祖父も続き、芽依はチャーハンセットを選んだ。
麻婆豆腐からは山椒の香りが立ち上り、チャーハンはパラパラと香ばしい。
料理はどれも、見た目以上に美味しく、三人とも箸が止まらない。
食事中は、まーさんの最近の趣味——将棋とギターの融合ライブ企画や、祖父の昔の道場の話などで盛り上がる。
笑い声が絶えず、芽依も自然と表情がほころんでいた。
食後、一行は近くの公園へ向かった。
少し早い蝉の鳴き声が響く中、木陰のベンチを見つけて腰を下ろす。
祖父がリュックから、持ち運び用の折りたたみ式マグネット将棋セットを取り出す。
「ガハハハッ!ここからが本番だな」
祖父が駒箱を開けながら言うと、空気がすっと引き締まった。
「今回の修行は、全部で4人との対局になる。マジカル伊藤、まーさん、それからもう二人。そして、4人に勝ったら……最後にオレと指す」
「うん、分かった」
芽依は拳を握った。目が真剣そのものになる。
「マジカル伊藤との対局は、技術よりも“動揺しない力”を鍛えるのが目的だった。
将棋は盤上だけじゃない。心の揺れも勝敗を分ける。お前はあの対局で、それを体感したはずだ」
祖父の声には重みがあった。
芽依は、あの対局を思い出す。
不正行為に惑わされず、冷静さを保とうとした時間。
あれが無駄でなかったと、今なら胸を張って言える。
「そして今日の相手は、まーさん。純粋な再戦だ」
「ふふん、今回は遠慮しないぞ、芽依ちゃん」
まーさんが笑って指を鳴らす。
「私も、負けません!」
芽依はスマートフォンを取り出し、チェスクロックのアプリを起動した。
「持ち時間は?」
「前回と同じ、10分切れ負けでどうだ?」
まーさんが提案し、芽依は頷いて設定を済ませる。
祖父が振り駒用の駒を5枚手に取り、ベンチの上に投げた。
「歩が3枚表か。先手はまーさんだな」
「よしっ」
まーさんが小さくガッツポーズを取る。
二人は向かい合って座り、盤に駒を並べ始めた。
公園には蝉の声が響き、木々の葉が風にそよぐ音が心地よく耳に届く。
芽依は深く息を吸い、視線を盤に落とす。
——今回は、勝ちたい。
前回の自分とは違う。
どれだけ成長したかを、盤の上で証明したい。
「じゃあ……よろしくお願いします!」
「よろしく!」
巣鴨の空の下、リベンジマッチが今、始まろうとしている。
——これは、単なる再戦ではない。
芽依にとって、己の“成長”を見せつける大切な一局だ。




