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11話

翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。朝ごはんを慌ただしくかきこんで、すぐに祖父の部屋へ向かった。


「おう、来たか。じゃ、行くぞ」


祖父はすっと立ち上がると、机の上にあった車のキーを無造作に手に取り、私にひらひらと手を振った。私は急いで靴を履き、祖父の後ろを追うように玄関を飛び出した。


祖父の古い軽自動車に乗って、私たちは静かな住宅街を抜けていく。

車内にはラジオも音楽も流れていない。

窓の外を流れる景色だけが、時間の経過を知らせてくれた。

祖父は相変わらず口数が少なかったけれど、今日はどこか機嫌が良さそうに見えた。


やがて車は、小高い丘のふもとにある広い公園の駐車場に止まった。

そこは近所でも評判の大きな公園で、休日には家族連れやジョギングをする人たちで賑わっている。

けれど平日の午前中の今は、人もまばらで、静かな空気が漂っていた。


芝生の広がる中央広場のベンチに、一人の老人が腰掛けていた。

白髪交じりの短髪、少し猫背気味の細身の身体。

くたびれたハットを深くかぶり、新聞を広げながら、片手には見慣れたワンカップの焼酎。


「おーい、まーさん!」


祖父が声をかけると、その老人は顔を上げて、にこっと笑った。


「おう、繁さん来たか。こっちこっち」


親しげに手を振るその人は、「まーさん」と呼ばれていた。


私と祖父はそのベンチまで歩いていく。近づくと、まーさんの顔には深い皺が刻まれていて、それでもどこか人懐こい笑みがあった。


「紹介しとくよ。こいつはオレの孫、伊波芽依。高校で将棋やるんだとよ」


「へぇ、女の子で将棋か。今どき珍しいな。おいらは“まーさん”って呼ばれてるんだ。近所じゃちょっとしたもんでね、ふふ」


まーさんは軽く冗談めかしながら言って、私をじっと見た。


祖父が布袋から将棋盤を取り出し、ベンチのテーブルに広げた。折り畳み式の簡易盤。

駒は少し年季の入ったプラスチックの箱に雑然と収められていて、ところどころ角がすり減っている。


駒台がなかったので、空の箱をそのまま代用することになった。

そんな光景は、まるで昔ながらの縁台将棋のようで、どこか懐かしさを感じさせた。


「ちょいと一局、どうだい?」


まーさんがニヤリと笑って私を見つめる。その目には、どこか挑戦的な光が宿っていた。


「はい。お願いします」


私は軽く頭を下げ、対局用に姿勢を正した。


そのとき、祖父がスッとワンカップの焼酎を私の前に置いた。まーさんも同じように、自分の前にワンカップを置く。


「……賭け金の代わり?」


私は苦笑いしながらも、静かに時計を見た。

持ち時間は10分の切れ負け。


振り駒の結果、先手はまーさん、後手が私。


私は得意の棒銀で攻めることに決めた。序盤は悪くない感触だった。けれど、すぐに異変に気づいた。


まーさんの序盤の構え――どこかおかしい。定跡とはまるで違う。けれど、単なる素人の指し方ではない。何か“意図”があるように見えた。


(……これ、何の戦法?)


奇妙な動きに戸惑いつつも、私は攻め筋を模索した。

けれど攻めれば攻めるほど、自分の陣地がじわじわと崩れていくような、そんな感覚に襲われた。


いつの間にか、私はまーさんのペースに呑まれていた。


「うまいな……」


心の中でそう呟いたとき、ふとある言葉が頭をよぎる。


(これ……もしかして、「新鬼殺し」?)


かつて読んだ本に載っていた、変則的な奇襲戦法。普通なら破綻するはずの布陣なのに、一定の条件下では恐ろしい破壊力を持つ。


気づいたときには、すでに遅かった。


私は完全に罠にはまっていた。


無数の選択肢の中で、最善手がわからなくなっていく。そして、まーさんの的確な一手が、私の王を追い詰めていった。


「……負けました」


私は静かに頭を下げた。


「んー、なかなかいい攻め筋だったよ。でも、まだ若いな。将棋ってのはな、時には“外道”も必要なんだよ」


まーさんはそう言って、私の前に置かれていたワンカップを手に取り、ふふっと笑った。


「悪いね。もらうよ」


「あ、はい……どうぞ」


私は乾いた声で答えた。


「まーさん、ありがとうな」


祖父が軽く会釈すると、まーさんは笑って手を振った。


「いいってことよ。若い子と指すのは、やっぱり楽しいもんだ」


車に戻ると、私はずっと窓の外を眺めていた。頭の中では、さっきの将棋の光景が何度も何度も再生されていた。


あのとき、銀じゃなくて桂を跳ねていれば――。いや、そもそも棒銀ではなく、別の戦法を選ぶべきだったのかもしれない。


考えれば考えるほど、自分の未熟さが胸に重くのしかかってきた。


「うっ……」


気づいたときには、涙が頬をつたっていた。


「まーさんは若い時、ヤクザの代打ちをしてたこともある元真剣師だからな。負けても仕方ない。そんなに泣くな」


そう言われても、自分の意思とは関係なく、涙が溢れてくる。


「……やれやれ。だからオレは、泣き虫の芽依とは指したくねぇんだよ」


祖父のぼそりとした言葉が、静かな車内に響いた。


家に着いたとき、玄関で出迎えた祖母が、私の顔を見てすぐに察した。


「ちょっと! あんた、また芽依ちゃん泣かせたの!?」


「ちが……おばあちゃん、それは……」


私があわてて止めようとする間に、祖父はうんざりした顔で煙草をくわえ、黙って離れの部屋へと引っ込んでいった。


「まったく……この人は……!」


祖母が憤慨しているのを背に、私は自分の部屋に戻った。


夜になって、私はスマホの将棋アプリを開いた。まーさんとの対局を思い出しながら、棋譜を入力していく。


「ここで銀じゃなくて……桂だったかも」


「このタイミング、手抜きしても良かったんだ……」


ひとつひとつ見返すたびに、新しい気づきがあった。まーさんの変則的な戦法。けれど、その裏には確かな経験と狙いがあった。


私は画面を見つめながら、小さくつぶやいた。


「次は、負けない」


それは涙ではなく、確かな決意の声だった。

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