43話
平日の夕暮れ、結城家の邸宅――。
広々とした洋風の一室には、天井の高い空間に真っ白なカーテン、大理石調の床、クラシカルな家具が整然と並んでいた。
その一角に腰掛ける結城牡丹は、一見優雅に見えながらも、眉間にわずかな皺を寄せていた。
「……このままで、本当に全国で通用するのかしら」
小さく吐息をもらしながら、牡丹は自室の将棋盤に視線を落とす。
全国大会まで、あと約二ヶ月。
心の奥に、ふと芽生えた焦り――。
(みんな、自分なりの“強くなる方法”を探してる。わたくしだって……)
牡丹は、将棋を学ぶ環境に恵まれていた。
将棋を始めたのは五歳の頃。
それ以来ずっと、週に一度、家に招かれるプロ棋士から指導対局を受けてきた。
(でも、今のままでは、きっと足りない)
牡丹の手がスマートフォンへと伸びる。
電話帳から「祖父」の名前を選び、発信ボタンを押す。
『もしもし、牡丹か。どうした?』
穏やかでありながら、芯のある声。
牡丹が最も信頼を寄せる人物――かつて将棋界の重鎮と呼ばれた祖父だった。
「お祖父様。全国大会に向けて……もっと強くなりたいんです。何か、特別な方法はないかしら?」
『ふむ……あの頃のお前なら、そんなことは言わなかったな』
「え?」
『お前はこれまで、私や両親が敷いたレールの上を歩き続けてきた。そんなお前が、自分から何かをしたいと言い出すとは……良い仲間と出会えたようだな』
一瞬の沈黙のあと、祖父はゆっくりと口を開いた。
『ならば……私の古い知り合いに頼んでみよう。引退したが、永世称号を持つ棋士だ。指導対局をお願いしてみる価値はある』
「……それを、お願いします。他の習い事はすべて休んででも、その時間をつくります」
牡丹の声は迷いがなかった。
『……お前も、変わってきたのだな』
電話を切った後、牡丹はゆっくりと窓の外を見上げる。
冬の星が、静かに淡く瞬いている。
その瞳には、いつになく強い光が宿っていた。
***
その頃、十六夜桜もまた、自室で一人、机に向かっていた。
小さな棚に無造作に積まれた将棋の本、乱雑に広げられた棋譜ノート。
隣の部屋からは、弟のいびきが微かに聞こえてくる。
(全国大会……どうすれば、もっと強くなれるんだろう)
桜は顎に手を当て、天井を見上げた。
大舞台が近づくにつれ、心の奥に沈んでいたある記憶が、時折顔を出す。
思い出したくない。でも、忘れられない。
中学時代、努力に努力を重ねて臨んだ全国大会。
結果は、まさかの一回戦敗退。
対局後、会場のトイレでひとり、ひたすら泣いていた――。
(あの悔しさ、今でも消えない)
自分が成長していることは自覚している。
部長として仲間を引っ張りながら、少しずつ変わってきた。
けれど、心のどこかで、あのときの“私”が足を引っ張っている。
そのとき、不意にスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前――恩師の「深井先生」。
「……え? 先生?」
通話を繋ぐと、懐かしい声がスピーカー越しに響いた。
『桜さん、聞きましたよ。小手指原高校、県大会優勝おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『どうしました? 元気がないですね。何か悩みごとですか?』
桜は驚いた。
たった一言、声を聞いただけで、自分の内面を見抜かれるとは思っていなかった。
「……全国大会が近づくたびに、あのときのことを思い出すんです。中学の全国大会で、一回戦で負けたあのときのことを」
『なるほど……』
しばらくの間、電話の向こうに沈黙が流れる。
だがその静けさは、言葉よりも深い“共感”を伝えていた。
『桜さん。あなたに今、必要なのは棋力を上げることではありません。過去の自分と向き合い、それを乗り越える覚悟です』
「……覚悟、ですか」
『ええ。自分自身で“将棋との向き合い方”を見つけるのです』
そう言い残し、先生は「また何かあったらいつでも連絡しなさい」と言って電話を切った。
桜はスマホをそっと机の上に置き、ふうっと息を吐いた。
「将棋との……向き合い方」
すぐに答えが見つかるとは思わない。
けれど、それが今の自分にとって本当に必要な問いなのだと、胸の奥で確信した。
(あのとき負けた“私”を、今の“私”が乗り越えてみせる)
静かな夜。
それぞれの部屋で、二人の少女は確かに、新たな一歩を踏み出していた。




