2話
先輩たちの自己紹介が一通り終わると、結城牡丹先輩が立ち上がって、部室の奥にあるポットから湯気の立つティーポットを持ってきてくれた。
「どうぞ。今日はアールグレイ。クッキーは取り寄せたものですわ」
差し出されたカップを両手で受け取る。
ふわりと立ち上る香りに、思わず目を細めた。
「……ありがとうございます」
白いカップを口元に運びながら、周囲の会話に耳を傾ける。
話題は最近読んだ漫画の話や、昨日の夕ご飯の話し。
本当に、なんでもない雑談。でも、みんなが楽しそうに笑っているその雰囲気が、私にはとても眩しく感じられた。
「芽依ちゃん、何か趣味とかある?」
百合先輩が、ふと話題をこちらに向けてくれた。
「えっと……読書です。古典文学とか……」
「おお、シブいね! 漱石とか? 太宰?」
「はい。あと谷崎潤一郎とかも……」
「うわー、ボクにはちょっと難しいやつだ。芽依ちゃん、頭良いんだね」
百合先輩はからかうでもなく、純粋に感心した様子で笑っていた。
そうやって真っ直ぐに興味を向けてもらえるのは、少し恥ずかしくもあり、同時に嬉しかった。
そのとき——。
勢いよくドアが開いた。
「すみませーんっ! 五分遅れちゃいましたぁっ!」
元気いっぱいの声とともに、ショートカットの小柄な女の子が駆け込んでくる。
両手でカバンをぎゅっと抱えたその子の頬は、少し赤くなっていた。
「柚子、こちら伊波芽依さん。柚子も自己紹介、お願いね」
「はいっ! 七瀬柚子です! 芽依ちゃんとは同じクラスだよね! これからよろしく!」
真っ直ぐな笑顔と大きく差し出された手。
彼女の人懐っこさに、思わず笑みがこぼれる。
まるで子犬みたいな明るさで、部室の空気が一気に華やいだ。
その直後、今度はゆっくりとした足取りで、もうひとりの人物が入ってくる。
「ごめんなさ〜い、遅くなっちゃって。職員会議が長引いちゃって……」
柔らかなカーディガンに包まれた、ロングヘアの女性。
どこかのんびりした雰囲気で、空気までふんわりと和らげるような存在感だった。
「あっ、舞ちゃん先生〜!」と、柚子ちゃんが嬉しそうに手を振る。
「伊波さん、いらっしゃい」
「福辺先生が副顧問だったんですね。よろしくお願いします……」
彼女は私のクラスの副担任でもある。
普段からふわふわした印象の先生だったが、こうして部活に顔を出してくれる姿を見ると、不思議と安心感があった。
ふと、前から気になっていたことを口にする。
「虎門先生って、今日は来られないんですか?」
すると、三人の先輩たちがそろって「ぷっ」と吹き出した。
「来ない来ない」
部長の十六夜桜先輩が笑いながら言う。
「うちの顧問、完全な幽霊顧問だから。月に一回くらいしか姿を現さないのよ」
「ボクなんて、タイミングが合わなくて数回しか会ったことないよ」
百合先輩が肩をすくめる。
「まぁ、いない方がうるさくなくて快適だけどな〜」
桜先輩はちゃっかり紅茶をおかわりしていた。
「でも、副顧問の福辺先生は毎日顔出してくれるのよ」
牡丹先輩が紅茶を注ぎながらフォローを入れる。
「わたし、青春してるみんなを見ると元気がもらえるのよ」
ほんわかと笑う福辺先生。
その言葉に、先輩たちが自然と笑顔を返していた。
「そうだ、連絡先、交換しとこうか。グループチャットにするわね」
十六夜先輩が手を叩いて言うと、みんなが一斉にスマホを取り出した。
私も少し戸惑いながらスマホを差し出すと、百合先輩と牡丹先輩が慣れた手つきで操作してくれる。
「グループ名、なにがいいかな〜?」
百合先輩が画面を覗き込みながらつぶやく。
「“放課後ティーパーティー”とか?」
「“午後の紅茶会”……いや、やめよう」
結局、グループ名は無難に「将棋部連絡用」に落ち着いたが、そんな他愛ないやり取りさえも、今の私にはとても楽しく感じられた。
気づけば、部活動の終了時刻が迫っていた。
窓の外では、空が少しずつオレンジに染まり始めている。
「じゃ、今日はここまで。明日もまた来てね」
十六夜先輩が椅子に座ったまま、片目をつむってウインクを送ってくる。
「……はい。たぶん、来ます」
自分でも驚くくらい、自然な声が出ていた。
まだ数時間しか過ごしていないのに、私はもう、この部室の空気を恋しく思っていた。
紅茶の香り。穏やかな笑い声。
そのすべてが、心地よく胸に染み込んでくる。
少しずつ、私の「居場所」ができてきている——そんな予感が、確かに胸の奥で灯っていた。