41話
夜、静かな自室。
伊波芽依は将棋盤の前に座っていた。机の上には、県大会で敗れた新座台高校の大将との対局の棋譜が並んでいる。
(……どうしよう)
将棋盤をじっと見つめながら、芽依は膝の上で手を組む。胸の奥に、焦るような気持ちが渦巻いていた。
(柚子も、福辺先生の家に住み込みで修行してる。私も何かしないと)
柚子が本格的に将棋の修行を始めた姿を目の当たりにしてから、自分も何か始めなくてはいけないという思いが芽生えていた。だが、何をどうすればいいのか、まだ分からない。
そんなとき――ふと、心に浮かんだのは「まーさん」のことだった。
まーさんに負けたときの、あの悔しさ。あの強さ。
芽依は、さっそくスマートフォンを手に取った。
祖父の名前を電話帳からタップする。数回のコール音の後、いつもの豪快な声が響いた。
『ガハハハッ! おう、芽依か。こんな時間にどうした?』
「おじいちゃん、私……全国大会までに、もっと将棋が強くなりたいの。まーさんに、リベンジしたい」
電話口の向こうで、祖父は少し黙りこんだ。そして、ふっと息を吐くように言った。
『……そうか。だったらちょうどいいな。今度まーさんと一緒に、東京観光がてらそっちに遊びに行こうかと思ってたんだ。そのときに対局できるぞ』
「ほんとに? やった……!」
『ついでに、昔の知り合いにも何人か声かけてみる。お前がいろんなタイプの将棋を経験するのもいい勉強になるからな』
芽依の表情が一気に明るくなる。
「それって……おじいちゃんとも対局してくれる?」
『ん? オレと? そうだな……じゃあ、オレが声を掛けた連中全員に勝てたら、相手してやるよ』
「う……うん!絶対に全部勝ってみせる!」
祖父の豪快な笑い声が、スマホ越しに部屋の空気を和らげた。
『頼もしいな、芽依。楽しみにしてるぞ』
「うん……! ありがとう。おやすみなさい!」
通話を終えた芽依は、再び将棋盤に目を向けた。その目には先ほどまでの不安ではなく、明確な目標と覚悟の光が宿っていた。
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一方そのころ、福辺舞の家。時刻は夜の八時を少し過ぎたところ。
玄関のドアが開き、舞が帰宅する。
「柚子ちゃん、ただいま〜」
「おかえりなさい、先生!」
満面の笑顔で迎えたのは、エプロン姿の七瀬柚子。
将棋部の練習を終えたあと、そのまま福辺の家に帰ってきて、掃除や洗濯、夕食の支度までこなしていた。
「夕ごはん、できてますよ~!お風呂も沸いてますっ!」
「え……!? どっちも!?すごっ……もう先生、感動してる……!」
福辺は思わずスーツのまま柚子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「じゃあ……先にごはんにしようかな。お腹ぺこぺこ」
「はいっ! リビングで待っててくださいね~」
柚子がキッチンに戻っていく後ろ姿を見送りながら、福辺は自室に向かい、部屋着に着替えてリビングへ。
そこには、まるでレストランのように整えられた夕食が待っていた。
メインのハンバーグにポテトサラダ、優しい味のコンソメスープにふっくらと炊かれた白米、そしてデザートの杏仁豆腐まで。
「うそ……なにこれ、豪華すぎない?」
「えへへ、今日、合挽き肉が安かったんですよ~」
2人で食卓につき、食事が始まる。福辺は一口ごとに「おいしい!」を連発し、そのたびに柚子は嬉しそうに笑った。
「もうほんとに……お嫁さんに来てほしいよ、柚子ちゃん……」
「ふふっ、それプロポーズですか?」
「ち、ちがうってば! 冗談、冗談!」
照れて顔を赤らめる福辺に、柚子は心から楽しそうに笑っていた。
食後、柚子が皿洗いを始めると、福辺はお風呂へ。
湯船に身を沈め、思わず大きく息をつく。
(……しあわせすぎる……)
帰宅すればあたたかいご飯があって、湯船が沸いている。そんな日常が、福辺にとってはまるで夢のようだった。
お風呂から上がると、今度は柚子がバスルームへ。
その間に福辺はソファで軽くストレッチをしながら、将棋盤をテーブルに出す。
やがて、湯上がりで髪を乾かした柚子が戻ってくる。
「さーて、師匠!今日も特訓、お願いします!」
「よし、今日は駒落ち戦にしようか。二枚落ちでどう?」
「はい!よろしくお願いします!」
柚子の真剣な声に、福辺も頷く。
2人は向かい合い、将棋盤に集中した。
時折、福辺が助言を交えながら局面を止める。
柚子は真剣にうなずき、指摘をメモに取りながらも、次第に一手一手の意味を自分の中に落とし込んでいく。
時計の針が、いつの間にか23時を過ぎていた。
「……うん、今日はここまでにしよう。明日もあるしね」
「はいっ。ありがとうございました!」
「ほんと、がんばってるよ。ちゃんと力、ついてきてる」
福辺が優しく言うと、柚子は照れくさそうに笑った。
こうして、2人はそれぞれの布団に入り、部屋の明かりがゆっくりと落ちていった。
静かな夜。
芽依と柚子、それぞれの場所で、それぞれの想いが動き始めていた。




