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愚者と喇叭

作者: 臂りき


 通りのど真ん中に置かれた氷が、まるで失禁でもしたかのように水浸しになっている。


 脳天を焦がす日差しと騒々しい蝉の鳴動に悉く頭がやられた。

 ――あれは「これでもか!」と言わんばかりに青々とした空を映し出し、己が身を削りながらも必死に捻り出した小水を守らんとしている――。


 出鱈目な妄想に意味もなく笑えた。


 しかし触れる氷は相も変わらず冷たい。何しろ腰丈ほどもある特大の氷だ。

 手を伝う冷気が寝起きのような世界から覚醒へと(いざな)った。余りの心地良さにかき氷が食べたくなった。

 元より、もう正午にもなろうかという時分に、空腹の域をとっくに通り越した腹事情。水以外の物を受け付けようがなかった――つまり、喉が乾いた。


 疲労と耐え難い眠気と共に、手近の自販機へと足を引き摺る。

 ただの水が三〇〇円。

 世も末だ。そう思いつつも、乾き切った体に鞭打ち、ここから大して遠くもない家路を更に行けるだけの気力は既に残されていなかった。


 潤いが欲しい! その一心で辿り着いた先にあったのは『売切』の表示。


 残酷だ。恐らく、この区域だけに湧いて出た「水飲みたいおっさん」が粗方の自販機を征服してしまったのだろう。そうでもなければ、こんな贅沢品が軒並み消えてなくなる説明がつかない。


 やる瀬無く自販機と隣り合わせ、薄汚れた塀に凭れた。

 呆然と目に映るホコ天はいつになく閑散としている。


 『管理区13116ー巣鴨』


 ついこの間まで年配者の群れで賑わせた地蔵通りも、今では氷像の「屋外大失禁公開場」になっている。

 或いは、単純に暑さの憂き目に遭った彼らはその対策を講じているだけだ。

 疎らながら外気に肌を晒すチャレンジャーが通りを行くのは、已むに已まれぬ変態的な事情があるからだろう。


 突如、尻が振動(バイブ)に揺れる。


『管理区13103 ミチタカさんとマッチングされたよ! コメントを読む?』


 天辺の日で見難い画面を自販機の陰に隠し、アプリからの通知を確認する。

 無粋な管理番号と、やけに馴れ馴れしい文体の両立がなんとも言えない。

 タップしてもいないのにポップアップされるそこには、いつ見てもペニスにしか見えない『フガクちゃん』が寄り添っている。

 雪を冠った亀頭に、欝血した青い竿。雁首に着けた赤いリボンは、差し詰め破れ廃れたコンドームといったところか。


 今や番号だけを見ただけでどこの地区(ランク)の男性か分かってしまう自分に辟易する。


 つぶらな瞳のフガクちゃんが掲げるミチタカなる男性は、管理区13の中でも上位、私のように下等な人間がおいそれと近付いていい存在じゃない。

 これは政策の名の元に、スーパー電子計算機(コンピュータ)『フガクⅡ』から促されるままに、()()の男性像を酔いに任せて打ち込んだ結果である。


 スパコンもここまできたか。

 例のごとく保留ボックス(ごみばこ)に通知を投げ込み、買い物袋のアイスを確認しながら溜息を吐く。


 分かってはいた。脆弱な水の結晶体が、こんな炎天下で変わらないはずがない。

 職場と併設されたコンビニとの往復の日々の中で、反射的に決まったメニューを選ぶよう体が覚えてしまったのだ。


 仕方なく袋からアイスカップを取り出し、濃厚なチョコバニラのジュースを飲み込む。


 今や卸売り会社にまで公的利用(アクセス)を許可されている『フガクⅡ』は、現行政府の三大課題(マニュフェスト)の一つである「少子化」解決のため日夜巨大な冷却器(ファン)を唸らせている。


 この国の誰よりも賢い彼女は、我々下等生物に「()()()()()()」するよう呼びかけている。


 嗚呼、フガクちゃん。あなたまで私を駆り立てようというのか。

 私は仕事に、否、趣味に生きると決めたのだ。

 ささやかな散歩のひと時に、ささやかなランチ。ささやかな鑑賞会。ささやかな晩餐には食後に煎茶――食虫毒や虫歯の予防にも良い。

 たったそれだけでよかったのに、あなたは私を駆り立てる。


 セックス、SEX、SEX! 性の悦びを知りやがって! 私はそんなに欲情していない!


 このままだと国が立ち行かなくなることは解る。

 度重なる税収に喘ぐ人々。取り分け、働き手である若年層に掛かる負担は数年前の比ではない。しかし、それが原因で若者の結婚、出産に迷いが生じることが何故分からない? 

 膨れ上がる負担、稼いでも撥ねられる奴隷のような日々。分かっているのか⁉ 


 ――いや、冷静になろう。

 分かっているからこそ、彼女の意思に従ったのだ。

 愛しのフガクは数十年後の先まで見据え、下等な人間に向けて「何が最適か」を常にアドバイスしてくれている。

 要するに、「どの家柄の誰々が誰々とつながると家計が安定しますよ」とか、「二人から生まれる子どもは将来的に何々の分野に就職すると国に貢献できますよ」ということを逐一教えてくれる。


 政府はこれに則り、フガクⅡのマッチングに応じた家庭の優遇を約束した。

 それは同時に、結婚しない、或いは独り身を覚悟した人間に対して声なき警告(アラート)を発した。


 無論、私は断固拒否する。

 個人番号の申請すら職場からの|要請《()()()()()》で渋々行ったのだ。

 それも勿論、ささやかな至福のためである――至福を得るにも金はいるのだ。


 管理区域の出入りのみに止まらず、その上更に情欲まで操作(コントロール)されては堪ったもんじゃない。

 私はお前たちの奴隷でも娼婦でもない! 断固拒否する! 


 ――ふぅ。死にたい。


 数日前、日本のスーパーカミオカンデ間で「素粒子転移」に成功したというニュースが話題となった。

 極小の粒子数個をおよそ一〇〇キロ離れた装置に「転送」したらしい。

 そもそも物体を軽く通り抜けてしまうほどの素粒子を、何故「転送」する必要があったのかと言いたくもあるが、これは余程すごいことらしく、将来的に目に見える大きさの物体すら「粒子レベルに分解し、転送、再形成」することで意図的に空間転移(テレポーテーション)させることができるという。


 ひょっとすると、今飲んだ()()()()を元のアイスの状態に戻すことができるかもしれない、などという馬鹿な考えが浮かんだ――冷凍庫で冷やせばいいものを。


 映画『THE FLY』のラスト、転送機の部品と合体した蠅人間が愛人の持つショットガンの銃口を額にあてがうシーンを思い出して少し切なくなった。


 今後、素粒子力学が発展した暁には人の転送はおろか、「転生」すらも管理してしまうだろう。

 地球規模の「()()()()()()()()()()」があれば可能に違いない。

 某国では既に数十年も前から、特定の地域の人間に「事前の転生申請」を要求しているという――宗教の圧迫と人権の否定、財産を奪取する魂胆が見え透いている――。


 魂の行き先すら管理される日も近い。


 前方からやかましい音がチャカポコと迫ってくる。

 暑さに浮かされたチンドン屋が、(スマホ)を片手に燥ぐ子どもを引き連れてやってきた。


 彼らが掲げる看板には『マッチングアプリFUGAKU ダウンロードよろしく! ~いまなら等身大フガクちゃんがもらえる!~』とある。

 こんな暑い中ご苦労なことだ。

 チンドン屋の纏った浴衣は薄く(はだ)けているからいいものの、顔に塗りたくった白粉(おしろい)が流れる汗に滴っていて見苦しい。

 看板の写真に載った女性の抱く()()()()()()()()()()()()()()が、屹立したそれに似る頭から白い液体を垂れ流すシーンが頭をよぎり、更に吐き気を催した。


 青洟(あおばな)を垂らした憐れな子どもの分身(スマホ)が唸った。

 一頻り撮り終えたらしい子どもは、鼻を鳴らして通りに出張った茶屋の軒下に入った。

 これから取れ高を確認しいしい、しこしこ編集にでも勤しむのだろう。


 綺麗に編集されたそれを、また別の分身たちに送り付けるのだ。

 「私はここに生きています」と。


 ここ数年、子どもの自殺件数が増加した。

 職場にある心療内科には「うつ」の傾向にある子どもの受診が後を絶たない。最悪の場合こちらの領分でもある内科、果ては外科に急患として運び込まれることもある。

 呼吸器、消化器系の異常と勘違いされて内科に通されたが、目立った異常もないために心療内科への受診を勧め、そこで初めてうつ症状が発覚することもあった。

 自然、心療系の知識の必要性を認識した。大怪我をしてから「鬱でした」なんて格好悪くて言い訳もできない。

 

 彼らは何を思って自殺を「図る」のか。

 否。そもそも、その思考すらも最早彼らだけのものとは言い切れないのかもしれない。


 うつ病の親にうつ病の子。何をやっても無駄だと家庭、社会から学んだ親子は、これから先どこへ向かえばいいのか。

 働けども一向に改善しない生活。軒並み株価が下落している世の中、唯一の頼みの綱であった投資による副業もただの浪費になり兼ねない。

 若年層が共通して持つ投資に関する知識は持ち腐れたままだ。


 実質的に貧困に陥っている大半の家庭――マッチングを経なかった多くの家庭――では、その子に対して期待はしない。

 努力しても報われない世であることをその背、或いは言動で教えてしまう。

 反抗しない、より大きな物に迎合し足並みを揃えた社会の奴隷。これを養成するため、勝負事をタブー視し、行き過ぎた平等教育を強いられた結果がこれだ。何を頑張ればいいのか、頑張っても同じ評価の下される茶番(ギョウジ)に意味はあるのか。

 そう疑問に抱き、次第に自身が認められない環境に無気力となっていく。


 数十年前の、過度な期待による子どもの自殺は明らかに減った。

 しかし減ってはいるが、依然数は多い。比較的成功している――何を以て「成功」とするかは人それぞれだが、金が物を言う世においては経済的な成功――家庭では、未だに冷静沈着な親が子の意向に関わらず、有無を言わせず過剰な習い事をさせる、ビジネス書を買い与える、といった旧態依然とした構図が存在している。

 習い事に勉学と多忙な子どもは、遊ぶことを知らない。実際には陰湿ないじめ――詐欺、窃盗、傷害、殺人等――や分身(スマホ)間での歪んだ遊びは知っているが、単純に体と体が向き合った、一見「意味のない」遊びをすることがなくなった。

 

 習い事などで交わされる「約束された遊び」ではなく、偶発的に交わされる遊びが消えたのだ。

 そこには確かに口頭で交わされた約束があった。それが守られた時、偶発的であったが故に信頼感がより大きくなったものだ。「自分は孤独じゃない」と分かった。

 しかし、今や多忙を極める子どものスケジュールに余裕はなく、友人と遊ぶにも「いつ」が最も重要になる。

 

 私の幼い頃はまだマシで、ある程度の友人は暇――習い事に忙殺される子どもも確かにいた――だったため、遊ぶことは「前提」にあった。そのため、交わされたのは「どこ」に尽きた。


 ビジネスライクな子どもたちは、友人を通して自身を見詰め直す(いとま)すら得られず、目の前に与えられた「課題」だけを淡々とこなしていく。

 課題から離れ、子ども同士、教師――彼らも旧来より増した雑務(ビジネス)に追われている――はおろか、親子での対話すらなく、鬱憤が何たるかさえ知る暇もない。

 捌け口のない溜まった鬱憤は、やがて歪んだ遊びへ、或いは溜まりにたまって「うつ」となり、自身を自殺へと追い遣る。


「自身の置かれた負の境遇は、非力な自分のせい」といった、強迫観念的な自戒の意識を誇大させ、自傷する例が多くあるのだ。「自分は愛されていない」と思う子ども、親の期待に応えられなかった子どもならば、猶更自身を死地へ追い遣るだろう。


 反対に、何の努力もなしに「そのままでいい」という保護者からの「無償の愛(歪んだ放任)」が、大勢の無気力状態の子どもを生んだ。

 随伴性――「これを頑張れば、これだけの報酬が貰える」といった明白な仕組み――の乏しい社会において無力感は更に醸成され、大半は気付かぬ内にうつを発症し、保護者や友人、教師との関係の希薄な子どもほど負の感情を抱え込み、自死へと至る。


 外出すら「管理」された世、ビジネスパーソンで賑わう社会において、孤独になる条件などいくらでも揃うのだ。ましてやビジネスの波に乗れず、習い事での交流すら絶たれた子どもに、より正確な情報を知る術はなく、彼らはやがて浮いた存在となる。

 要するに、歪んだ遊びに興じる「お友達」の玩具(おもちゃ)となるのだ。


 頑張らなくてもいい子どもがいる一方、過度に頑張らざるを得ない子どももいる。

 二極化した子どもは共通して何らかの虚無感を抱えている。

 彼らの居場所は板を媒体としたネットワークの中にある。他者を通して見る自分は、いつも誹謗と中傷に(まみ)れている。

 しかし、それこそ「確かな」アイデンティティなのだ。

 せめて綺麗になりたいと、皆が同じ顔をする。異端児を吊るし上げることで、規範は統一される。

 ネット社会に芽生えた意思は、やがて自らが嫌ったはずの外の社会に似通っていく。


 ――我々は奴隷。でも何に支配されているのやら。我々はどこに向かえばいい?


 板は分身、果ては自身。


 ――そんなわけあるか! 動け! 君たちは明らかに運動量が少な過ぎる! 

 横隔膜の上下運動が減少しセロトニンが欠乏しているのだ! 

 部屋に籠ってジャンプしろ! しかし酒は飲むな! あれは阿呆になりたい大人の飲み物だ! 

 水道水を鱈腹飲め! なけなしの金を使ってまで社会に貢献する必要はない! 

 快感を余所(よそ)に自分を縛るな! そんな板は捨ててしまえ!


 勢いに任せ自身の板を振り(かざ)してはみたものの、踏ん切りがつかず下ろしてしまった。

 何せ給料の大半を持っていかれた代物だ。

 しかし、事もあろうか、その拍子に手から滑った板はアスファルトに落ちた。

 画面が粉々に割れた。


 ――嗚呼、死にたい。そんな私は躁うつ病――


 いい加減家に帰ろう。

 ジュースの影響で一時的にハイになった反動か、躁状態は長続きせず、むしろ飲む前よりも憂鬱で眠い。

 持続性で言えばやはりお米に限る。


        ***


『――速報です。本日一〇時五〇分頃、管理区13104三丁目交差点で発生したひき逃げが、先程、警視庁の取り調べにより闌籐抂也(たけとうきょうや)・衆議院議員(72)によるものと判明しました。議員は取り調べに対し当時の状況について「まったく気が付かなかった」と供述しているとのことです。警察は、取り調べの様子から闌籐議員が「認知能力に著しい低下が見られる」とし事故の観点も検討した上で更に調査を進める見込みです。また、今回被害に遭った央通(なかどおり)美咲(みさき)さん(33)と長女の(さち)ちゃん(5)は近くの病院に搬送されてから間もなく死亡が確認されました。番組スタッフ一同、お二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます――』


 床に転がった下着を拾おうとした手が「サチ」の言葉に思わず跳ねた。


 自分と同じ響きを持った少女。不条理な世に対して全く無力である点において、私と彼女にそう違いはなかった。

 死んでいたのは私かもしれなかった。

 何故自分が死に至ったのかも知らずに、ただ無力なままに、際限なく肥大したそれに犯され()き捨てられる。

 そう、精子(ザーメン)(まみ)れたこの下着のように。


 ――まるで私は精子の奴隷(ザーメンティッシュ)


 ひき逃げた(やっこ)さんは、恐らく最後まで逃げおおせるだろう。

「私は認知症です。だから人を殺した自覚もありません」

「はいそうですか」、で終わり。


 悪くて短期間の認知治療に時間を潰されるだけだろう。

 そればかりか、その「功労」を称えられた彼は莫大な退職金を授与され、今後も生きている限り有り余る年金が献上される。

 ――バルス!


 迂闊だった。

 つい最近引っ越したばかりであることと、室内だから大丈夫という慢心が油断を生んだのだ。

 窓際のハンガーに掛けられていたはずの下着は、今や床に転がり、見るも無残な姿となっている。

 執拗に濡らされたクロッチの部分が何とも確信的だ。

 ――勿論信ずるは歪んだセックス宗教。

 ザーメン。(きた)るべき終末(週末?)に向けて彼らは有り余る精を解き放つ。

「次はお前だ!」と言わんばかりに、濡れそぼったそこだけおっぴろげてある。


 せめて二人の魂だけは輝いていてほしい。どこか遠くへ、人智を越えた先の先まで行ってほしい。人の作った結界を越え、いつの日か報われてほしい――

 などと思いながら台所をうろうろしている内に、何をしようとしたか忘れた。


 見事なまでに精巧なガラスな割り。

 クレセント付近に拳よりも小さな穴が空いている。おまけにここは五階だ。

 顔も知らない彼の執念には心の底から恐れ入る。それだけのエネルギーを、何故他に充てようとしないのか。答えは明白である。彼が確信犯であるからだ。


 しかしそれは彼だけに限ったことではない。レイプを断行する者の多くは何らかのコンプレックス、大半は貧困を抱えているからだ。

 メディアに上げられるレイプは見るに堪えない凶悪そのものである。そうした方が「面白い(ウケる)」からだ。

 しかし実態として、多くの被害者は殺されていない。何故か。

 

 レイプ魔にしてみれば、子孫が残せないからである。

 彼は子孫繁栄を「願って」交尾(セックス)するのだ。それが意図的であるかは些末な問題に過ぎない。

 自然界では、闘争の末にあぶれた多くの種のオスが、知らん顔のメスを「レイプ」する。無理やりだが、それは至極当然のように横行している。暴行を加えるが、殺しはしない。


 腕力より金こそが物言う人の世、多くの実質的貧困を生み出すこの世において、女に見向きすらされない男の転身先は性犯罪者(レイパー)。そこに(ラヴ)はない。


 彼も可哀そうな精子の奴隷なのだ。


 ザーメン! ザーメン! ザーメン! ハゲルヤ! 


 ――もしかしてセックス宗教って流行ってんの?


 濡れてない箇所を摘み、急いでバクテリア方式のゴミ箱に放り込む。

 ザーメン。少しばかり床に垂れたのは大目に見よう。


 独身教(いっしんきょう)者は強いのだ。


 無論、この自宅(ワールド)の神にして支配者は私。

 (きた)る夜勤までの自由時間(アバンチュール)、暴飲暴食も意のままである。

 お腹は減ってないけれど。


 職場に戻るまであと四時間半。

 自宅に戻ったのは着替えと仮眠を取るため。さっき病院を出たのが一〇時だから、私が今週与えられた休暇は僅か七時間余り。


 ――え? あと三時間しかないんですけど⁉


 シャワーや身繕い――これでも人間なのだ――、電車を使った通勤時間を考慮すると更に短い。

 しかし嘆いていても仕方がない。目下すべきは仮眠。既に限界を迎えつつある。


 カップ麺専用ポットの置かれたテーブルに買い物袋を放り出し、六畳間のソファへ突撃(ダイブ)しに掛かる。


 ――クシャッ


 テーブルから唐揚げパックが滑り落ちた。これも衝動的に買ったものだが、今は食べられそうにない。


 柔らかなクッションに沈んでから、窓が開けっ放しだったことに気付いた。

 いかんいかん。穴が空いているとは言え閉めずにいるのは危険だ。

 狂信者がウェルカムな状態に気付いて、また良からぬ勘違いをされては敵わない。


 ソファから落ち、そのまま淵まで転がって行き窓を閉める。

 幸い床に敷いたモサモサの絨毯――春には片すと心に誓ったやつ――のお陰でガラス片は刺さらなかった。

 生来の物臭(ものぐさ)も偶には役に立つものだ。


 ――……不味い。我慢できない。もうこのままでいいか。


 今この部屋に訪問者があったならば、十中八九「事件」とも疑われるであろう状況、格好のまま眠気に身を任せる。

 しかし手が痺れるのは不味い。震える手では危うく患者を絞め殺してしまい兼ねない。

 上体を反転させ、尻に敷いた手を抜き出す。


 ふと、手に触れるものがある。

 風で落ちたのか、留め具が甘かったのか。それはいつぞや兄と祭りに行ったときに強請(ねだ)った「意味のない物」。


 就職してから二度目になる引っ越し――原因はお馴染みの犯罪者(レイパー)――に際して、手伝ってくれた兄と気まぐれに聞こえてきたお囃子(はやし)に出向いたのだった。

 昇進したからと言って自慢気な態度が憎らしくなって、欲しくもないこれを買わせたのである。


 幼い頃「朝アニメ」界隈を騒がせた魔法少女キャラクターの顔面だ。今ではとっくに追いつけないほどシリーズ化している。

 これを屋台に置いたおじさんはきっと大きいお友達だろう。つい最近になって「オールスターズ」のレジェンドキャラとして登場したことを把握していたのだ。そうでなければ単なる在庫処分。


 最後の力を振り絞ってお面を顔にあてがう。

 ただでさえ狭い世界が更に狭くなった。空調すらつけていない蒸し風呂のような部屋。

 暑い。熱過ぎる。そしてイタい。


 しかし断然勇気が湧いてきた(錯乱)。


「スパイラル、エアー、スプラァァァッシュ! ――皆殺しだ!」


 最早自分が何をしているかも分からなくなってきた。

 大声を出し、両手を振り翳したつもりになっていただけかもしれない。

 

 それでも何だかすっきりした気がした。



 チンチンドンドンチャカポコチャカポコ……


 近くでチンドン屋のラッパが鳴り出した。

 囃し立てる子どもの声から察するに、もうすぐそこまで来ているようだった。





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