46話
福辺先生の自宅には、ほんのりとアロマの香りが漂っていた。夜の静けさの中、優しい照明がリビングをやわらかく包み込んでいる。
クッションにもたれた福辺舞は、ヨガマットの上にうつ伏せになり、リラックスした表情を浮かべていた。
「今日もありがとね、柚子ちゃん」
「いえいえ~。先生、腰がつらそうですね。ちょっと強めにいきますよ~」
にこにこしながらマッサージオイルを手に取る柚子。住み込みの内弟子として福辺先生の家に暮らす彼女は、将棋の稽古の合間にこうして先生の疲れを癒すのも“日課”のひとつだった。
オイルを手のひらで温め、柚子はそっと先生の腰に手を添える。
「おぉ~、気持ちいい……。柚子ちゃんの手、ほんとあったかいねぇ」
「でしょでしょ? 家事だけじゃなくて、マッサージも得意なんですよ!」
「私、どんどんダメ人間になっちゃうよ~」
(ほんとに……最近、ご飯も自分で作ってないし……これでいいのかな、私)
心の中でそうつぶやきながらも、福辺の表情はどこか穏やかだった。
「そうだ先生、明日は部活休みですよね?」
「うん、そうだけど?」
「実は放課後にちょっと用事があって、出かけてきます」
「ふふっ、どこ行くの? 彼氏でもできた~?」
茶化すように笑う福辺に、柚子はぷくっと頬を膨らませた。
「も~、そういうんじゃないですって! 男子と会うのはホントだけど、将棋のリベンジマッチなんです!」
「へぇ〜?」
「この前、決勝トーナメントの前にクラスの男子に負けちゃってて……その男子と時間が合ったから、リベンジお願いしたんです!」
「偉いじゃない」
「えへへ。だから明日は、ちょっとだけ帰りが遅くなっちゃうかもです」
「わかった。いってらっしゃい、頑張っておいで」
福辺の穏やかな声に、柚子はにこっと笑ってうなずいた。
***
翌日の放課後。ファストフード店に現れた柚子は、すでに席についていた藻武の姿を見つけると、明るい声で呼びかけた。
「藻武くーん! 待った?」
「ううん、今来たとこ」
柚子はバッグを置き、真剣な表情で向かいに座る。
「じゃあ、さっそくだけど……リベンジ、お願いしてもいい?」
「もちろん。10分切れ負けでいいよね?」
「うん!」
振り駒の結果、藻武が先手、柚子が後手になった。
駒を並べ終えると、互いに一礼して、静かに戦いが始まる。
藻武の初手は▲7六歩。そこから四間飛車へと構える。一方の柚子も、得意の中飛車で応じた。
(あのときよりも……落ち着いて駒が見える)
福辺との日々の稽古で、柚子には相手の狙いを読む力が少しずつ身についていた。
(ここで角を引いたってことは、銀を使いたいんだろうな……)
小さな意図の積み重ねを一つひとつ読み取り、丁寧に受けていく。
だが、藻武は駒損を厭わず、角を切ってでも強引に攻めてきた。
柚子はそれにも動じず、冷静に対応する。攻めの隙を突き、じわじわと反撃。
終盤には持ち駒を巧みに使い、王手の連続で藻武を追い詰めていく。
「……負けました」
藻武は素直に頭を下げた。
「この短期間で、ずいぶん強くなったね。驚いたよ」
「うふふっ、師匠がいいからね~!」
柚子はウィンクしながら、にっこりと笑った。
「でね、今日付き合ってくれてありがとう。それから、この前のお礼も込めて……」
バッグから取り出したのは、可愛くラッピングされたクッキーの包み。
「これ、私の手作り。よかったら、食べてね」
「……えっ、ほんとに? ありがとう」
少し照れながらも、藻武は受け取り、やわらかく笑った。
「じゃあ、そろそろバイトの時間だから。また学校で」
そう言い、藻武は手を振って帰っていく。
柚子は小さく手を振り返し、その背中を見送った。
(やった! 勝てた!)
春の空気に包まれながら、足取り軽く帰路についた。
***
その夜、福辺先生の家。
夕食を終え、ソファでくつろぐ福辺に、柚子がにこにこしながら報告する。
「先生!今日、リベンジ成功しましたっ!」
「おぉ~、それはめでたい。でもねぇ、もしまた負けてたら……罰ゲームで“1分間くすぐりの刑”にしようと思ってたのに~」
「えぇ~!? 先生、ひどいっ!」
頬を膨らませる柚子。そして、すかさず福辺のわき腹をつんつん突く。
「ひゃっ、ちょ、柚子ちゃん、や、やめてっ、くすぐったいっ!」
「1分間、くすぐってやる~!」
「勝ったのに!ギブギブギブ!!」
福辺は真っ赤な顔でギブアップ宣言。柚子はようやく手を止め、ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
(先生と過ごす時間も、将棋も、全部が私の宝物)
柚子はまたひとつ、次のステージへと進んでいく。




