44話
ある日の夜、伊波芽衣のスマートフォンが、静かな着信音を響かせた。ディスプレイには「祖父」の文字が表示されている。
「……もしもし、おじいちゃん?」
受話口から聞こえたのは、祖父の大きな声だった。
「ガハハッ!芽衣か!」
「うん、どうしたの?」
「前に言っていただろう。誰か強い相手と指しておきたいって」
芽衣は小さく頷いた。県大会を勝ち抜き、次に控えるのは全国大会。その前に、さらなる実戦経験が欲しいと祖父に相談していたのだ。
「それでな。ちょっと変わり者だが、腕は確かな人物に話を通した。次の土曜日、高嶺老人ホームって施設に行け!」
「……老人ホーム?」
意外な場所に、芽衣は思わず聞き返した。
「ああ。埼玉の北の方にある施設だ。入居には一億かかるとかなんとか……まあ、そういう話は置いておくか」
「うん……じゃあ、時間と場所を詳しく教えてもらえる?」
「メモはできるか?」
芽衣はスマートフォンのメモアプリを開き、祖父の言葉を一つひとつ丁寧に打ち込んでいく。そして会話が終わると、静かに電話を切った。
(どんな人と指すことになるんだろう……)
胸の奥に、期待と不安が静かに入り混じっていた。
***
土曜日――。
冬の朝の冷たい空気の中、芽衣は電車を乗り継いで「高嶺老人ホーム」へと向かった。
玄関は白を基調としたモダンな造りで、まるで高級ホテルのような佇まいを見せている。
「すご……これ、本当に老人ホーム?」
中に入ると、受付にいた職員がにこやかに声をかけてきた。
「伊波芽衣さんですね。お待ちしておりました。お相手の方がお待ちです。こちらへどうぞ」
案内されて廊下を進んでいくと、広々とした遊戯室にたどり着いた。そこには麻雀卓、卓球台、最新型のテレビゲーム機……十数人の高齢者たちが、それぞれの趣味に興じていた。
芽衣は周囲を見渡しながら、きょろきょろと首を動かした。
(え、どの人が対局相手なんだろう……)
ふと、職員が手を上げた。
「あちらにいらっしゃいます。あのテンガロンハットの方です」
目を向けると、奥のダイニングテーブルのようなスペースで、ひとり座っている老人がいた。テンガロンハットをかぶり、ダンディな口ひげにベストとブーツ――まるで西部劇から抜け出してきたかのような装いだった。
芽衣は少し戸惑いながらも、意を決して歩み寄った。
「あの……こんにちは。伊波芽衣と申します。祖父の紹介で来ました」
老人はゆっくりと顔を上げる。
「おお、お嬢ちゃんか。……なるほどなるほど。あの人の孫ってわけか。ふむ……目つきは似てるな」
そう言って、彼はニヤリと笑った。
「名前は“マジカル伊藤”。通称“マジカル”。そう呼んでくれりゃいいさ」
「……マジカル、さん……?」
「元ババ抜きのプロさ。ま、昔は命を賭けたゲームもしたもんだ。お前のじいさんには、そのとき助けられたんだ。だからこうして、借りを返すってわけだ」
(元ババ抜きのプロって……何!?)
芽衣は戸惑いながらも、どこか憎めない雰囲気に、悪い人ではなさそうだと感じていた。
「で、お前と将棋を指せって話だろ。ちょいと手合わせしてやるよ」
そう言うとマジカルは、遊戯室の棚から将棋盤と駒を取り出し、手際よく準備を始めた。
駒を並べる手つきには無駄がなく、美しい流れで整っていく。芽衣が感心しているうちに、マジカルは自然な動作で、自分の右手側にチェスクロックを配置した。
芽衣がぼんやりしている間に、すべての準備が整っていた。
「じゃあ、10分切れ負けでいこう。異論は?」
「あ、えっと……はい、わかりました!」
マジカルのペースにすっかり乗せられ、気がつけばルールまで決まっていた。
「んじゃ、振り駒な。俺が振るぜ」
彼は手際よく歩を掴み、盤上で振った。表が多かった。
その手際は滑らかで、まるで手品のような手さばきだった。駒が宙を舞い、自然に、しかし不思議と“表”の数が多く出る。
「よし、俺が先手だな」
(……あっという間に、全部決まった)
芽衣は目の前の相手に圧倒されていた。奇抜な格好、不思議な経歴、飄々とした態度――けれど、そこには確かな“力”を感じさせる何かがある。
(きっと、この人……強い)
芽衣はゆっくりと深呼吸し、盤に向き直った。
(負けない。どんな相手だって――全力で)
西部劇のような格好の男と、芽衣の真剣勝負が、いま幕を開けようとしていた。




