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Etude「ナウシカアとギュムナンドロス」

作者: 宇治総


 ナウシカアは戦慄した。目のまえ十(ペキュア)先に立っている男は真っ裸であった。




 スケリエ島は平和であった。その日もことさら海の荒れるでもない、大風が(みの)りを侵すでもない、父王は両手にあまるかの名高きパイエケス人の領主たちと混酒器(クラテル)を囲んで一杯機嫌、楽人(アオイドス)竪琴(キタラ)をかき鳴らして高吟し、兄たちは領主の持ち寄った贈り物を両手に喜色満面、中庭では母后が女中たちを指揮して(つむ)をあやつる。人びとものみな立働き、牛のつがいが(すき)を曳き、陽の神エエリオスは彼らの黒い頭を日がな撫ぜてまわる。葡萄は摘まれ、大麦は挽かれ、乳と蜜とが(アンポラ)から溢れた。

 オリュンポスに住まい()す、神々に祝福された国。スケリエ島は平和であった。いや、「平和」を大洋に浮かべて、その上をオリーヴと羊の群と良き民とで満たしたなら、それはきっとスケリエ島と呼ばれるのである。

 この島の住みびと、パイエケス人は働きものぞろい。王女ナウシカアも例には漏れぬ。今日は侍女たちを率いて河で洗濯に精だし、(さき)ごろ陽のあたる渚の際に色とりどりの布を干し終わったところである。

 労働のあとには提供されてしかるべき報酬が待っている。乙女たちはめいめい巻衣(ペプロス)を脱ぎ去って裸になり、河は労働の場所から一転、恰好の遊び場となった。泳ぐものあり、水をかけ合ってはしゃぐものあり、美しい黒髪を丹念に洗うものあり、清水が玉肌(ぎょっき)のうえを滑り、陽を受けて陸離(りくり)とかがやけば、心なき野の鹿も遠目に足を止める。

 汗を流し終えた乙女たちは、今度はにぎにぎしく食事の準備に取りかかる。河辺の銀梅花(ミルト)に木陰を求めれば、葉漏(はも)れ日あわく白き肌は侵されまい。馬車から運ばれる銀器が乙女たちの黄色い声にも負けじと欣々(きんきん)と鳴る。銀杯の葡萄酒を河水で割り、やわらかい麺麭(マーザ)に蜂蜜をたっぷり、オリーヴ油に漬けた羊のチーズは味もよく、乙女たちはさんざめき楽しく空腹を満たした。興に乗じて鞠をとる侍女があれば、王女は(わら)い唱って拍子をとる。そのさまはあたかも花芽ぐむ野辺に戯れる妖精(ニュムプ)の群か、その中でも汀立(みぎわた)つうるわしき王女ナウシカアを、処女神アルテミスと紛わずに済むのは、ひとえにその手を弓箭(ゆみや)が飾らぬからであろう。――さまで美々しき景観を隠されては、さだめし太陽(エエリオス)もかの白き花樹を憎もうというもの。

 とまれ数刻ののち、にぎわしい会食は王女の音頭でおひらきになった。乙女たちはめいめい洗濯物を拾ってまわり、王女は放してあった騾馬を集めて(くび)き、馬車の輪留めを外す。――侍女たちの悲鳴に騾馬の耳がぴんと立ったのはその折である。

 洗濯物を河に落としたのかしらと王女が振りかえれば――なんということであろう、十尺先に全裸の男が立っていたのであった。ちなみに葉っぱでマエとウシロを隠している。

「高貴なおかた! どうか恐れがおみ足を鞭打ち、あなた様にそなわる深いお慈悲をいたずらに持ち帰らせることのありませんように!」と、男は言った。「目の前の憐れむべき男は、お姫さま、いまこうしてあなたさまのお情けにおすがりしております」

 低く艶のある声である。まったく美声といってもいい。いいが、問題は出所であった。

(パイエケス人ではないわ……)

 件の男、ただなにも纏っていないだけというのではなかった。髪といい髭といい、首から上の毛という毛が悉皆(しっかい)おたがいを見限って逃散をくわだてている。ひと言でいうと、肩のうえに巨大なウニが据わっている。その下の胸毛といえば三者三様枝分かれして、いびつな三叉矛(トリアイナ)の浮彫のようである。そのあたりの灌木から毟ったとおぼしき枝葉を両手に、こころもち前こごみになって股間と尻とをそれで隠している。――ちなみにこう書いておかないといろいろ差し障りがあるのであえて強調するのだが、その守りは完璧である。

(野蛮なひとではなさそうだけれど)男の言葉はたいそう礼儀正しかったので、ナウシカアは少し肩の力を抜くことができた。(なんというか、ものすごい恰好だわ。なにがあったのかしら。なにがあったらこうなるのかしら……)

 王女はひと言だに発せず、ただおっかなびっくり男を観察している。侍女たちといえば、おのおの遠巻きに手にした洗濯物を揉みながら、忽然とあらわれた獣のような男が大切な王女さまになにか怪しからぬことをしでかさないかと戦々恐々の態である。

 男はじきにふたたび口をひらく。「あなたを神さまと見間違えた」とか「まるでアルテミスのよう」とか「あなたのような麗人を子どもに持ったご家族はギリシア世界(ヘラス)いちの幸せもの」とか「しかしそれもあなたを娶る男には遙か及ぶまい」とか「あんまり神々しいお姿なのでお膝にお縋りするのが畏れおおい」などなど、微に入り細に穿って挨拶の続きを陳べだした。まったく礼に適った物言いではあったが、適えばかなうほど見てくれとの懸隔が激しくなって滑稽になるばかりである。さすがに膝に縋れないのは別の、それも緊急の事情があってのことであろうとは、一見の王女にすら見当はついた。つまり両手を別の用途に持って行かれると、そのなんというか、ナニがアレして大変なことになるのだろう。

「お姫さま、今わたしは大変な()き目に遭っています」

「ええそれは……わかりますとも。その、見ればわかります」と、ナウシカアはようやく返事をした。

(ほんとうに、見ればわかるわ)

 驚きから覚めてみれば、なるほど男の訴える窮状が抜き差しならぬものであることが如実にうかがえる。見れば丈たかい堂々たる偉丈夫だが、その裸身は余分な肉がすっかり削げ落ちてひょろりとしており、影なす筋ばかりが目立った。砂と赤土と落ち葉がくっついた顔は、件のウニあたまのおかげで見目形(みめかたち)こそはっきりしないものの、数多の困難と苦痛の傷跡もあらわにげっそりと面窶(おもやつ)れしていて、(くら)い瞳には憐憫を乞ういろが隠れもなく明らかである。先程からやたらとごろごろ音の鳴るのは、霹靂(かむとけ)もてあそぶ大神ゼウスの神意の表明でないとしたら、けだし男の腹の虫のなせる業であろう。それでも平身低頭していながら卑屈に見えないのは、なんとも不思議なことであった。

「オギュギエの島を出航してより十を倍する日々、大熊座(アルクトス)の瞬きを頼りに、わたしの筏は黒い水面を切ってはるばるお国まで遣ってきたのですが、陸地まであともう少しという三日前の晩、雲は星のしるべを隠し、にわかに起こった嵐は堅牢な筏をたやすく粉砕し、わたしをして鯨波(げいは)のただ中に自らを投げ込むことを余儀なくさせたのでした。おお、大地ゆるがすポセイダオンの怒りの、かくも凄まじきものかは! 大洋を攪拌する神の矛は二日二晩、わたしを山谷のごとき怒濤のうちにもてあそび、わたしの体からすべてを――立派な男が具えていて然るべき力と、財産と、女神の織りなしたみやびな衣とを奪っていったのです。かかるいぶせきありさまをお姫さまがたに本意ならずさらした、これが偽らざるわたしの顛末です」

「まあそれは……なんてかわいそうだこと。たいへんな目に遭われましたね」

 ナウシカアは実のところ、話のすべてを信じたわけではなかった。というのも、彼女の常識の範疇に二日ものあいだご飯を食べずに海に浮かんで、なお生きている人間というのはちょっと存在しがたかったのである。難破してすべてを失ったというが、もう取り返しようのない事柄であるから、最初からなにも持っていなくても同じように言えることだろう。しかしかといって男は嘘をついているようにも見えず、またその口調は誠実かつ迫真の響きに彩られていたので、王女はこれを聞いてたいそう憐れを催した。

「いずれかの神霊(ダイモン)がわたしをこの島へ打ち上げたのか……しかしきっとまたここでもおおいに苦しめてやろうというお心積もりなのでしょう。というのも、それが他人の愚かさからであれ、万やむを得ずわたしが為してきたことへの報いであれ、そしてもたらされるものが賞であれ罰であれ――おそらくは専ら罰のほうではありましょうが――神々がわたしをこのままにしておくとはとても思えないからです。見た目からは想像できないかもしれませんが、わたしはそういった経験をたくさん積んできた人間なのであって、ですからわたしの苦難がこのあたりで終わるとはとうてい思えないのです。そうなる前に神々はいろいろなさるに決まっています。――どうかお姫さま、身にまとう布ひときれすら持たぬ男に一掬(いっきく)の憐れみを。寄る辺も繋累のひとりとてもなく、自分がいま立っている場所の名前すら知らぬ男に一臂(いっぴ)の援助を」

(まあ……ほんとうに聞いていると涙がでてきそう! すっかり悲観的になってしまって、こんなにかわいそうなひとが未だかつてこの島にいたことがあったかしら)

 王女の憐れみはなおいっそういや増した。いや増したが、やはり男の話に信じ切れぬところはある。ほんとうに見た目からは想像もできない類のことで、このあわれなウニあたま氏が良きにつけ悪しきにつけ、神々の注意をさかんに惹起(じゃっき)するなどとはとうてい思われない。さだめし身にあまる不幸が一斉に襲いかかってきたので、男は悲観のあまり自らの前途にあるはずもない暗がりを見出しているのだろう。

「見知らぬおひとよ」と、ナウシカアは優しく声をかけた。「言うところを聞いてみても、あなたがだれそれの召使いであるとか、どこそこの雑役夫であるなどとはとうてい思えません。賢さというものはそのひとの言動が証すのであって、身に纏っているものがそうするのではないのですから、あなたが素性の卑しいひとでも愚かなひとでもないということは、わたくしたちもよくわかっております。そしてそういうひとがいつまでもひどい目にばかり遭うはずもないということも。オリュンポスを知ろしめす大神ゼウスは、人びとに禍福を下賜(くだ)されるにその貴賤も知愚をも問わず公平になさるのですから、あなたは辛くとも一時の不幸をじっと耐えなければなりませんよ。そののちには必ず幸せが待っているのだし、勿論、あなたの知らないこの島でそれに巡り会えないと決まったわけではないのですからね」

「ありがとうございます、お姫さま」と、男は感謝した。疲れてはいても、その声はようやく射し入った希望の光に明るんでいる。「この島に来て始めて遇ったひとがあなたで、ほんとうによかったと思います。それともお国の方々はみなあなたとひとしなみに親切なのでしょうか。その素晴らしい人びとは、彼らの住まうこの国はなんと呼ばれているのでしょうか。そしてあなたのご尊名は? お見かけから察するに、さぞやんごとないお生まれではありましょうが」

「教えてさしあげましょう」と、王女は請け合った。「この島はスケリエ島といって、この島に住まう人びとはパイエケス人といいます。彼らに聞けばわかるでしょう、彼らを統べる王はナウシトオスの(すえ)アルキノオスという名前で、彼にはナウシカアという娘があり、彼女はもしパイエケス人が渚で異国のひとに遭遇したとしたら、自分とまったく同じように親切に接するはずだと信じているということを」

 男はたいへん感じ入って、王女に丁重なお辞儀を返した。とたんに男の横合でもじもじしていた侍女のひとりがキャーと叫んで後を向いた。男はすばやく葉っぱを駆使する。まったくそちらの方面での彼の守りの堅さたるや、かの輝けるイリオスを堅持して、()くアルゴス勢の猛攻を(ふせ)いだスカイア門にも喩えられようほどのものであったが、しかし実は木馬の奇計をもってかの門の(こぼ)たれるをまねいたのは、他ならぬこの男であったりする。奇しくも要衝を(あざむ)かれるの悲劇を、彼は被害者側という立場から追体験するはめに陥ったのであった。――なんだかごちゃごちゃ書いて、いったい何が言いたいのだと思われる読者もあろうが、まあつまりその、見えちゃったのである。彼はかつて一人息子の立派さを衆人に漏らして憚らなかったものであるが、下の息子もなかなか立派であった。

「なんですアカルタエ、大きな声をだして!」と、王女は侍女を一喝して、ついで王女と男を遠巻きにしている娘たちに向かって高い声をあげた。「皆もよ。おまえたちはなにからそんなに怯えて逃げ回るのです。このひとがなにか良からぬことをしでかそうとしているなどと思っているのなら、ほんとうにおまえたちは居もしない羊飼いが投げた、ありもしない杖に追い立てられているのだわ。このひとが善良なひとか悪質なひとかは先程はっきりと証明されたのだし、それは神々も先刻ご承知のことです」

 王女がこのように叱責すると、娘たちはみな恥じ入ったようにそろそろと輪を縮めるのだった。

「見知らぬおひとよ、あなたのお名前を教えていただけませんか?」

 王女のにこやかな問いに、男よ、お前はこう言ったな。

「王女ナウシカアよ、わたしは裸の男(ギュムナンドロス)です。なにひとつ持っておらず、したがって身に纏わるなにごとをも証明し得ない彼を呼び慣わすに、これいじょう適当な名はありますまい。少なくとも今は、わたしのことをそうお呼び下さいますよう」

(よくよく奥ゆかしいひとだわ……見た目はこんなだけれど。なぜゼウスはこんなに心の清いひとをひどい目にお遭わせになるのかしら)

 いまや王女の憐れみはかつてないほどに募った。募ったが、心の隅では男が本名を名乗らないことについて、罪のないささやかな邪推を働かせもしていた。つまり名乗らないのは、名乗れないからではないか? たとえば罪を受けたひとで、その名が知れ渡ればたちまち両手に(かせ)をこうむる身の上であるとか?

「アカルタエ」と、王女はギュムナンドロスの近くに立っていた娘を手招いた。「ギュムナンドロスに着るものを差し上げて。わたくしの兄ハリオスの衣で、生成(きなり)の丈夫なひと揃いを」

 アカルタエは馬車に飛んでいってしばらくごそごそしたのち、洗濯したばかりの衣を携えて戻ってきた。ギュムナンドロスにそれを差し出そうとしたのだが、差し出す手のないことにはたと気付いて(ついでに差し出してしまったときのことをまざまざと想像して)真っ赤になった。

「ありがとうございます、お女中ならびにナウシカアよ」と男は言うと、ウシロを隠していた葉っぱを地面に落として、へどもどしているアカルタエの手からすばやく衣を受け取った。嵐の速さでそれを体に纏いながらいわく、「……わたしはこの衣よりずっと手間も金もかかったものを所有していたことがありましたが、今ではなんとこれほど素晴らしいものを身につけたことはなかったように思えます。たとえ王侯がどれほど贅を尽くして華麗な衣をあつらえたとしても、けだし持たざるものが手に入れる一疋(いっぴき)の布にまさる喜びは得られますまい」

 ギュムナンドロスの喜びようは、ナウシカアとアカルタエの心に彼が感じたものと同量の歓喜を呼び起こした。よいおこないが正しい礼儀をもって快く受けられたときは、たいていこのような素晴らしい報酬が待っているものである。娘らはにこにこ笑っていたが、しかし実のところギュムナンドロスの長外套(ヒマティオン)はつんつるてんで、彼女たちの笑いのうち三割くらいは「ウニあたまで寸足らず」の滑稽さに起因するものであったことも、忘れずに付け加えておかなければならない。

「アカルタエ」と、王女はギュムナンドロスの横で笑っている娘をふたたび手招いた。「今度はギュムナンドロスになにか食べるものを。残りものしかないけれど、こしらえて間もない麺麭と羊のチーズと、油漬けの小魚があったわ。それに葡萄酒もね」

 アカルタエはふたたび馬車に飛んでいってごそごそ遣りだすと、枝籠に入った食べ物と葡萄酒の(びん)を携えて戻ってきた。

「ありがとうございます、お女中ならびにナウシカアよ」と男は言うと、よほど腹が減っていたものか、侍女が食事の用意をする先からひょいひょい手を伸ばして、いくら詰め込んでも満たされぬひとのように飲みかつ食うのであった。「ああ、空腹に勝る調味料がありましょうか! なにはなくともそれだけはたくさん持っていますから、今のわたしには一片の麺麭(マーザ)もひとすくいの豆粥(エトノス)も、さしずめ大御食(アムブロシア)に等しいのです。ああうまい」

 ギュムナンドロスはのどを鳴らして葡萄酒を(あお)っている。王女ナウシカアの憐れみたるや炸裂寸前で、ついでに侍女アカルタエも「ウニあたまの寸足らず」氏がわさわさ飲み食いするさまを目の当たりにして、おおいなる憐憫の情に奇襲されていた。

 あらかた食い終えて籠の中身もなくなると、ギュムナンドロスは折々感謝の言葉を陳べつつ、頭をがりがり掻きだした。次いで髭、胸毛を同様にがりがり。見ればどうやら、それらがとんでもない形に納まっているのは、こびりついた潮のせいであるらしい。

「もし、ギュムナンドロスよ、べとべとして気持ち悪くはありませんか? お顔もたいそう汚れております。あなたが衣を着けるまえに気付くべきでしたが、水浴なさったほうがよろしいでしょう」

「はい。先程までは気にもなりませんでしたのに、衣食が足りて始めてそのことに心が向くようになってきました。どうもわたしはひどい(なり)をしているようだ」

 王女は控えめに同意したあと、みたび侍女を手招いた。

「アカルタエ、わたくしの長櫃のなかにオリーヴ油の入った小さな壺があるわ。それと乾いた布を持ってきて。ギュムナンドロスに水浴させておあげなさい」

 アカルタエは王女の命を受けてみたび馬車へ飛んでいく。黄金の油壺と羊毛のひろい布を携えて戻ってくると、やや困惑の(てい)のギュムナンドロスをしきりに(みぎわ)へ促した。

「お女中どの」と、ギュムナンドロスはさも言いにくげに切り出した。「王女のお言いつけではありましょうが、わたしは自分で体を洗いますし、自分で肌に油を塗りもしますから。あなたのようなお若い娘御に裸身をさらすのは実に忍びないのです。ましてその、一度ならず二度もそうするのは」

 アカルタエはまったく、そのまま発火炎上して人間たいまつになるのではないかと危ぶまれるほど真っ赤になった。ギュムナンドロスの足下に壺と布を置いて、あわれ彼女は一目散に王女の元へ走り去る。その赤さたるや彼が水浴しているあいだ中、ナウシカアをして侍女の顔が熟して落ちてしまうのではないかと恐れさせるほどであった。




「ああ、戻ってきましたね」と、ナウシカアは手庇をつくった。すっかり綺麗になったギュムナンドロスが汀から上がってくるところであった。

「ありがとうございます、お女中ならびにナウシカアよ」男は今し甦ったひとのようにさっぱりとした様子である。「まさしく生まれ変わったような気がしております。肌に油を塗るのもずいぶん久しぶりで、つい先程まで潮と痛苦とに痛めつけられてがさがさしていたものが、今ではなんとつやつや輝いていて、ほんとうに自分の肌とは思えぬくらいです」

「おお、ギュムナンドロスよ」と、王女は感に堪えかねたように言った。「お召しのものは丈が合っておりませんでした。荷物の中からもうすこしあなたの背丈にふさわしいものを見繕いましょう」

 ただちに馬車へ駆けようとするアカルタエをきびしく呼び止めて、王女は自ら馬車へ飛んでいき、金糸で飾った貝紫染めのみやびな衣を携えて戻ってきた。これは彼女の長兄ラオダマスのもので、持ってきた中ではいちばん高価な代物である。

「このような高価なものを、よろしいのですか? これはあなたの父王アルキノオスか、丈たかきご兄弟がたのいずれかの所有にかかるもので、その中でも特に丹精された逸物に違いありません。もしそうでなければ、このスケリエ島に住まう人びとはつまらぬ小作人でもきらびやかに装い、王侯のような態をしていることになりますから」

「ギュムナンドロスよ、どうかお受け下さい! あなたの丈に合うものがこれしかなかったのです」

「ありがとうございます、ナウシカアよ」と、男はちょっと恐縮して言った。「なんと美しい織! 女神カリュプソがわたしのために織ってくれた美々しき衣に、しかしこれは勝るとも劣りません。ほんの数刻前まで灌木の根元に打ち臥していたみじめな男が、まったく今これほどの変貌に見舞われようとは!」

(このひとはまさしく、神とお付き合いのあるかたなのだわ……)

 このひとはきっと、神々がなにかの思し召しによって島を訪わせたのに違いない――ナウシカアはギュムナンドロスの言葉を聞きながら、たいへんな感動を覚えた。

「おお、ギュムナンドロスよ」と、王女は感に打ち震えながら言った。「先程のもので足りなければ、食べ物がまだ少し残っております。よろしければ用意いたしましょう」

 ただちに馬車へ駆けようとするアカルタエをきびしく呼び止めて、王女はふたたび馬車へ飛んでいき、乳と蜂蜜とで練られた白い麺麭と油漬けの牡蠣を枝籠にいれ、古くて上等な葡萄酒の壜を白い腕に携えて戻ってきた。

「この香り! よい葡萄酒のようですが、これはあなたのために用意されたものではないですか? というのも、もしこれほどのものが仕えびとや貧しい異国人などに易々と振る舞われるのであれば、まったくわたしは漂流するうちにギリシア世界(ヘラス)から遠く離されて、アイギス持つパラス・アテネはギュムナンドロスを神の島へ打ち上げたということになりますから」

「ギュムナンドロスよ、なにとぞお受け下さい! 皆であらかた片付けてしまったあとで、これしか残っていないのです」

「ありがとうございます、ナウシカアよ」と、男はすっかり神妙になって、粛々と麺麭に手を差し伸べた。「この白い麺麭はわたしに故郷を思い出させます。佳肴(かこう)はとかくよい思い出に結びつきますし、よい思い出はえてして故郷に蓄えられるものですから。岩群(いわむら)こごしきイタケとエエリオスの寵あつきこのスケリエ島とでは、あまり似つかないのではありますが……」

(おかわいそうに、遠い故郷を想って悲しんでおいでなのだわ。ほんとうにこの島がこのひとの故郷になればどんなにかいいだろう!)

 王女は男の言葉にちくいち頷きながら、自分の杯にきらめく葡萄酒を注ぎ、それに大麦の碾割粉と蜂蜜、薄荷、罌粟を混ぜ合わせて、彼のために甘露(キュケオン)を調合してやる。娘たちの輪は当初からは考えられないほど狭められ、侍女アカルタエはそわそわと落ち着きがない。杯を受け取ったギュムナンドロスが王女にあらためて感謝を陳べ、それを干した。彼の反り返った喉にいっせいに集まる、娘たちの視線。

(さあ、これからどうしようかしら。このひとを館へ伴って、父王にぜひ会っていただいて、母后にも挨拶をしていただかなきゃ。ああ、兄上がたがこのひとを見たらなんと言うかしら。このひとを伴って帰るわたくしを見て、パイエケス人たちはなんと言って噂するかしら!)

 王女は男を伴ってすぐさま帰路につくか――それとももういちど水浴を勧めてみようか、目下思案中であった。




 この一編を見そなわすオリュンポスの神々、ならびに通りすがりの読者諸兄よ、どうか王女ナウシカアの突然の変心を(いぶか)しみ給うな! というのもこのギュムナンドロスという男、スケリエ島ではちょっとお目にかかれないほどの美男だったのである。

ウニあたまのまま館に連れて行かれたら、ホメロスもさぞやりにくかったに違いない。

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