帰ろう
「もうお帰りいただいて結構です」
久しぶりに顔を見せた魔女の弟子は、エドワードの顔を見るなりそう言った。
「長くお引き止めして申し訳ありませんでした。今着ているものを全部脱いで、こちらに着替えてください」
「えっ?お、おい」
エドワードは当惑した。渡された服はそれほど高級ではない男物一式だった。今、借りているものとは違い、粗い織目の普通の布地で、旅の商人の護衛あたりが着ていそうなものだった。
「どういうことだ?俺は今夜の食事当番でまだパン種を仕込んでいないんだが……」
魔女の弟子はガックリと肩を落とした。
「すみません。そんなことをいっぱいやらせちゃって。もうやらなくていいです」
「だが、魔女殿には今日も実験を手伝ってくれと言われている」
エドワードは食い下がった。こんなに急に出て行けと言われても納得できない。
「そちらもいいです。師匠はあなたが帰ることを了承してるので問題ありません」
「え……」
そっけない顔でどうでも良さそうに返事をする魔女の姿が、エドワードの頭をよぎった。
この数十日の間、彼はずっと彼女のことを考えて過ごしていた。
基本的に彼女は冷静で、いつも少し不機嫌なのか億劫なのかわからない表情でいることが多かった。ただ、無表情というわけではなくて、彼をからかうような皮肉な笑みを浮かべることは時々あったし、ものを知らんやつだと呆れた顔をすることも度々あった。そして実験がうまくいったり、彼が期待以上の働きを見せたときは、彼女は機嫌良く微笑んでくれて、彼を有頂天にさせた。
ちょっと感心したような顔をしてもらうためだけに、相当な無理をしたことは一度や二度ではない。
だが、それも終わりだ。
「最後に魔女殿に挨拶を」
「しなくていいです」
すげなく断られて、エドワードは落胆した。どうやら最後に一目会うことすらかなわないらしい。
「(この身の程知らずな執着を見透かされて厭われたか)」
確かにこれまでは、不埒な衝動は理性で押さえつけてきたが、そのタガが弾け飛びそうになったことは何度もあった。数日の徹夜の末、工房で眠ってしまった彼女をベッドに運ぶことがもう一度あったら、次は何もせずにいられるか正直自信がない。
魔女の弟子だというこの青年が、彼女とどういう関係なのかははかりかねたが、たまに”師匠”とは呼ばず、愛称で呼んでいるところをみると相当親しいのだろう。
もし逆の立場だったら、自分の大切な相手に近づく無礼な侵入者など、絶対に許せない。彼が戻ってすぐに、エドワードを追い出しにかかったのは、当然だと思えた。
「怪我はもういいようですね」
服を着替え始めたエドワードの背中や脚を見て、魔女の弟子は工具のチェックでもするような口調でそう言った。
「ああ。魔女殿に魔法で治していただけた」
体のあちこちに残っていた傷を治療されたときのことを思い出して、エドワードはなんとなく後ろめたく思った。あれはなかなか他人に説明しにくい鮮烈な体験だった。
「どうもないようならいいですが、もし後日、後遺症が出るようなことがあったら、これを飲んでください。薬です」
彼はどうやって作ったのかと思うほど小さな容器をエドワードに渡した。
「この端を回して開けてください。中身がなくなると容器は消えます。あなたぐらいの英雄の全身の深手と疲労を一発で回復するやつってオーダーで妖精王に作ってもらった薬なので、他人に売ったり譲渡したりしないでください」
どう考えてもものすごく貴重な魔法薬だった。
「このような高価なものをもらうわけにはいかない」
「と言っても、他に使い道がないんです。この世界の人用に賢者に調整してもらったので、俺には多分効果が低いし、普通に生活する分には俺は怪我しないから」
お守りだと思って持っておけと言われたが、固辞して結局受け取らなかった。
「では、送ります。希望する帰還先はありますか?国元への帰還はお勧めできません。十分に身の安全が確保できる場所や匿ってもらえる他国の知人や縁故の心当たりはありますか?」
「なぜ国に帰らないほうがいいと?」
「手ぶらでしかも五体満足で帰れば、どうせまた魔王退治の旅を強要されるでしょう」
魔女の弟子は不愉快そうに顔をしかめた。
「もう一度ここに来られても困る」
「そうか……そうだな」
魔王退治に魔女の助力が望めないことよりも、彼女に二度と会えないということの方がつらかった。
「だが、魔王出現の脅威がある以上は、民を守るために何とかする必要があるのは確かだ」
エドワードは、魔王退治という使命を忘れかけていた自分を鼓舞するために、あらためて己に課せられた義務を口にした。
しかし、魔女の弟子はそれをあっさり否定した。
「魔王なんかいません。新たに出現もしません。神託なんてデマです」
彼は仏頂面でエドワードを見た。
「どちらをどこまで信じるかはあなたの自由ですが、あなたを王位の脅威だと思っている人達に殺されるぐらいなら、どこかの田舎で狩人か漁師でもやってのんびり生きたほうがいいですよ。身分としがらみがないならしてみたい生活はありますか」
エドワードは視線を落とした。
「……静かなところで、大切な人と二人でつましく生きたいと思ったことはある」
「なんだ。そんな相手がいるんですか」
「いや、俺の勝手な妄想だ」
エドワードは苦笑した。
「どちらにせよ。一度、国元には帰らざるを得ないだろう。二度と魔女殿に迷惑をかけるようなことはしないと誓う。だから帰国させては貰えないだろうか」
「真面目で誠実というのも、厄介なものですね」
そう言いはしたがそれでも魔女の弟子は「わかりました」と肯いた。
「では、あなたを故国にお送りします。ここで見聞きしたことは他言しないでください。そうですね、魔女の棲家に行ったはずが、気がついたら送り返されていた。何も覚えていない。とかなんとか言い張ってください。無理そうなら実際に記憶を曖昧にしてあげます」
非情なことを言う青年に、エドワードは首を振った。
「それは不要だ」
二度と会えないにしても、魔女のことは忘れたくなかった。
「ここのことは誰にも話さない」
ただ、自分一人の思い出として一生大切に覚えていたかった。
「これは当座の路銀。こっちはお弁当。日持ちしないのでお昼に食べてください。それからあなたの持っていた剣。ナイフはお持ちですね。鎧はボロボロだったから諦めてください」
では、お元気で。
そう言われた次の瞬間、体が落ちる感覚がした。
慌てて身構えたときには、あたりの光景が変わっていた。
そこは木々に囲まれたなんの変哲もない岩の前だった。さして濃くもない茂みを抜ければ、すぐに街道があり、見覚えのある故郷の山々が見えた。
「あれ程の道程を一瞬か」
あまりのことにエドワードは笑えてきてしまった。弟子ですらこれほどのことができる相手に、自分が何をできるというのだろう。
「……帰ろう」
それ以外に道はなかった。




