25話
対局室には、再び静かな緊張が戻っていた。
桜は椅子に腰掛け、盤をじっと見つめている。視線の先にいるのは、飯能北高校の副将――ボーイッシュな雰囲気の女子生徒だ。
「よろしくお願いします」
相手が低めのトーンで丁寧に頭を下げる。
桜も即座に応えた。
「お願いします」
両者が礼儀正しく一礼を交わすと、進行役の合図で振り駒が行われた。
先手は飯能北高校の副将、後手が桜に決まった。
(まあ、どちらでも構わないわ)
そう心中で呟きつつ、桜は静かに姿勢を正す。
相手の初手は▲7六歩。居飛車か、振り飛車か。そんな定石通りの入りに見えたのも束の間、飛車が妙な動きを始める。
(あら?)
桜の眉がわずかに動く。
飛車が自陣深くに潜っていく。
(……地下鉄飛車?)
かつて奇襲戦法の一つとして注目された、飛車を地下深く配置し、タイミングを見計らって地上へと急襲する攻撃法。珍しい戦型に、桜は内心で小さく笑った。
(珍しい戦法。でも、それだけ。落ち着いて対処すれば、隙は多い)
桜は三間飛車で応じる。
美しく整った陣形。飛車の位置にも一切の迷いはない。囲いは美濃、角の活用も的確――まるで将棋教本のような盤面が、着実に形作られていく。
相手が地下から飛車を突き上げるその瞬間を、桜は静かに、しかし確実に迎え撃つ準備を進めていた。
(来るなら、来なさい。全部、受けて立つわ)
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その頃、小手指原高校の控室。
モニター越しに対局を見守っていた将棋部のメンバーたちは、すでに局面の流れを感じ取っていた。
「……あの戦法、地下鉄飛車ですわね。奇をてらっていますけれど」
副部長の牡丹が、優雅に紅茶を口にしながらつぶやいた。
「虎門先生の予想通り、畳み掛けて来ましたわね」
「おうよ。オレを誰だと思ってるんだ」
腕を組んだ虎門が、仁王立ちで鼻を鳴らす。
「このくらいの作戦、読めて当然だ。なんたってオレは、パチンコの生涯収支マイナス250万の男だからな!」
「え? それって……自慢なんですか?」
柚子が思わず突っ込む。
「もはや一周回ってな!」
虎門はどこか誇らしげだ。
「……もう、何も言わない!」
柚子が呆れたようにため息をつくと、芽依は笑いをこらえて画面に目を戻す。
(でも……部長なら、きっと大丈夫)
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一方そのころ、飯能北高校の控室。
「やっぱり、小手指原もオーダー対策してきたか」
中堅の女子生徒が腕を組み、険しい表情で画面を見つめる。
「そう簡単には勝たせてくれないか……やっぱ十六夜桜は一味違うな」
大将の女子生徒が頷き、中堅が続ける。
「小手指原の中で唯一、過去の棋譜があった選手だし。中学時代に全国出場してたって、チートだろ、マジで」
「ここで負けたら……四戦目と五戦目、あんたら勝てるの?」
ソファに腰掛けた大将が、先鋒と次鋒に視線を送る。ふたりは揃って顔をしかめた。
「無理っす……」
「無理です……」
「まあ、将棋始めて2ヶ月ちょいの初心者には無理だよねー……」
控室には、苦笑が混じったため息が広がる。
この三戦目を落とせば、勝利はほぼ絶望的。
だからこそ、ここは譲れない戦いだった。
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再び、対局室。
地下に潜っていた飛車が、中盤に差し掛かる頃、地上へと浮上する。
相手は構えを崩し、一気に攻めに出た。
だが、桜の表情は微動だにしない。
(……はい、来た)
まるでその一手を待っていたかのように、盤面はすでに受けの布陣が完成していた。
地上へと姿を現した飛車は、あっけなく包囲され、逃げ道を失っていく。
そこからは、桜の独壇場だった。
駒の連携は完璧。
相手の狙いを読み切り、先回りして封じる。
そして、わずかな隙を見逃さず、玉頭へと鋭く突き進む。
最後は、持ち駒の桂馬を軽やかに打ち込み、詰みの形を完成させた。
しばし盤面を見つめていた相手の副将は、やがて小さく息を吐いた。
「……負けました」
ふたりは一礼を交わし、静かに対局を終えた。
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「小手指原高校、9ポイント。飯能北高校、11ポイント」
アナウンスが会場に響く。
控室へ戻ってきた桜は、いつもと変わらぬ落ち着いた表情だった。
「勝ったわよ」
その一言に、部員たちの表情が一斉に緩む。
「さすが、部長……!」
「すごい……ほんとに押し返した……!」
桜はふと横を見やり、百合と目を合わせる。
百合はにやりと笑って言った。
「……流れ、止めてくれてありがと」
「当然でしょ」
桜は肩をすくめた。
次に進む流れを、自らの手で引き戻す。
それが部長としての責任だと、桜は当然のように受け止めていた。
控室に戻ったその空気は、ひとつ勝利を手にした者たちの、確かな自信に満ちていた。




