38話
県大会が終わった次の週末、小手指原高校将棋部のメンバーは、結城牡丹の邸宅に集まっていた。
重厚な門扉を抜けてパーティホールに足を踏み入れると、そこにはまるで高級ホテルのような広々とした空間が広がっていた。
牡丹の家は、客人をもてなすことを前提に設計されているらしく、ホールの大理石の床や天井のシャンデリアが、非日常的な雰囲気を醸し出している。
「何回来ても、やっぱりすごいね……ここ」
柚子が目を丸くする。
「うん……映画の世界みたい」
芽衣も頷いた。
ダイニングルームには、銀の食器に盛られた料理がずらりと並び、シェフやパティシエたちが控えていた。
有名店の料理人が、出張サービスで腕を振るっているのだという。
「今日はお祝いですわ。全力で楽しんでくださると嬉しいですわ」
牡丹が微笑む。
全員が料理と飲み物を取り終え、各自の席に着いたところで、部長の十六夜桜が立ち上がった。
「じゃあ、始めようか。――優勝、おめでとう!」
「「「かんぱーい!!」」」
グラスが鳴り合い、パーティが本格的に始まった。
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料理はビュッフェ形式だったが、メイドたちに頼めば何でも席まで運んでもらえる仕組みになっていた。
虎門は、メイドに高級ウィスキーやキャビアなど、いかにも高そうなものを遠慮なく注文している。
柚子は満面の笑みでフォアグラを頬張り、百合はシャンパングラスを優雅に傾けている(中身はノンアルだ)。
芽衣は少し緊張しながらも、ローストビーフをつまんでいた。
「こういうときって、何から食べるのが正解なんだろう……」
「身内のパーティなんだから、好きなものから食べるのが正解よ」
桜が笑うと、芽衣もふっと肩の力を抜いた。
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ひとしきり食事が進んだ頃、桜がふと静かに口を開いた。
「ねえ、福辺先生」
ゆるふわな笑顔を絶やさず座っていた福辺舞が、「ん?」と首を傾げる。
「この前、表彰式のとき……土門六段、先生のこと見てましたよね。何か……関係あるのかなって」
一瞬、空気が止まったような気がした。
だが、桜の問いに福辺は驚いた様子も見せず、にこやかに笑った。
「ふふっ……そうね。もう話してもいい頃かもしれないわね」
その時、部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、スーツ姿の土門龍弥六段だった。
「土門六段!? どうしてここに……」
芽衣が立ち上がる。
「私が呼んだのよ」
牡丹が静かに言う。
「土門先生が、福辺先生のことを気にしていたの、わかってたから」
福辺の表情がわずかに硬くなる。
「……驚いたわ。でも、そうね。話すわ。みんなにも、土門くんにも。隠す理由もないもの」
彼女は深く息を吸い、ゆっくりと語り始めた。
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「私、高校の先生になる前は……奨励会にいたの」
その言葉に、一同は目を見開く。
「奨励会……?」
「そう。将棋のプロを目指す育成機関よ。――私と土門くんは、同期だったの」
土門が黙って頷く。
福辺は視線を落としながら、静かに続けた。
「私は小学生の頃に奨励会に入って……土門くんと同じ時期に三段まで昇段したの。ライバルだったわ。いい意味でね。勝ったり負けたり、お互いに切磋琢磨して、ここまで来たんだって思ってた」
土門の目に、懐かしさと切なさが同時に宿る。
「でも、高校2年生のときの三段リーグ終盤、私か土門くんのどちらかがリーグ2位でプロ棋士になれるってタイミングで……私の母が倒れたの。重い膵臓の病気で、治療には莫大なお金が必要だった」
静まり返る空間の中、福辺の声だけが穏やかに響く。
「私たちは母子家庭だったから、お金なんてなかった。祖父母ももういなくて……それで、頼ったの。――事故で亡くなった父の父、つまり私の父方の祖父に」
福辺は苦笑する。
「でも、うちの父と母は駆け落ちして結婚したから、祖父は母を認めてなかったの。……それでも私は頭を下げた。“何でもするから、お金を出してください”って」
誰も言葉を挟めなかった。
「そして祖父は言ったの。“治療費は出してやる。ただし――お前は奨励会をやめて、公務員になれ”って」
土門が、苦しげに眉を寄せる。
「……それで……」
「ええ。私は奨励会を退会した。そして、母のために大学へ進学して、教員になったの」
「そのこと、俺は知らなかった」
土門が絞り出すように言う。
「知ってたら……止めてた。俺が……!」
「でも、どうすることもできなかったのよ。あのときは。――だから私は、思い込むしかなかった。将棋を離れた私には、別の生き方があるって」
ふっと、福辺は微笑んだ。
「教師になってからの私は、“奨励会の私”とは違う自分でいようと思ったの。前はもっと尖ってて、口も悪くて、負けず嫌いで……でも今は違う。“福辺先生”は、優しくて、のんびりしてて、天然系。――髪も茶色く染めて、髪型も変えて、メイクも変えて、眼鏡もコンタクトにして、そういう私になったのよ」
柚子がぽかんとした顔で言った。
「……じゃあ、あのゆるふわキャラって、作ってたの?」
「俺は養殖物の天然だって気づいてたけどな。サボってるとたまに毒のあること言われたし」
虎門がニヤリと笑って余計な口を挟む。
「作ってたっていうより……必要だったのよ。そうしないと、耐えられなかったの。自分のままだと苦しくて」
芽衣が静かに頷く。
福辺先生の気持ちが、少しだけわかった気がした。
「新任で赴任したのが、小手指原高校だったの。将棋部の副顧問になったのは……成り行きね。虎門先生が顧問だったし」
桜が笑う。
「なるほどね。それで、大会に行きたがらなかったのは、将棋関係者に正体がバレるのが嫌だったってことか」
「……バレちゃったけどね」
福辺が肩をすくめて笑う。
そして――
「でも、今はみんなと出会えて、良かったって思ってる。あの頃の私じゃ、知らなかった景色を、今は見せてもらえてるからね」
その言葉に、誰もが胸を打たれていた。
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沈黙が満ちる中、福辺は静かに立ち上がった。
「……ちょっと、空気重くしちゃったかな。ごめんね。この話はもうおしまい。今日はお祝いの日なんだから」
「いや、先生……ありがとう」
桜が立ち上がって言った。
「聞けてよかったよ。先生が、どんな道を選んだか。ボク、ちょっと泣きそう」
百合がそっとハンカチを差し出し、言葉少なに微笑む。
牡丹も福辺に近づいて、肩に手を置く。
「福辺先生。あなたが教師になってくださって、私たちは……本当に幸せですわ」
「ありがとう……みんな」
福辺は瞳を潤ませながら、静かに頷いた。




