一章:邂逅
大飢饉が起こった年だった。
雪虫という真っ白で冬の使者の如くそれらはやってきて、国を一つ滅ぼした。雪虫は米や麦を恐ろしい速さで食いつくし、人々は餓死によって屍の山を作った。
史歴267年のことであった。
一
「阿清!出てきな!」
女の怒声が響いた。邸の中にいた男たちはそれを聞いて豪快に笑った。
「沈清。お前のことじゃないか?こんなところで油を売ってどうするってんだ」
男たちの中でも一際高価な装飾品をまとった男が沈清と呼ばれた少年の背を叩いた。沈清は恨めしげに男を見やり、ため息をついた。
「旦那様。あんたが俺を象棋(将棋に似た碁盤遊戯)に参加させたんでしょ?責任はとってくださいよ」
沈清は立ち上がって少し頭を下げると庭に出ていった。
「尹おばさん!ここだよ!」
沈清が叫ぶと、尹おばさんと呼ばれた中年の女は小走りで沈清に近寄った。
「阿清や。川で水をくんできておくれ」
尹おばさんの言葉に沈清は一気に顔をしかめた。
「嫌だよ!その桶一杯にだなんて、重いだろ!持ちきれないよ!」
「私もあんたには頼みたくないが、今ちょうど下男(男奴隷)のうち使える奴は全員出払っているんだ。とにかく、頼んだよ!」
尹おばさんは沈清の言葉も聞かずに厨房に戻っていった。
「・・・・・・くそっ」
沈清はたった一人隣に残された桶を担ぎ、邸を出た。
二
沈清が仕えるのは尹鈴帝国の第一功臣姜永曹の邸である。国の中で皇族の次に貴い身分を持つ姜氏の邸であるだけに、下男下女(男奴隷、女奴隷)の数も多く沈清もそのうちの一人であった。
姜氏の邸は都にある夜山の山頂にあり、沈清が桶を担いで向かう川はそんな山の中腹にあった。
「もう夜も近いってのに、どうしてわざわざ汲みに行かせるんだよ」
愚痴とため息をこぼしながら山を降り、川を目視できるところまで来て、気づいた。
---誰かいる。
既に夜の帳が降りかけている中、その誰かは川で水浴びをしていた。
ーーー誰だ?この山は姜氏所有のものだからこの川だって姜氏以外は入れないはずだ。
沈清はよく目を凝らし、身を乗り出して誰なのか確認しようとした。
ーーー姜氏の一族ではないな。見ない顔だ。
沈清は十歳の頃から十八になった今までずっと姜氏の邸で働いてきた。そのため、殆どの姜氏の顔と名前は一致するが、川にいるその誰かは全く分からなかった。
ーーーそれにしても、美しい身体だな。
誰かーー男は上半身裸でその上体は全く非の付け所が見当たらない。均整のとれた、どちらかと言えば細めの身体に、上級身分らしい雪よりも白い肌。そして何よりも、長く、月の光を含んで輝く白い髪。
沈清は川に来た目的や、男がなぜ姜氏所有の川にいるのかなど一切を忘れてしまった。
「誰だ」
突然、沈清の意識は引き戻された。男が沈清の存在に気づいたのだ。
「あ」
思わず沈清は声を漏らした。全く、男は女と見間違うかのように、美しい顔立ちをしていたのだ。
「あ、あんた・・・。どうしてここにいるんだ・・・」
沈清がようやく捻り出した言葉と言えばそれだった。
「あんた?」
男の顔が一瞬にして怪訝そうなものに変わった。そして、気づいたときには男の顔が目前にあった。
「っ!」
沈清は気圧されて声をあげることができなかった。
「ふむ・・・」
男は沈清の顎を無造作に掴み、じっと彼の顔を見つめ、ぱっと手を離した。男はそのまま沈清から離れ、近くの木に掛けていた上衣を羽織った。
ふと、思い出したように男は今だ動けずにいる沈清を振り返った。
「余・・・私に立ち入れぬ場所などない」
男はぱっと身を翻し、去っていった。
しばらくして、沈清は現に戻った。
「誰だったんだ?」
遠くから聞き馴染みのある声が聞こえた。そこでようやく川に来た理由を思い出し、慌てて水を汲んだ。