婚約破棄に成功した王太子殿下の末路……
「ルクレツィア・ニルヴァーナ侯爵令嬢! 平民であるナンシー嬢を虐げる貴様は未来の王妃に相応しくない!! 貴様との婚約は、今この時をもって解消させてもらおう!!」
学園の卒業式。
パーティー会場で王太子ウィルソンが声高々に婚約破棄を宣言する。
「そんな!? ウィルソン王子、お待ちください! 私は、誓ってそのようなことはしておりませぬ!」
「ええいっ、この期に及んでまだしらばくれるか愚か者め!! 証拠は既に上がっているのだぞ! 見よ、麗しきナンシーの涙を!! 貴様にイジメられて泣いているのだ! これは明白な事実であろうが!」
「そ、そんな……人違いです。私は、そんなこと本当にしておりません……っ」
「見苦しい! おい、衛兵! 何をしている! この女を早く摘み出せ!!」
「いやぁーっ!」
警備の兵士達に取り押さえられ、無理やり腕を引っ張られ、壇上から引きずり降ろされるルクレツィア。彼女は「うぅ……どうしてこんなことに……」と悲しげに呟いた。
連行されていく元婚約者の姿に、王太子は満足げに鼻を鳴らした。
「ふん、これで邪魔者は消えたか」
「ありがとうございますっ。ウィルソンさま!」
彼の隣に立つ平民の少女が、潤んだ瞳で彼を見つめて媚びた声音で言った。
その顔は歓喜に満ちており、頬は紅潮していた。
「礼を言われるようなことでもないさ、当然のことをしたまでだよ。悪女は去った、これで君を害する者は存在しない」
彼は少女の肩を抱き寄せ、甘い言葉を囁く。
「ああっ……嬉しいです……っ」
ナンシーは、ウィルソンの胸に頭を預けた。
その姿はまるで恋人同士のようだ。
これら一連の騒動を見ていた周囲の生徒達は皆一様にうんざりとした顔になる。
―――ああ……また始まった。
王太子と、その想い人である平民の少女の茶番劇。
周囲から冷ややかな視線が向けられていると知らずに二人は愛を語り合っている。
「ナンシー、君と婚約しよう。あのような女ではなく、君こそが我が国の王太子妃に相応しい」
「謹んでお受けいたしますぅ」
「ふふっ、いい子だ。さて、事後報告だが、父上にも報告しておかないとな。私とナンシーの新たな門出を祝福してもらおう」
婚約者を捨てて、新しい女と婚約を結ぶウィルソン。
おそらくウィルソンにとっては、今日この時こそが人生の最盛期なのだろう。
婚約破棄に成功して、愛する女性を手に入れた。これ以上ないくらい幸せだと思っているに違いない。
この醜態が、近い将来、自分の首を絞めることになるとも気付かずに……。
◆
学園の卒業パーティーで侯爵令嬢との婚約を破棄することに成功した王太子ウィルソン。
その日の夜。彼は父親である国王と内密の会談を行なっていた。
「父上、いえ国王陛下。夜分遅くに申し訳ございません」
「構わん。余に話したいことがあったのだろう? 例えば、そう、学園の卒業パーティーで起きた騒動のことなどを」
国王は威厳ある面持ちでウィルソンを見た。
「お話が早くて助かります。実は――」
と、ウィルソンは事の経緯を説明しだした。
曰く、平民の女性に恋をしたのだと。
曰く、嫉妬した侯爵令嬢が、その平民の女性に嫌がらせをしたのだと。
「平民を虐げるような女など、我が国の国母に相応しくありません」
「だから婚約破棄をしてきたのか。余に相談もせずに」
ちくりと嫌味を言うと、王太子は「申し訳ありません。ですが、あれが最善だったのです」と開き直るように言い返してきた。
「そうか。まぁいい、ところで学園を卒業したのであったな。記念にワインを用意した。共に飲み交わすとしよう」
そう言って、王は自室の戸棚から一本のボトルワインを取り出した。
「父上。私が注ぎますよ」
「よい。今宵ぐらいは余が注いでやる」
ソファから立ち上がろうとしたウィルソンを片手で制し、国王はグラスにワインを注いでいく。
血のように紅き葡萄酒がグラスの三割くらいまで入ると、慣れた手つきで国王はスワリングする。
「ふむ、このブランドの七十五年産は出来が良くないとされているが、香りと見栄えだけは立派だな」
「七十五年産といいますと……」
「ああ、お前の誕生年のワインだ。成人した時に、共に飲もうと思っていた」
「父上……!」
ジーンと感極まった表情でウィルソンは父王を見る。
厳格な父が、そのようなサプライズを自分に用意していたことを知り、ウィルソンは感動していた。
「さぁ、飲むがいい」
「ありがたく頂戴します」
手渡されたグラスを受け取り、照明の光に当てる。
赤味を感じさせる黒々しさ。飲み頃はいつか分からない。ワインの良し悪しも、今日が初めての飲酒なため何とも言えない。
そんな赤ワインを、見よう見真似でスワリングし、ウィルソンは口に含んだ。
「不思議な味わいですね。これがワインというものですか」
「どうだ?」
「……美味しいのだろうとは思いますが、正直分かりませんね」
「そうか」
国王は表情を変えず、自身もグラスの中の液体を口へと運ぶ。
「まぁ、こんなものだな。直轄地の第一級畑で作られた最高級品だが、やはり醸造が良くない。これなら、他領にある別の村で作られた三級の方が質が良いくらいだ」
「一流の場所で育てられても、出来が三流以下になるなんてこともあるのですか」
「三級は決して三流ではないのだが、本来のポテンシャルを活かせていないという意味でなら合っている。この赤ワインが作られた田園では、その年に経営者が代替わりしたのだが、経営者が醸造責任者をクビにしてしまってな。その際に色々な技術が失伝してしまったそうだ」
「なるほど。愚かな経営者ですね、技術継承を完了させずに追い出してしまうとは」
「そうだな。決断をする時、それによって何が発生するのかを十全に知り、問題点は事前に潰しておかねばならん。上に立つ者ほど、特にそのことを自覚せねばな」
「ええ、肝に銘じておきます」
ウィルソンは、こくりと小さく首肯した。
王は僅かに顔をしかめ、そしてグラスをテーブルに置く。
「それで? これからどうするつもりなのだ?」
「ナンシーと結婚し、彼女を王太子妃として迎えようと思います」
国王の問い掛けに対し、ウィルソンは即答した。
「……そのナンシーとやらは、ニルヴァーナ侯爵令嬢との婚約を破棄する程の価値があるのか?」
「もちろんです! ルクレツィア……ああいや、ニルヴァーナ侯爵令嬢などと比べるまでもございません。それはもう、彼女は素晴らしい女性なのです!」
「ニルヴァーナ侯爵家と縁を結ぶことで得られるメリットよりも、その平民の女を選ぶということか」
「はい。私にとって彼女以上の女性は存在しません」
「後悔はないのだな」
「微塵もございません」
ウィルソンは力強く断言した。
威厳のある父に対抗するために、ワインを一気に呷って気持ちを昂ぶらせる。
「ならば好きにしろ。もはや、余は何も言うまい」
「ありがとうございます、父上……!」
事後報告ではあるが、父王に婚約破棄と新しい縁談を認めてもらったウィルソンは、嬉しそうにお辞儀をした。
(これで私とナンシーの婚姻の障害は無くなった。あとは挙式をいつにするかどうかだけだ)
明るい未来予想図を展開してウィルソンは内心でほくそ笑む。
「ところで、ニルヴァーナ侯爵令嬢がナンシーとやらに嫌がらせ行為を働いたとのことだが、どこまでが真実だ?」
「全てが真実でございます」
「……証拠はあるのか?」
「証拠はナンシーの証言でございます。これに勝る証拠はございません」
そう言って、ウィルソンは上機嫌にニルヴァーナ侯爵令嬢のナンシーに対する悪行を語り出した。
やれ、教科書を破り捨てただの。
やれ、陰で悪口を言っていただの。
やれ、学園の池に突き落としただの。
「……なるほどな」
一通り話を聞いた国王は、ふぅっと息を吐いた。
「酷い話だ」
「おおっ、流石は父上! 分かってくださいますか! そうなのです、ニルヴァーナ侯爵令嬢は真に悪しき令嬢なのでございます!」
「そうか」
「ええ! 本当に酷い女だ! 婚約破棄してやった時のヤツの顔は中々見物でございましたよ。最後まで罪を認めぬ見苦しい女を会場から叩き出した時の痛快な気分は、二度と味わえることのないものでしょう」
「さぞニルヴァーナ侯爵令嬢は傷ついたであろうな」
「なんの! ナンシーが受けた哀しみに比べたらその程度! 卒業パーティーで断罪してやりましたが、まだ溜飲が下がりません。私が王位に就いたら侯爵家ごと取り潰してやるのもいいかもしれませぬ」
「ふむ」
意気揚々と語る息子を見て、国王は顎に手を当てた。
「お前は、余程そのナンシー嬢に入れ込んでいるようだな」
「ええ、彼女となら地獄の果てまで共に行ける所存でございます」
「そうか」
相槌を一つ打ち、顎に当てていた指先を、こめかみへと移動させる。
「なぁ、ウィルソン」
国王は静かに王太子の名を呼ぶ。
その声音には、どこか悲哀が滲んでいる。
しかし、ウィルソンはそのことに気が付かないまま「はい、何でしょうか父上」と返事をする。
「お前は、人生で失敗をしたことがあるか?」
「はい? いきなり何の話ですか?」
「余は……最近になって己が大いなる過ちを犯していたことに気が付いたのだ」
「父上ほどの方が一体何を……」
ウィルソンは不思議そうに首を傾げる。
そんな彼の様子を見て、国王は大きなため息をついた。
「余はな、ウィルソン。息子であるオマエに、無意識に期待をし過ぎてしまったのだ」
「え……?」
「血筋自体は悪くないのだ。教育環境さえ整えてやれば、自ずと為政者の才が花開くと……勝手に思い込んでいた」
そこで言葉を区切り、国王は目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、かつての思い出。
第一王子として生まれた少年の、成長していく日々。
国王はゆっくりと目を開け、息子の顔を見据える。
ウィルソンは、父の瞳に宿っている感情を読み取ることが出来なかった。
「余は……お前という人間の器を、見誤った。お前は、王たる器ではない」
失望の声色で放たれたのは、事実上の勘当宣言だった。
次期国王である王太子に対して、王位を与えられないと言っているのだ。
「な……!? ち、父上……。それは、どういう意味ですか……!?」
突然のことで理解出来なかったウィルソンは、愕然とした表情で父王の顔を凝視し、震える声で問いかける。
「言葉通りの意味だ。お前は、この国の王として相応しくないということだ」
「何故です! 私は誰よりも優秀なはず……!」
「数値上はな。だが、国益も考えられぬ者に王としての資質はない。お前にはそれが致命的なまでに欠けている」
ウィルソンの戯言に対し、国王は淡々と答える。
「王族の婚姻は政治の道具でもある。国益となる相手を娶るのが当たり前であり、余は侯爵家との縁談によって、派閥の関係強化を狙っていた。それが貴様の愚行で白紙となった。いや……白紙どころでは済まぬな、ニルヴァーナ侯爵との間には埋めがたい大きな亀裂が入ってしまっている」
「そ、それに関しては申し訳なく思っています……。しかし、ニルヴァーナ侯爵令嬢の悪事は断罪してやらねばならぬものでして……」
「その断罪とやらで得られるメリットが、貴様の私欲を満たすだけのものと知れ。お前は、ただナンシーとやらを正室に迎えたかっただけであろうが」
「ぐっ……! で、ですが! ナンシーを側室にするなんて、それではナンシーが可哀想ではありませんか!」
「だからどうしたというのだ。一人の平民をエコ贔屓して、その他大勢に辛酸を舐めさせるよりは遥かにマシだろう」
「な……っ!?」
「挙げ句の果てに『侯爵家を取り潰す』などと宣いおって……。余には、貴様が内乱を引き起こそうとする逆賊にしか見えん」
「こ、言葉の綾でございます。実行に移すつもりでは……」
「侯爵家との婚約を一方的に破棄してきた貴様がそれを言っても説得力はない」
冷徹な眼光で王子を射抜く。睨まれたウィルソンは萎縮した。
「我が息子ながら情けない男だ。何の国益にもならぬ女に惑わされて道を誤るとは」
「……ッ。いくら父上でもナンシーへの侮辱は許せません! 発言の撤回と謝罪を要求します!!」
「吠えるな駄犬。無能の分際で権利だけは一丁前に求めおって。余の方こそ、貴様に侯爵家への婚約破棄の撤回と謝罪を要求したいぐらいだ」
「……!」
怒り心頭のウィルソンに対して辛辣な言葉で王は答えた。ウィルソンは悔しそうな顔で父王を睨むことしか出来なかった。
「もっとも……今さら撤回や謝罪をしたところで、もう遅いのだがな」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がる。
「父上!! まだ話は終わっておりませぬぞ!!」
ウィルソンも立ち上がり、詰め寄ろうとする。
「ナンシーと私に対する暴言の数々……! 父上といえど、これ以上は看過出来かねます! 場合によっては―――!」
と、そこまで言いかけて。
「ゴフッ!? ごほっ、げほ……っ」
突如、ウィルソンは咳き込んだ。
こみ上げてくる吐き気を堪えながら口元を押さえる。
そして口元を押さえた手を見ると、真っ赤に染まっていた。
(な、んだ……これ……は……?)
自分の手を眺めながら呆然とするウィルソン。
指の間からボタボタッと鮮血が滴り落ちる。吐血したのだ。まるで先程飲んだワインのように赤黒い血が、床にポツリポツリと落ちていく。
「い……いったい……何が……?」
無意識に身体が震える。定まらない焦点。混乱する思考。
自分の身に起こっている出来事が容認できない。
「ぐっ、おえぇ……ッ」
さらに口から血を吐き出す。
顔色は蒼白になり、足下から力が抜けて膝が床についた。そのまま崩れ落ちそうになるが、咄嗟にテーブルに掴まって倒れ伏すことは回避した。
(これは……、毒、か? バカな……、いつそんなものを……!?)
ウィルソンは自身の胸元の服を掴み、苦しそうに呻きながらも必死に頭を働かせる。
思い当たる節は、ただひとつ。
「ハァ、ハァ……っ。まさか……、ワインに……?」
「―――正確には、ワイングラスの方だな」
国王がつまらなさそうに呟いた。
感情の無い、恐ろしく冷たい声だった。
「ちちう、え……?」
信じられないといった表情でウィルソンは父王の顔を見る。
この状況下、今の発言、その表情。もはや疑う余地もない。
毒を盛られたのだ。それも、父親に。
「あ、ああぁ……! なん……で……、父上が、私を……!?」
「国を守る為だ。国家を存続させる為に、余は貴様を切り捨てることにした」
「ま、待ってください! 意味がわかりません! なぜ私が殺されねばならないのです……!」
「お前を生かしておけば、確実にニルヴァーナ侯爵家との軋轢を生むことになるからだ」
「そ、それは……!」
「それに、お前のやったことは他の貴族たちから王家の信用を失わせる愚行にも等しい。『色香に惑わされて浅慮な行動をする者が次期国王なのか』とな」
「ち、違うんです! 私は色香に惑わされてなどおりませぬ! 私は、ただナンシーのために……!」
「黙れ愚息。それが色香に惑わされているのだと何故分からぬ。貴様の弁明は言い訳にすらなっておらぬぞ」
「―――ッ!」
冷たく言い放つ父王の声に、ウィルソンはビクッと身を震わせて押し黙った。
絶対強者としての国王の威圧感が、王太子の全身を恐怖で支配していく。
「この言葉は、今まで貴様に何度も言ってきたはずだ。『王は情で動いてはならない』『王は義で人を動かさねばならない』『王は国益のために義と情を利用して動け』と」
「…………」
「しかし貴様はそれらを守らなかった。お前は情で動き、他人を納得させる義を用意せず、国益を損なう行動を起こした。せめて実行の前に相談をしてくれれば良かったのだがな。そうすればこうする必要もなかった」
全ては王太子の事後報告が悪いのだ。
個人の裁量権を大幅に逸脱した重要な決断を、上位者の断りもなく勝手に決めてしまう。
それも、止むに止まれぬ現場判断ではなく、意図的な独断専行によって。
この国を背負う王として、それは最も許し難い行為である。
「貴様とニルヴァーナ侯爵令嬢との婚約は、余とニルヴァーナ侯爵が決めたことだ。それを覆せば、誰が不満に思うかを貴様は考えるべきだった。決断をする時、それによって何が発生するのかを十全に知り、問題点は事前に潰しておかねばならんというのにだ。貴様は、それを怠った。―――故に、お前は此処で死なねばならない」
冷酷な眼差しを向け、父は言った。
深い失望と軽蔑が入り交じった眼光だった。
「で、ですが……っ、ニルヴァーナ侯爵令嬢の罪は許しがたいものでして……ッ」
「ニルヴァーナ侯爵令嬢がナンシー嬢を害したという件か?」
「そうです!」
「別に、それが嘘か真でも余は問題視しておらん」
「なぁ……っ!?」
「通常の流れであれば、ニルヴァーナ侯爵令嬢を正妃とし、ナンシー嬢は寵妃として側室にすればよい。その際に自分よりも身分が下位の第二夫人に対して第一夫人が格付けのために圧を掛けるのは当然の反応だ」
「し、しかし、それではナンシーが!?」
「そのナンシー至上主義が貴様の最大の欠点だな。好いた女のためなら周りのことも考えずに暴走する貴様の悪癖のせいで、余も貴様の行動を読み間違えてしまった」
国王の耳にも、ウィルソンとナンシーの熱愛話は随分前から届いていた。
だが、まさかここまでとは思っていなかったのだ。
学園という閉鎖的な環境で、普段は接することの少ない庶民の奔放さに惹かれて一時的に恋心が燃え上がっただけだろうと。
そう思い込んでいた。時間が経てば王族としての立場を思い出して目を覚ますだろうと考えていたのだ。
「思えば……、貴様がニルヴァーナ侯爵令嬢と不仲になりつつあるという噂を聞いた時点で手を打つべきだったか。いや、それでも貴様の性格上、やはり同じ結果になっていたかもしれんが……」
苦虫を噛み潰したような表情を国王は浮かべる。
「とにかく、今更言っても仕方あるまい。貴様を殺して、余は物事の軌道修正を計らねばならぬという事実に変わりはない」
「ま、待って……! お願いします、お待ちください……っ! 私が死んだら、誰が王位を継ぐというのですか……ッ」
「同じ腹から生まれた弟がいるではないか」
「そ、そんな……! デイビットに継がせるというのですか!? アヤツこそ王としての器ではありません……!」
ウィルソンは第二王子である弟のことを思い出す。
昔から気弱な性格をしており、王となるには些か頼りない印象があった。
「デイビットは思慮が深すぎるところがあるが、浅はかな貴様よりはマシであろう」
そう言って、国王は戸棚からもう一本のワインボトルを取り出した。
先ほど飲んだブランドの年度違いのワイン。八十年産のものだ。弟の、誕生日年のワインだ。
「このワインのブランドと同じだ。七十五年から七十九年までワイン造りに失敗し続けたことで経営難に陥ったワイナリーが、経営者を追い出して試行錯誤の末に作った起死回生の一品。オフヴィンテージだがグレートヴィンテージにも匹敵する。……余も、それに倣うとしよう」
王は八十年産のワインを戸棚に戻し、ウィルソンの方に向き直る。
ウィルソンは胸を押さえながら、恨めしげな視線で父を見上げていた。その眼は充血しており、呼吸は荒い。
毒に苦しむ息子を冷めた目で眺めながら、国王は言った。
「それにしても、こんなことで予備を使わされることになるとはな……」
スペアとして用意してあった第二王子という存在。
第一王子が不慮の事故で亡くならない限り、デイビットに王位が渡ることはなかったであろう。
デイビットの性格が大人しめなのは、無用な継承争いが起きぬように、野心を抱かないような教育を意図して施してきたからだった。
「まぁいい。安心しろ、ウィルソン。お前の死は有効活用してやる。お前のような愚か者には勿体無いほどの使い道だ」
「な……っ」
「あの世で貴様が寂しくないように、ナンシーとやらも後で逝かせてやる。『彼女となら地獄の果てまで共に行ける所存』なのであろう? ならば実践してみるがいい。二人仲良く地獄で乳繰り合ってろ。余の王国に、貴様らは要らぬ」
「――――ッ!?」
ウィルソンは烈火の如く抗議をしたかったが、言葉の代わりに血が口から漏れ出た。
もはや話すだけの余裕もなく、ただただ藻掻き苦しむばかりだ。
それでも、僅かに唇の動きで『ゆ・る・さ・な・い』と言っているのが分かる。
「まったく、最期まで強情なヤツだ。本当に、変なところだけ無駄に似たな」
国王はグラスに残っていたワインを口元に運び、一気に飲み干す。
「……このワインは、将来的に貴様がどのような人間になろうとも、あらゆる面で教訓になるような一本として寝かせておいたつもりだが、余にも苦い教訓となってしまったか……」
人生とはままならぬものだ、と悲しげに呟きながら。
国王は、元王太子だった男の苦痛に満ちた死に顔をしばらく見つめていた……。
◆
第一王子ウィルソンが病死したという訃報は、ウィルソンが婚約破棄を行った翌日、瞬く間に貴族と民衆たちの間に広まった。
王宮の公式声明としては『病死』となっているが、貴族たちの間ではもっぱら毒殺説が主流となっている。
果断な現王が愚かな息子を処したのだと専らの噂であった。
しかし、まことしやかに囁かれる噂の中には、『ウィルソン王子が実は不治の病に罹っていて、愛するニルヴァーナ侯爵令嬢に悲しい想いをさせないために、敢えて婚約破棄という愚行をしたのではないか?』というものがあった。
「……」
ルクレツィア・ニルヴァーナ侯爵令嬢は、窓から外をぼんやりと見ながら物思いに耽っていた。
婚約破棄を言い渡されて数か月。ここ最近、彼女はずっと心ここにあらずといった様子でいる。
(……いったい、なにが真実なのでしょう?)
世の中、わからないことだらけだ。
自分をこっぴどく振ったウィルソンが病死したと聞き、その夕方には国王陛下が直々にニルヴァーナ侯爵と面会に来たと知り、そして更に翌日には自分と第二王子デイビットとの婚約が内定してしまっていた。
己のあずかり知らぬところでトントン拍子に話が進んでいることに薄ら寒い恐怖すら感じた。
婚約破棄された当日の夜。父であるニルヴァーナ侯爵は、あれほど大激怒していたというのに、国王からの手土産を貰った途端に態度を軟化させたと使用人たちの噂で知った。その手土産とやらが何なのかは、誰も知らない。その手土産が何処にあるのかも……。
王太子ウィルソンの謎に包まれた急死は、様々な憶測を呼んでいる。
一説によると、侯爵家との繋がりを重視した王家による粛清。
また、別の一説によれば―――、
(ウィルソン王子が不治の病だったなんて、知らないわ……)
そんな素振りはなかった。
彼は学園に通うようになってから暫くして、あのナンシーという女に魅了されておかしくなったのだと思っていた。
(でも、調べれば調べるほどに、ウィルソン王子の死因が病死であるという裏付けが取れてしまう)
今回の件は社交界でも特大のスキャンダルだ。
詳しく語らない王政府に焦れ、多くの人間が真実を調べるために奔走した。
聴取すべきは王家や忠臣たちではなく、その周りの関係者たち。口を割らない者たちではなく、あくまでも断片的にでも事情を知っているであろう者たちに対してアプローチは仕掛けられた。
デマやガセネタが飛び交う中、気が付けば、ひとつの信憑性の高い情報が人々の間に広まっていた。
曰く――、王仕えの宮廷医が助手に対して、
『ウィルソン王子は五年ほど前から治らぬ病に冒されていた』
と、酒の席で口をこぼしているのを偶然にも聴いてしまった者がいたらしい。
最初は誤情報の類だろうと思われていたが、しばらくして件の宮廷医が機密情報漏洩罪に問われて謹慎処分となり、世間はこの話が事実なのではないかと騒ぎ出した。
―――ウィルソン王子の死は、毒殺ではなく、本当に病によるものだったのではないか?
その疑いを起点とし、考察が広がっていく。
『ウィルソン王子は不治の病を患っていて、余命数年しかなかった』
『残り少ない命だからこそ、ウィルソン王子は身辺整理をしようとしていたのではないか?』
『自分が死ねば、ニルヴァーナ侯爵令嬢が若くして未亡人になってしまう。そのことをウィルソン王子は憂いたのではないだろうか?』
『もし不治の病に冒されていることを伝えても、義理堅いニルヴァーナ侯爵令嬢は操を立てようとするだろう』
『愛する女性に、そのような業は背負わせられない。そう考えたウィルソン王子は御自身を悪役にすることで、ニルヴァーナ侯爵令嬢との婚約を解消させ、彼女に幸せな道を歩んでもらおうとしたのでは?』
『医師の言っていた五年前とは、ウィルソン王子が学園に通い出し、平民の女との逢瀬を頻繁に行うようになった時期と一致する』
『ウィルソン王子の死後と同時に行方をくらませたナンシーという女のことを調べてみたが、まるで最初から存在していなかったかのように彼女の痕跡が消されていた。戸籍も経歴も全て巧妙に偽造されたものだと発覚した』
『ナンシーは偽名で、彼女の正体はウィルソン王子が用意した嘘の愛人なのかもしれない』
『つまり、ウィルソン王子の婚約破棄騒動は、全てニルヴァーナ侯爵令嬢を想ったがゆえの行動だったのだ』
『ウィルソン王子が亡き今となっては確かめようもないが、しかし、それが本当であるならば、確かに辻妻は合う』
『王家が詳細に語ってくれないのは、ウィルソン王子が陛下に口止めをお願いなさったからに違いない。真実が公になれば、ニルヴァーナ侯爵令嬢が悲しまれてしまう。それでは折角ウィルソン王子が自身の名誉を犠牲にしてまで守ろうとしたものが守れなくなる。だからこそ、王家は沈黙を保たざるをえないのだ』
『ウィルソン王子はニルヴァーナ侯爵令嬢を愛するがゆえに彼女を遠ざけ、国王陛下は息子の願いを聞き入れ、汚名をそそぐことを一切しないことを誓われたのだ。―――これは、まさしく愛の物語だ』
ウィルソン王子の死の真相として、話に尾ひれがついてどんどん肥大化していく。
伝言ゲームのように推測が重ねられ、気付けば集合知として完成され、真実味を帯びていった。
『ニルヴァーナ侯爵がウィルソン王子を深く恨んでいる様子が見られない。むしろ、王子への同情さえ感じられる』
『なんでも婚約破棄の翌日に陛下と侯爵が御会いになっていたとか』
『その翌日にデイビット王子とニルヴァーナ侯爵令嬢の婚約発表か……。事前に示し合わせていなければ、そんなに早く決まるものでもないだろう』
『やはりニルヴァーナ侯爵も、ウィルソン王子の事情を内密に知られていたのだろう』
『では、陛下と侯爵が御会いしていたのは単なるアリバイ作りというわけですか』
真実を知った気になった人々は、自分たちの考察の根拠を補強するように次々と新たな情報を集めていく。
『ウィルソン王子の御学友たちの件を聞かれたか?』
『騎士団長殿の令息と、宰相閣下の令息のことか?』
『左様。騎士団長殿の御令息は、殿下の葬儀が終わられた後に自害なされたらしい』
『殉死か。忠義に厚い騎士であるな』
『平民を優先して侯爵家との婚約破棄をするような愚者に、そのような忠臣がいるはずがない。とすれば、やはりウィルソン王子の病死説は本当なのかもしれぬな』
『宰相閣下の御令息は、修道院に出家なされたそうだ』
『その話は私も聞いたことがあるな。修道院に赴いた者が宰相閣下の令息に事の真偽を聞いたところ「とある方との約束で、私は真実を語る口を持ちませぬ」との一点張りらしい』
『なんとも高潔な御方よのう』
『さすがは宰相閣下の息子というべきか……』
『ところで、こんな話を知っているか? ウィルソン王子の不治の病説が出回り始めた当初、デイビット王子に勇気ある者が「ウィルソン王子が不治の病とは本当ですか?」と訊いた者がいるらしい』
『おお、豪気な者がいたことだ。それで? デイビット王子は何と?』
『眉をひそめながら、「誰から聞いた?」と言われたそうだ』
『それは、何とも……』
『やはり、あの噂は間違いないのでしょうな』
そうして……数か月もする頃には、脚色された美談が出来上がっていた。
公然とは誰も言えないが、王政府や王家は、この噂を否定できないでいる。
いつしか貴族や民衆の間では『表向けには、婚約破棄した直後に病死名義で処断された愚かな王子だが、本当は隠された愛の物語があったのだ』という認識が広まっていた。
(私には、それらが欺瞞にしか思えません)
ルクレツィア・ニルヴァーナ侯爵令嬢は、ウィルソンの性格を深く知っているからこそ、不治の病に冒された健気なウィルソンという説を信じることが出来なかった。
(それに、騎士団長の令息に忠義の心などありませんわ。あの男は、ただ自分が出世するために、ウィルソン王子に取り入ってだけですもの)
ゆえに殉死など有り得ない。
(宰相の令息にしても、修道院にいるのは本当のようですが、元同級生たちの話を聞く限りでは、まるで別人のように人相が変わってしまっているとか)
直接会ったわけではないが、知らない何者かに成り代わられているのではないかという疑念が湧いた。
かつての王太子殿下の死後報告に、ルクレツィアは頭を悩まされる毎日だ。何を信じれば良いのかが全く分からない。
「ルクレツィアさん。ご気分が優れぬようですが大丈夫ですか?」
考え事をしていると、隣から新しい王太子にして新しい婚約者である少年――デイビット王子が心配そうに声をかけてきた。
彼はルクレツィアの五歳年下であり、今年から学園に入学されたばかりである。
「デイビット王子……」
「僕でよければ、いつでも相談に乗りますよ」
そう言って微笑むデイビットの姿は、実に眩しかった。
外見も優しめの好青年風で美しいが、それ以上に彼の内側から溢れ出る輝きが、見る者の心を癒してくれる。傲慢なウィルソンとは、人としての品位が違った。
「ありがとうございます。ですが、ご安心くださいませ。例の、ウィルソン王子の死因の噂話について考えていたら頭が痛くなってしまっただけですので……。やはり、このようなことを考えるべきではないですね」
現婚約者であるデイビットに対して昔の婚約者の話などすべきではないことは分かっているが、ウィルソンの不審死については彼の弟でもあるデイビットにとっても他人事ではない案件だ。
「兄上のことですか……」
デイビットは少しだけ顔を曇らせ、
「ルクレツィアさんは、あの噂話をどう思われているのですか?」
と、確認するように尋ねた。
「私は……、取るに足らない与太話だと思っております。僭越ながら、あの方に……そのような甲斐性はございません」
キッパリと自身の考えを告げるルクレツィア。
するとデイビットは安心したかのような息を漏らした。
「僕も、兄上が世間で噂されるような美談の人間だと思ったことは一度としてありません」
――そうだ。父である国王が、ウィルソンが死んだ当日にデイビットを呼び出して『ウィルソンは不治の病だった』と、巷で出回っている噂と同じ内容を真実として打ち明けてきた時も、デイビットは信じることが出来なかった。
(このことは、ルクレツィアさんには絶対に言えない。ルクレツィアさんは兄上の幻影なんかに囚われていい人じゃない)
急ごしらえの政略的な婚約であるが、デイビットはルクレツィアを懸命に愛そうとしていた。傷心の女性に、これ以上つらい思いをして欲しくないのだ。
(兄上の死のことで気になるのは、父上が僕に話された真相と、社交界や民衆の間で噂されている内容がほぼ同じだということだ。意図的に、この情報を隠された事実として密やかに流行らせようとしているのではないかと邪推してしまう)
デイビットは父王の発言内容を疑い、今まで誰ともウィルソンの死の真相とやらを共有してこなかった。父も、デイビットとニルヴァーナ侯爵以外には伝えないつもりだと言っていた。
しかし、それから数週間後。とある貴族が、兄の死について全く近しい答えを持ってデイビットの前に現れ、事の真偽を尋ねてきた。
(後で分かったことだが、その時点で噂として広まりつつあったそうだ。そして完全に虚をつかれた僕の反応を見て、貴族たちはそれが真実だと認識してしまった)
まるで自分は、あらかじめ用意された模範解答集。
真実に辿り着いた者たちに確信を抱かせる為の後押しとしての存在。そんな役割を父から与えられているような気がした。
「やはり、どう考えても兄上は父上に粛清されたとしか思えない」
「デイビット王子も、そう思われますか」
「はい。ちなみに、ニルヴァーナ侯爵は何か言っておられましたか?」
「父は……『婚約破棄をしてきた男のことなど気にするな』としか」
「そうですか……」
「はい……」
二人の間に沈黙が流れた。
ウィルソンの死の美談は、王家と侯爵家が争わないようにするための大義名分なのだろうとルクレツィアとデイビットは思った。
今回の事件は、その人間の立ち位置によって各々たどり着く答えが違う。
そして、それすらも意図的にコントロールされているのではないかと勘ぐってしまう。まるで少量だけ埋伏された毒のように、二人の胸中には疑念が渦巻いていた。
「あ……、申し訳ございません。こんな湿っぽい話ばかり……」
「いえ、僕の方こそ。いつまでも死者の真実に思いを馳せても仕方がないというのに」
良くない流れだと悟り、互いに謝罪し合って、この議題を終わらせる。
過ぎたことよりも、大事にすべきは今のことだ。婚約破棄をしてきた王太子殿下の末路など、どうでもよいことだ。
「ところで、ルクレツィアさん。僕は、あなたが幸せになれるように最大限努力するつもりですので、どうか覚悟しておいてくださいね」
「え? ええ……。私も、デイビット王子が良き王になってくださるよう、誠心誠意尽くさせていただきます」
突然の宣言に対し、ルクレツィアは困惑しながらも応じた。デイビットは優しく微笑みながら頷く。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」
こうして二人は、互いの手を重ね合う。
それは、ウィルソン王子の婚約者であったルクレツィア・ニルヴァーナ侯爵令嬢が、デイビット王太子の婚約者に本当の意味でなった瞬間でもあった。