3話
紅茶の湯気とともに、甘酸っぱい香りがふわりと鼻をくすぐる。
その香りだけで、少しだけ心がほぐれていくのを感じる。
「ありがとうございます」
私は小さく会釈して、窓際の席に腰を下ろす。
テーブルの上には白い陶器の皿と、紅茶のカップ。
まるで喫茶店のように整えられた空間に、陽の光が穏やかに差し込んでいる。
ガラス越しに見える校庭では、運動部の掛け声がかすかに聞こえる。
それすらも、この静かな部室では遠い別世界のようだった。
まだ部室の空気には完全に馴染めていないけれど、それでも、少しずつ慣れてきている気がした。
紅茶の香りも、牡丹先輩の穏やかな声も、どこか安心できる。
この時間が好きだと思えるようになるのは、きっとそんなに遠くない。
「芽依ちゃん、ちょっと良い?」
紅茶をひとくち飲んだとき、奥から十六夜桜部長の声が飛んできた。
将棋盤の前に座った部長が、にやりと笑ってこちらを見ている。
その顔にはどこかいたずらっぽさが漂っていて、一瞬戸惑ったが、目は優しかった。
「はい、なんですか?」
「将棋。ちょっと指してみようよ」
すでに盤には駒が整然と並んでいる。
「分かりました」
「たまには“将棋部”らしいことしなきゃね」
私はゆっくりと席を立ち、将棋盤の前に座る。
駒の香りが鼻先をくすぐり、どこか懐かしさと心地よさが胸に広がった。
***
「よーし、始めよっか。初心者向けに、手加減するから安心して」
「……お願いします」
対局が始まった。
部長は居飛車で構え、私は自然と棒銀を選んでいた。
しんとした静けさの中、駒の音だけが心地よく響く。
部長の手つきは明らかに優しかった。
ときおり隙を見せてくれるその指し方は、私の手を導くようだった。
でも、そうした優しさが、少しうれしかった。
駒を進めるたびに、身体が思い出していく。
この感覚、この間合い、この静けさ。
不思議と集中できる空気の中、私は駒を一つ、また一つと前に出した。
「まいったまいった。芽依ちゃん、やるじゃん」
部長が笑いながら、軽やかに投了の言葉を口にする。
その表情は悔しさではなく、どこか楽しげで、あたたかかった。
「……ありがとうございます」
「その棒銀、だいぶ指し慣れてる感じするね。誰に教えてもらったの?」
「……昔、少しだけ」
私はそう答えると紅茶を口に含んだ。
「芽依ちゃん、強いね〜!」
明るい声が後ろから響く。七瀬柚子だった。
にこにこと笑いながら近づいてくる姿は、まるで春の光のようだ。
あの無邪気な笑顔には、誰も敵わない。
「てかさー、将棋っていろんな戦法あるでしょ? ウチ初心者だから何も決まってないんだよね!なんか“これ!”っていうのが欲しいな〜。ねえ、先輩、オススメない?」
「うーん、そうだな……」
部長は立ち上がり、本棚の前へ歩いていく。
並べられた書籍の背表紙を指でなぞりながら、ふっと笑う。
「じゃん。“猿でも10分で分かる将棋入門”。これ、昔ウチの弟に買ったやつ」
「……猿?」
柚子が少し顔をしかめる。
「タイトルはアレだけど、中身はちゃんとしてるよ。基本も戦法も、一通りは載ってるから、最初のとっかかりには悪くないと思う」
「へぇ〜、ありがとうございます!しばらく借りて家でも読んでいいですか!?」
「もちろん。部室の本は部員なら自由に使って大丈夫よ」
「やった〜! ありがと〜! これでわたしも将棋マスター!」
「それはまだまだ先の話ね〜」
部長が笑い、牡丹先輩が静かに紅茶をすする音が聞こえる。
机の上には、まだあたたかさの残るレモンケーキ。
一口食べると、ほろほろと崩れる生地とともに、優しい甘酸っぱさが広がる。
部室の中は、穏やかな時間で満たされていた。
ほんのささやかなやり取り。だけど、そんな日常が、心地よかった。
この部室の空気が、少しずつ好きになっていくのが分かる。
私も、そっと笑った。
久しぶりに将棋を指してみて、よかったと思う。
誰かと駒を挟んで向き合うのは、やっぱり、悪くない。
この場所でもっと、指してみたい——
そんな気持ちが、胸の奥に小さく芽生えていた。