23話
柚子が対局室に入るとそこに待っていたのは、飯能北高校の中堅、落ち着いた雰囲気の女子生徒だった。
切れ長の目元に眼鏡をかけ、整った身なりからは知的さが滲み出ている。
「よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
軽く会釈を交わすと、進行役の指示で振り駒が行われる。
結果、柚子が先手番となった。
「お願いします!」
「お願いします」
そして、初手△7六歩が盤面に打たれ、勝負の幕が上がる。
柚子は得意の中飛車を選択。
自分のスタイルを貫く覚悟の表れだった。
だが相手もすぐに三間飛車に構え、静かに対抗してくる。
(ん? ノーマル三間飛車?)
少し意外だった。奇をてらわず、オーソドックスな構え。
それだけに、手の内を読みづらい。
序盤は互いに模様を整えながら、淡々と進んでいく。
だが、10手……20手……と駒が進むごとに、柚子の眉間に皺が寄り始めた。
(なんか、じわじわと……押されてる?)
気づかぬうちに、相手の指し手がわずかに自分のペースを乱していた。
こちらの狙いをいち早く見抜かれ、要所で駒組みを制限されている。
中盤、攻めに転じようとした矢先、小さな疑問手を打ってしまった。
(……あっ、これ……ちょっと早かったかも)
ほんの数秒の迷いだった。その瞬間、相手の桂馬が跳ねた。
(うわ……読み切られてた!?)
それはまるで、最初からその手を誘っていたかのような鋭い一撃だった。柚子の陣形が一気に崩される。
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控室の中でも、異変はすぐに感じ取られた。
「……あっちゃー、敵の中堅と当たっちゃったかー。これは厳しいかもな」
虎門が、苦々しい顔でモニターを見つめながら呟いた。
「虎門先生……他の生徒の前で、あまりそういうことは……」
福辺が小声でたしなめるが、虎門は肩をすくめるだけだった。
画面の中で、柚子はひたすら我慢の将棋を指していた。
けれど、じわじわと削られていく持ち駒と時間。終盤に差し掛かる頃には、差は明らかだった。
「やっぱり、あの桂馬で一気に崩されたね」
百合がぽつりとつぶやく。
「相手、間違えないな……」と芽依が静かに言った。
牡丹は無言のまま、両手を組んでモニターを見守っている。
桜も腕を組んで立ったまま、じっと盤面を睨みつけていた。
画面の中で、最後の一手を指し終えた柚子が、しばし盤面を見つめる。
その目の奥には、涙が滲んでいた。
そして――
「負けました」
静かな声が、盤面に響いた。
相手が丁寧に礼を返すと、進行役が一礼して勝負は終わる。
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「小手指原高校、0ポイント。飯能北高校、4ポイント」
場内アナウンスが結果を伝えた。
控室の空気が、ぐっと重くなる。
誰も言葉を発せず、ただ画面を見つめたまま、時間が止まったようだった。
やがて、ドアが開き、柚子が戻ってくる。
「……ごめん、負けちゃった」
唇を噛みながら、少しうつむきがちにそう言う柚子。
「顔を上げて、柚子」
桜が静かに言った。
「あなたらしい将棋だったわ。今回は相手が上手だっただけよ」
慰めるような口調で、桜が続ける。
「そうだよ。全部ちゃんと見てた。序盤の駒組みも、自信持っていいよ」
芽依も優しく声をかけた。
福辺は黙って柚子の肩にそっと手を置いた。
その温かさに、柚子の目の奥に熱いものが込み上げてきた。
「……ありがとう。対局が終わったから、ちょっとトイレ行ってくるね!」
そう言って、柚子は控室を出ていった。
だが、その背中には、明らかな落ち込みがにじんでいた。
芽依が心配そうに立ち上がる。
「伊波、今はそっとしとけ」
虎門が低く静かに言うと、芽依は戸惑いながらも、席に戻った。
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場面は変わって、文化センターの女子トイレ。
柚子は個室に駆け込むと、勢いよくドアを閉め、ハンカチを口に当てる。
声が漏れないように泣いていた。
(悔しい……悔しいよ……)
拳を握りしめたまま、涙が止まらなかった。
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再び控室。
「二戦目、準備お願いします」
係員の声が控室に響いた。
柚子はまだ戻らない。
それでも、次の対局は待ってくれない。
「では、二戦目、小手指原高校。次鋒・西条百合さん、対局会場へ」
呼び出しの声が放送される。
「じゃ、行ってくる」
百合がいつもの飄々とした調子で立ち上がる。
「頑張ってね」
桜が声をかける。
「任せろ」
百合は片目をウインクさせてから、ドアの方へと歩いていった。
次の戦いが、静かに始まろうとしていた。




