帰れ
「ひいいい」
男は悲鳴を上げて身を縮めた。
農家の5男坊。僅かな報奨とあわよくばの立身出世との夢につられて徴兵に応じた。しかし、過酷な行軍の果てにたどり着いたのは、恐ろしい地獄だった。
最初は容易そうだった。
魔王が棲むという城は禍々しかったが、防衛する軍も魔物もまったくいなかった。
空城かとも思われたが、斥候はことごとく見えない壁に阻まれ、従軍魔術士達は魔法による強力な結界の存在を確認したらしい。結界だよりで敵兵がいないなら、魔術士が結界さえ解いてしまえば圧勝できるだろうと、兵士仲間は気楽に噂していた。
こんな端っこに配置された田舎の農民部隊なんかに出番はなくて、真ん中に陣取っている大国の偉い騎士さんたちが手柄を取って、あっという間に終わるだろう。思ったより早く帰れそうだ。みんなそう思っていた。
どうしてこうなった?!
もう嫌だと心のなかで叫びながら、歯を食いしばって、目の前に湧き上がる泥でできた兵を短槍で払う。泥は簡単に崩れるが、すぐにグズグズと不気味にうねりながら盛り上がり、人に似た姿に戻り、また向かってくる。際限のない繰り返しは気力を削ぎ、べっとり泥がまとわりついて重くなった槍は体力を削ぐ。足元は泥濘み、滑るくせに足を取られる。
「黒太子だーっ!」
どこかで悲鳴が上がる。
それと同時に魔術士部隊の放つ攻撃魔法の閃光が瞬き、轟音が響き渡る。大地が揺れ、足を滑らせた兵士は転んで泥濘に沈み、泥人形に伸し掛かられる。
泥だらけになってもがきながら顔をあげれば、恐ろしい蹄の音を感じた。
それは巨大な黒い馬だった。鋼のような身体は、龍のように鱗や棘で覆われていて、馬というよりもむしろ、かろうじて馬に似たドラゴンという感じだ。その背には、同じように黒い鎧の騎士が乗っている。手綱も鞍もない鋼の黒龍馬に跨がる騎士の脚は、まるで組み込まれたかのように馬と一体化している。それは、明らかに魔性のなにかに違いない姿だった。
兵の間で”黒太子”と呼ばれるようになったその騎士は、開戦初日に進軍を開始したばかりの魔王討伐軍全軍の前に単騎で現れて、大音声で撤退を命じた。
その禍々しい甲冑、堂々とした態度、鍛えられた巨大な体躯に、すわ、これが魔王かと、討伐軍はどよめいたが、騎士は自分は王にはあらず、だが、この城に座すものを守り、この地の魔を治めるものの志を継ぐものだと名乗った。
命が惜しくば引け。手出しをせねば人の世に魔王の脅威は及ばぬ。それは人智を超えた力で人が干渉すべきものではない。
そう警告した黒太子の声は、いかなる魔法によるものなのか、討伐軍の全兵士の耳に届き、その心臓を震え上がらせた。
小国の農民兵は全員、もう帰りたい、絶対にこれはムリだと思ったし、中にはその場でひれ伏したものさえいた。
黒太子が右手に持った巨大なグレイブで無造作に地を払うと、城と討伐軍の間の大地に、ありえないほど端から端までまっすぐに亀裂が入った。
「命を捨てる者だけがこの線を越えよ。警告に背くものに、我は一切の容赦をしない」
黒太子の顔は兜で見えなかったが、その冷ややかな声の圧に、その場のものは皆、鋭い眼光で射すくめられた感覚に身が震え、自分が猛獣の前の小動物になった気がした。
結局、初日はそのまま警戒態勢に移行し、上層部が招集され軍議を始めて終わった。
結局、これだけ大掛かりに出てきて、たった一人の騎士に「帰れ」と言われただけで、帰りたいと言って帰れるわけもないのが、偉い人達のようで、「敵はただ一騎だ!討ち取れ!!」との命令が中央で下ったそうだ。
そんな判断ができるなんて、農家の5男坊には想像もできない胆力だが、肝が太いのと賢いのは別だということは、すぐにわかった。
黒太子の強さはデタラメだった。
普通の男では持ち上げるだけでも難しいような長大なグレイブや大剣を易々と操り、自らの脚で駆けるように、黒龍馬を自在に乗り回した。その速さに弓兵の矢は届かず、届いても切り払われた。
魔術士部隊の攻撃魔法が一斉に放たれたときは、さしもの魔戦士も一巻の終わりかと思われた。しかし、とっさに馬首を巡らせた黒太子が、手にした武器を振り上げると、その周囲に青白く輝く氷の盾が現れて、すべての攻撃魔法は弾かれて消えた。
「化け物め!囲め、囲め!!おっとり囲んで串刺しにして切り刻め」
前進の指示に歩兵が動いたところで、黒太子が割いた大地の筋からこちら、討伐軍側の地面がずぶりと泥濘みに変わり、泥の中からずんぐりとした人型の化け物が無数に現れた。泥の化け物は両手を上げてゆらゆらと体を揺らしながら、ゆっくりと前進し始めた。
脆いが数が多く、際限なく湧き上がる泥兵に歩兵隊は苦戦し、泥濘んで足が沈む不安定な足場に騎兵は前進を阻まれた。泥を越えて、なんとか前に出た剛の者もいたが、黒太子の定めた亀裂を越えたところで、尽く黒太子に討たれた。
黒太子の武器の青白く輝く刃は、討伐軍の騎士の鎧も長剣も容易く切り裂いた。
前進の命を受けた兵達が泥地帯を抜けるのを尻込みし始め、もたもたと泥兵相手に手間取り始めたところで、黒太子は討伐軍の右翼に向かって駆け出した。
追いすがる攻撃魔法の第二波をかいくぐり、あっという間に右翼の前まで来た黒太子は、グレイブを高く振り上げてから、纏まって泥兵を抜こうとしていた一団に向かって振り下ろした。
次の瞬間、そこにいた部隊がまるごと一つ大地に吸い込まれるようにして消えた。
際ギリギリで助かった兵士は、大地に真っ黒な奈落が開いて、吸い込まれるようにして友軍の兵士が消えたのを見たと、その夜、震えながら仲間に語った。
「引け!引けぃ!!一時退却。戦列を立て直す」
前線の将の判断で右翼が下がり始め、悠々と馬首を返した黒太子が、中央から左翼にとって返しながら、戯れに指した部隊を消し始めたところで、全軍に一時退却の令が出た。
全軍がラインから離れて大きく後退すると、黒太子はラインを越えて追おうとはせず、城に戻っていった。
黒太子が姿を消したあとで、決死の偵察部隊が、消えた隊のいた地点を捜索したが、死体はもちろん、遺留品一つ見つからなかった。