返せ
「まさに魔王……」
エドワードは城の窓から外を見て呟いた。
敵軍が引く様子を見せず、定めた限界線を越えて侵入してきたため、かねてからの打ち合わせどおりに撤収したのだが、その撤収の仕方もその後の展開も、エドワードの想像を超えていた。
敵のど真ん中から、気がつけば城内にいたのは、転移の魔法かと思われた。しかし、あの呪われた巨大な存在はなんだというのか。
エドワードは黒い巨体の背でひるがえるマントが、大きな襟がついたどこかで見たことのある形であることに気がついた。
「まさか……あれが彼の真の姿か」
『んな訳ないでしょーが』
ヴァレリアの声が額冠から聞こえた。
『バカなこと言ってないで、さっさと作戦司令室に戻ってきなさい。3人しかいないんだからサボっている暇はないわよ』
「わ、わかった。……作戦司令室というのはさっきの部屋か?」
姿の見えない相手の声だけが耳元でするのにまだなれないエドワードが、あたりを見回すと、廊下に青い矢印が伸びた。先程の戦闘中も度々出ていた”こちらに行け”の印だ。
「(この魔法の額冠のせいだというのはわかるのだが、不可思議なものだな)」
原理はさっぱりだが、城に不案内な彼にとってはとても便利だ。
程なくヴァレリアのいる部屋に着いた。
窓のない部屋だったはずだが、驚いたことに魔女の前の壁が一面大きく開いて外の景色が見えている。
「危ない!」
エドワードは、警戒する様子もなく長杖を手に外を見ているヴァレリアに駆け寄ると、後ろから抱きかかえて窓の前から下がらせた。
「バ、バカ者!突然、何をする?!」
エドワードにしっかりと抱え込まれたヴァレリアは狼狽して叫んだ。いつもの物憂げな感じが吹っ飛んで声が裏返っている。
「開口部に身を晒してはいけない。矢や遠距離攻撃魔法がくる」
「あれは窓が開いてるんじゃなくて、壁に外の景色を映してるだけだから!」
「そ、そうか……すまん」
言われてみると、見えている景色は塔の上からのような視点だ。この部屋の正確な位置はわからないが、それほど高い場所にあるわけではないだろう。
『あー、お取り込み中申し訳ないんですが、そろそろ間が持たないんで、早めに助けに来てもらえませんか』
魔女の弟子の声がどこからか遠慮がちに響いた。
エドワードは出かけに見たときに彼が座っていた白い椅子の方を見たが、そこには誰もいなかった。
「すぐに助けに行く。君は今どこにいる」
「奴は、外のあのデカいのの中だよ。まったく。あんな呪物、とうに処分したと思っていたら、大事に保管していたとは」
「呪物?危険ではないのか」
『呪いは平気です、魔王ゴッコの方が間が持たなくて。高笑いして時間を稼いでみたんですがどうにもいまいちというか……師匠、今度、高笑いの仕方教えて下さい。意外に難しい』
「知るか、そんなもの!」
『やっぱりそうかー……おっと、遊んでちゃダメだな。なんか打ちかかってきた人がバタバタ倒れてる。この巨人の体って呪いそのものだから、触ると色々吸い取られるんだよなぁ』
魔女の弟子は、相変わらずの調子で物騒なことを言った。
『ヴァレさん、泥んこ魔法、浅くていいので効果範囲拡大して発動お願いします。必要魔力はこちらで入れますから気にしないでください。下降気流で奥にいる偉そうな白い奴らもみんなまとめて泥の中に叩き込んでやります』
とはいえ、それほど時間は稼げないので助けてくださいと、泣き言を残して、魔女の弟子の声は消えた。
「助けると言ってもどうすればいいんだ」
エドワードは壁に映っている恐怖の大魔王を見て眉を寄せた。その力の差は圧倒的で、どう考えても助けがいるようには見えない。
「あれはね、このまま魔王が勝って終わっちゃうとマズイから、倒しに来てって意味なのよ。まったく厄介な。あんなものを出しちゃって、一介の魔女が退治しちゃったらそれはそれで問題があるのにねぇ。本当に考え足らずなんだから」
ヴァレリアは深々とため息をついて、バカな弟子を持つと大変だと少し楽しそうに言った。
「では注文の多い弟子のために、まずは泥沼を作ってあげましょうか」
彼女は魔法を発動するために杖を構えかけて、いまだにエドワードが自分の腰に腕を回して、背後から抱きしめたままだということに気づいた。
「ちょっと……」
「あ、すまん」
ヴァレリアに睨まれて、エドワードは口では謝ったが、手は離さなかった。
「……まぁいいわ。支えてて」
ヴァレリアはエドワードに体を預けて、大規模術式の構築を始めた。
魔王は最悪の厄災だった。
勇気あるものたちが決死の思いでその巨体に立ち向かったが、皆その身に触れただけで青ざめて倒れ伏した。
魔王がその身を覆う長いマントの端で地上を払うと、その闇色のモヤのような裾に触れられたものは尽く気を失った。
それを見た中央軍の兵達は恐慌に駆られて魔王の周囲から退き始めた。部下に後方への転進を叫んでいる中隊指揮官もいる。
魔王は必死に逃げる者をあざ笑うかのように、ただの一足で兵が逃げた間隙を詰めた。
ゆっくりと両手を掲げ、天を仰いだ魔王に、また雷電が降りそそぐのかと上を見上げた者たちの足元で、大地そのものが腐り落ちたかのように、グズグズと崩れた。広く泥濘と化した一帯のそこここで、人も馬も足を取られ、炎上していた攻城兵器は倒壊した。
なんとか無事だった者たちが、泥の中を進もうともがいていると、魔王が唱える異界の呪文が辺りに響いた。
魔術士部隊の者たちは強大な魔力が、大地だけではなく、上空にも満ちるのを感じた。
次の瞬間、空気そのものが落下してその場の全てのものを押しつぶした。
馬の背から乗り手は落ち、天幕は倒壊し、後方にいた近衛騎士隊や教皇軍の者たちも、もれなく皆、泥の中に叩き落された。
泥は底なしというわけではなかったが、半端に浅いせいで、起き上がろうともがける分、誰もが見苦しい様を見せる羽目になった。
「なぜだ…なぜ私がこのような……グバボヘッ」
司令官の豪華な軍装を泥まみれにした大国の王子は、伸し掛かる空気の圧に耐えかねて、四つん這いになっていた手と足を滑らせ、頭まで泥に沈んだ。
なんとか脇の近衛に助け起こされた王子は、泥兵と変わらないほど泥だらけになっていた。王子は無貌の巨人から、悪意に満ちた嘲笑を向けられたように感じて、屈辱に身を震わせた。
フッと圧が弱まったので、顔についた泥を手で払いながら見上げると、城から白く輝くものが飛んでくるのが見えた。
それは、背に大きな翼のある白銀の騎士で、黒いローブを着た女性を抱えていた。
「魔女か……」
王子は泥の中の聖剣を探り当て、それを杖代わりに立ち上がった。
魔王の巨体を大きく回り込んで、白銀の翼騎士は、王子の前に飛んできた。
泥の中から青々とした蔦がいくつも伸びて、あっという間に高い台座ができあがった。
白銀の騎士は台座に降り立ち、抱えていた女性をそっと降ろした。
青みがかった黒いローブを着たその女は、艷やかな黒髪の美女だった。彼女は、王子に向かって手を差し出した。
「北の魔女め。遅いぞ!早く我に力を授けろ!!」
王子は泥でジャリジャリする口から黒いつばを飛ばしながら叫んだ。
魔女は細い眉を顰めて、汚らわしい下等生物を見る目付きで王子を見下ろした。
「何を戯言をほざいているのよ。さっさとその剣を返しなさい。あんたが持っていてもしょうがないわ」
大声で叫んだわけでもないのによく通る声で吐き捨てられた言葉に、王子と近衛、その他そこにいた全員が絶句した。