22話
決勝トーナメントの一回戦当日。
春の日差しがやわらかく街を照らす中、芽依は自宅前に停まった黒塗りのリムジンを見て、少しだけ息を整えた。
何度か乗っているはずなのに、やはりこの車にはまだどこか身構えてしまう。
「おはよう、芽依さん」
運転手付きのドアが開き、最初に顔を出したのは結城牡丹だった。すでに中には柚子や桜、百合、そして虎門先生と福辺先生も乗っていた。
「お、おはようございます……」
芽依は小さく頭を下げながら、慎重にリムジンの座席に腰を下ろした。
「おーい、芽依ちゃん~! リムジン乗るの、もう慣れてきた?」
元気な声でそう言ったのは、助手席側の後部座席に座る七瀬柚子だった。
今日も元気いっぱいの笑顔を浮かべている。
「う、うん……まあ、ちょっとずつ……」
芽依がもごもごと答えると、柚子は楽しそうに笑った。
「私なんてもう余裕! 今朝なんかさ、朝ごはん食べながら“あ、今日もリムジンだ~”って当たり前みたいに思っちゃったもん!」
その様子に、福辺舞は不安そうな表情を浮かべていた。
彼女は緊張のあまり、ほとんど体を動かさずに硬直していた。
「……ねえ、あの、これって……ジュースとか、飲んでも大丈夫なのよね?」
震える声で問いかける。
「もちろんですわ、先生。気にせずどうぞ」
牡丹が微笑んでうなずくと、福辺はおそるおそるペットボトルの水に手を伸ばした。
「でも……ほら、汚したりしたらどうしようって……それに、靴とか……脱いだ方がいいかしら……?」
「福辺先生、リムジンは高級だけど、旅館じゃないんだから」
虎門潤也がぼやくように言って、窓の外を眺めた。
手元の缶コーヒーを見つめて、恨めしそうな声を出す。
「しかし禁煙ってのは、やっぱりなぁ……この乗り心地なら一服したくなるってもんだ」
「先生、それ言うの三回目ですよ」
百合が半分呆れたようにツッコむと、車内には小さな笑いが起きた。
その空気を壊さないように、桜が冷蔵庫を開けて炭酸飲料を取り出す。
「芽依、何か飲む?」
桜がラベルを確認しながら問いかける。
「あ、じゃあ……炭酸、お願いします」
「了解」
炭酸の缶を渡すと、芽依は「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げる。
「悪い、十六夜。オレにも取ってくれ。アイスコーヒー、缶のやつ」
「はいはい、虎門先生はブラックしか飲まないんですよね」
桜が手際よく缶コーヒーを渡すと、虎門は満足そうにうなずいた。
「……みんな、慣れすぎじゃない?」
ポツリと呟いたのは、福辺だった。
その視線は、自然体でくつろぐ部員たちに注がれている。
「リムジンってもっと、こう……背筋を伸ばして乗るものじゃなかったかしら……?」
「気を張ってたら、勝てるものも勝てませんわ、先生」
牡丹が静かに言った。
やがて車はさいたま市文化センターへと到着する。
停車すると同時に、みなそれぞれの荷物を手に取り、静かに気持ちを切り替えていった。
エントランスを抜けると、案内に従ってホールへ向かう。
そこにはすでに、多くの高校の将棋部員たちが集まっていた。
空気には、いつもとは違う緊張感が漂っている。
「さあ、抽選会が始まります。出場校の代表者の方、こちらへどうぞー」
係の声が響くと、桜がすっと立ち上がり、他校の代表たちとともに壇上へ向かう。
モニターに映し出されたトーナメント表には、すでに各ブロックの位置だけが示されていた。
桜が番号札を引いた瞬間、運営スタッフが手際よくその位置に「小手指原高校」の文字を入れる。
その隣に表示されたのは、「飯能北高校」だった。
「……飯能北か」
芽依がそっと呟く。
以前、泊まり込みで行ったデータ会議を思い出す。
小規模な将棋部だが、全体の実力はそこそこ。
予選を2勝1敗で勝ち上がってきた。
戦型は、バランス型が多い。手堅く戦ってくるタイプだ。
組み合わせとしては、当たり。――とはいえ、油断は禁物だ。
その後、各校に割り当てられた控室に案内される。
部屋の中には長テーブルと椅子がいくつか、飲み物のクーラーボックスも用意されている。
「さて、ここが今日一日私たちの拠点になるわ」
桜が荷物を置きながら言う。
全員が席に着いたのを見て、桜が手元の資料を取り出す。
「まず、予選と決勝での大きな違いをおさらいするわよ。予選は一人10分切れ負けだったけど、決勝は30分切れ負けになるわ。持ち時間が3倍。気持ちも配分も、ちゃんと切り替えてね」
「ってことは、時間の使い方で勝負が決まる場面もあるってことだね」
百合が低い声で言う。
「そう。だから特に最初の10分、焦って突っ走らないように」
それぞれが黙って頷く。
会話は少ないが、その分空気は一つにまとまっていた。
しばらくして、一回戦の時間が近づいてきた。
控室の外に貼り出された掲示板には、各対局の開始時刻と対局者の名前が記されている。
「柚子、準備はいい?」
桜が問いかけると、柚子はぐっと拳を握ってうなずいた。
「うん! 任せて!」
「緊張してる?」
芽依がそっと尋ねる。
「してるよ? でもね、先生も来てくれたし、みんながついてるから!」
虎門先生が肩をポンと叩いた。
「いつもどおりやればいい。自分の将棋を指してこい」
「柚子ちゃん、頑張ってね」
福辺先生も柔らかく微笑む。
「では、一戦目、小手指原高校。先鋒・七瀬柚子さん、対局会場へ」
呼び出しの声に、柚子は勢いよく立ち上がる。
「行ってきます!」
その背中を、皆が見送る。




