45話
「お願いします」
「おう、よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん」
ふたりの声が静かに重なった瞬間、遊戯室の空気がぴんと張り詰めた。
居合わせた高齢者たちも、さりげなく耳を傾けている。
ゲームの音や麻雀牌の音が背景に鳴り響く中、盤上では静かな戦いが始まった。
先手はマジカル伊藤。盤に指を置いた彼は、迷いのない動きで▲2六歩と初手を指す。
芽衣も静かに△8四歩と応じた。互いに居飛車を選び合い、芽衣はお馴染みの棒銀の形に組んでいく。
(いつも通りに指せば大丈夫。変に構えず、落ち着いて……)
マジカルの手は軽快で、その指し回しにはリズムがあった。だが――
(え……この陣形、なんだろう?)
彼の駒組みは、芽衣の見慣れない形をしていた。
実のところマジカルは“アヒル囲い”を使っていたのだが、芽衣はそれを知らなかった。
その代わりに彼女の目に映ったのは、9七の角頭の薄さだった。
(ここ……守りが甘い。いけるかも)
△9五歩。マジカルは同歩と応じ、芽衣は勢いよく△同銀と銀を繰り出す。
そこから8筋を巡る激しい攻防が始まった。
芽衣は、自分の棒銀の展開に持ち込めたことに手応えを感じていた。
(これなら……いける。形も悪くない)
だが、手を進めるにつれ、じわじわと劣勢に追い込まれていくのを感じる。
読みの先には、マジカルの▲5三角成が潜んでいた。芽衣は常にその一手に警戒しながら局面を組み立てていく。
やがて戦いは、駒が入り乱れる力戦模様へと変わっていった。
定跡も読み筋も通用しない、“感覚”で戦うような将棋。
それでも、芽衣は懸命にくらいついた。
そのときだった。
「おーい、木場さん。コーヒー、ブラックで頼むぜ」
マジカルが近くの職員に声をかける。明るく響いた声に、空気がわずかに和らぐ。
職員が笑顔でうなずくと、芽衣の方にも声をかけた。
「伊波さんも、何か飲みますか?」
「あっ、じゃあ……アイスティーをお願いできますか?」
「はい、かしこまりました」
芽衣は一瞬だけ盤から視線を外し、職員に顔を向けた。
その刹那。
マジカルの指がすっと動き、盤上の駒のひとつが音も立てずに入れ替えられた。
芽衣は再び盤に目を戻す。
(あれ……?)
わずかに違和感があった。しかしすぐにその感覚は打ち消される。
(さっきまでの乱戦で、見落としかな……)
間もなくして、職員が飲み物を持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
芽衣は丁寧に礼を述べ、アイスティーを受け取る。
再び職員に視線を向けたその一瞬――
マジカルの手が再び動いた。
今度は持ち駒の歩と、盤上の香車が入れ替えられる。わずか数秒の出来事だった。
盤面に目を戻した芽衣は、再び胸に刺さる違和感を覚えた。
(……やっぱり、何か変)
さっきまでそこになかったはずの香車。けれど気のせいかもしれない。そう思いかけたそのとき――
「……あの、ちょっと……」
芽衣が何かを言いかけた瞬間、
「対局中に、よそ見しちゃダメだぜ?」
マジカルの口元に浮かぶ笑み。その言葉には、どこか鋭さが含まれていた。
(ズル……してる? でも、証拠なんて……)
芽衣は口をつぐみ、静かにうなずいて一手を指した。
局面はさらに苦しくなっていく。
(負けたくない)
芽衣は懸命に粘り、相手の隙を探った。
そして終盤――マジカルが歩を打ち損ねる、小さなミスを犯したその瞬間。
(今だ!)
芽衣は一気に攻めに転じた。流れるような手順で玉の逃げ道を奪っていく。
「負けました」
マジカルが静かに言い、芽衣は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
マジカルはにやりと笑い、コーヒーを飲み干した。
「思ったよりもずっと強かったぜ。あのジジイが鼻高々に話すわけだ」
「……いえ、まだまだです」
「まーさんから聞いてる。お前のじいさん、まーさんを含めてあと三人、お前の相手を用意してるらしいな」
「えっ……三人も?」
「ふふ。お楽しみってやつさ。他の三人は、俺よりも強い。いい修行になるぜ」
対局を終えたふたりは、並んで遊戯室を出て、玄関まで歩いた。
マジカルは帽子を軽く持ち上げて、芽衣に挨拶する。
「またな、お嬢ちゃん。次も頑張れよ」
「……はい。ありがとうございました」
玄関の扉が閉まり、芽衣は高嶺老人ホームを後にした。
***
その夜、芽衣は自宅で祖父に電話をかけた。
「……もしもし、おじいちゃん? 今日、マジカルさんに勝ったよ」
電話の向こうから、豪快な笑い声が響く。
「ガハハッ! そうかそうか! そりゃあすげえ! やっぱりお前はやると思ってたぜ!」
「でも、すごく変な人だったよ……ズルしたかもって思った瞬間もあったけど」
「アハハ! あいつはそういうやつだ。けど、勝ったなら文句なしだ」
「うん……ありがとう」
「さて、次はまーさんか。お前なら、もっと面白い将棋が指せるだろうな」
そして、祖父はそのまま電話を切った。
(あと三人……まだまだ、強くなれる)
芽衣の中に燃える炎は、ますます勢いを増していくのだった。




