40話
放課後、将棋部の部室。
窓から差し込む西日が、部屋の空気をやわらかく染めていた。
パチッ……パチッ……と駒を置く音だけが静かに響き、それぞれの対局に集中する部員たちの姿があった。
そんな中――、
突然、その静寂を打ち破るように明るい声が響く。
「先生、引っ越しの準備、できましたから!」
将棋盤に向かっていた部員たちの手が止まった。
目を丸くして振り返ったのは、福辺舞。
やわらかい笑みのまま、困惑がにじむ。
「……え? 柚子ちゃん、どこかに引っ越すの?」
すると七瀬柚子はにっこり笑って、勢いよく答えた。
「もちろん、福辺先生の家に決まってるじゃん!」
「……え?」
数秒の沈黙。
部室全体が凍りついたかのようだった。
芽依も桜も、思わず顔を見合わせる。
「……いやいやいや、ちょっと待って!? なにそれ、“決まってるじゃん”って何!?」
福辺が、普段のふわふわした口調を忘れてツッコミを入れる。
「だってさ、ウチ、全国大会で勝ちたいって言ったじゃん? それで色々調べてみたらさ、“内弟子”って制度があるって知ったの。師匠の家に住んで、毎日将棋漬けの生活するやつ!」
「まさか、それで……?」
「そう! ウチも、福辺先生の内弟子になるの!住み込みで修行して、将棋をみっちり学ぶんだよ!」
あまりに突拍子もない展開に、福辺は声にならない声で口をパクパクさせる。
「ちょっと待って!? それ、勝手に決めすぎじゃない!?」
「大丈夫だって!ウチ、お掃除もできるし、お料理もできるし、洗濯もバッチリだよ?先生の家の家事、ぜーんぶ任せてくれていいから!」
「いやいやいや、なんでそんな頼もしさアピール!? 家政婦兼弟子みたいな話になってるじゃない!」
「うん! ウチ、将棋を教えてもらうからには、ちゃんとお礼もしなきゃって思って!」
柚子は胸を張って、どや顔で答える。
その真っ直ぐな目に、福辺は思わずたじろいだ。
そんなふたりのやりとりを見ていた芽依が、思い出したように口を開く。
「でも、柚子ちゃん、家事は本当に得意ですよ。弟と妹の面倒も見てるって言ってましたし。前にお弁当交換したとき、すごく凝ってて、おいしかったですもん」
「おおっ、芽依ちゃんナイスアシスト!」
「いやいやいや、ナイスじゃないってば!」
福辺は頭を抱え、天井を仰いだ。
その心の中では、激しい葛藤が巻き起こっていた。
(ちょっと待って……。今の部屋の状態、柚子ちゃんが来たら絶対ヤバい……)
散らかり放題のリビング。山のように積まれた洗濯物。
冷蔵庫にはゼリーと麦茶。夕飯はここ三日、コンビニで済ませている。
(でも……柚子ちゃんが来てくれたら……?)
ちゃんとした食事が出てきて、部屋も整理整頓されて、洗濯まで回る。
想像するだけで、心がぐらりと揺れる。
(いやいやいや、ダメダメダメ!)
内なる理性が、必死にブレーキをかける。
(このままじゃ、せっかく築き上げた“ゆるふわ天然お姉さん先生”のイメージが崩れる! 料理できないとか、部屋が汚いとか、絶対に知られたらダメな秘密なんだから!)
そんな葛藤が顔に出ていたのか、柚子がそっとにじり寄ってくる。
そして、うるうるした目で、両手を組み――。
「せんせぇぇぇ……ウチ、全国大会で勝ちたいんですぅ……。毎晩一緒に将棋したいなぁ……」
「や、やめなさい、その声は反則ぅ……!」
「お願いです~、ウチ、なんでもしますぅ~」
「……っ!」
心の防壁が、音を立てて崩れていく。
(このままじゃ……本当に受け入れちゃう!)
「と、とにかく! ご両親の許可がなきゃダメ! それがないと、私のほうが学校に怒られちゃうし!」
福辺が最後の防波堤を張ると、柚子はにっこりと笑った。
「うん、だからもう、ちゃんと許可もらってるよ?」
「えっ……?」
「今日の朝、お母さんに話したら、『先生に迷惑かけないようにね』って!日を改めてお礼の品持って、挨拶に来るってさ!」
「えええええええええっ!?」
福辺はその場でガクンと椅子に崩れ落ちた。
「というわけで! 今日からよろしくお願いします!」
「ま、待って!せめて来週からにしない……!?」
「今日の荷物は少なめにしてあるから大丈夫! あとは週末に兄ちゃんに運んでもらう予定!」
「段取り完璧すぎるでしょ……」
その様子を後ろから見ていた百合が、ぽつりとつぶやいた。
「……堕ちたね」
(……まぁ、こうして誰かと暮らすのも、悪くない……のかも)
ゆるふわ天然教師の仮面は、今にも剥がれ落ちそうだったが――
福辺の口元には、どこか嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。




