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蘇る太鼓の魔物  作者: 西陸黒船
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第3章 古の悪夢が目覚める時

 一度は晴れるかと思った緑川市の天気は、夜半から再び崩れていた。明け方には豪雨へと天候は悪化していた。

 その豪雨の中、緑川市の外れにある海沿いの崖に、一人の男が立っていた。長身で黒いスーツに身を包み、黒のオーバーコートを羽織っている。この時期には不似合いの格好だ。

 男は笑みをこぼしていた。不敵な笑みで不気味な笑い声を上げる。

「もうすぐだ。もうすぐ奴は蘇る。そして、俺の捜し物も見つかるはずだ」

 両手を天に掲げ、男はさらに続ける。

「蘇れ、いにしえの魔物よ。今、再び現世に悪夢をもたらせ」

 まるで呪文のようなその言葉は周囲にこだました。男は狂ったように笑い続ける。

 海が青白い光を放つ。いや、海の中で何かが光った。まるで男の言葉に呼応するかのように。

 男は狂ったように笑い続ける。

 光はやがて消え、雨も徐々に収まりつつある。

 雨が上がった。

 不気味な光もいつしか消え、風もやんで辺りは静まりかえる。

 男の姿もいつの間にやら消えていた。


 徹があくびをしながらリビングにやってきたのは、朝食の準備が整ったところだった。

「おはよう」

 徹は眠そうに言う。

「おはよう」

 香織がとびっきりの笑顔で言った。

「なんだ、やっと起きたのか」

「うるせー」

 父の悪態に、まだぼやっとした頭で徹は適当に返す。

「さ、早く飯にして支度しろ」

「あー、その事だけどさ」

 徹が言った。

「やっぱ俺も残るわ」

「は? 徹、お前何を言い出すんだ?」

「あれから、俺、考えたんだ」

 徹の表情は真剣そのものだった。

「俺にも出来ることをしたいって」

「お前、正気か?」

「正気だよ。冗談や冷やかしなんかでそんなこと言えるか」

 敏夫は始め冗談めかして聞いていたが、息子がどれだけ真剣に考えてたのか、その表情と言葉を聞けばわかる。

「俺にさ、出来る事なんて少ないって解ってる。でも、俺の育った町が無くなるかもしれないのに、知らん顔してよそに避難するなんて、俺にはできない!」

「徹。お前……」

「俺が魔物に立ち向かうなんてできるわけ無いだろ? せいぜい、この程度だ。手伝えることはさ」

「それはそうだけど……」

「それにさ、忍さんも一人でこの町回るなんて大変だよ」

 それは徹の言うとおりであった。

 いかに訓練された優秀な忍者であっても、調べ物をしながら知らない町を回るのは骨が折れる作業だ。徹は少しでもそれを手伝えれば。そう考えたからこその申し出である。

「確かに。それは助かるわ。けど……」

「巨大昆虫ね」

 忍は素直に徹の気持ちを受け取れなかった。香織が指摘したとおりの不安要素があるからである。昨日の徹たちを見る限り、自分のように戦えるとは到底思えなかった。

「たしかに、あれが襲ってきたら逃げるしかないかな。昨日は運良く撃退できただけだし……」

 徹は己の非力を認めていた。

「それでも、ただ指をくわえて成り行きを見守るなんてできない」

 徹の意志は堅い。

 沈黙があたりを包む。

「徹ちゃんはやっぱり倖ちゃんと敏夫さんの血を引いてるのね……」

 沈黙を破ったのは、ずっと朝食の準備をしていて一度も口を挟まなかった香奈であった。

「敏夫さんは二十年前の出来事、覚えてるよね」

「ああ。忘れもしない出来事だよ」

「あの時の敏夫さんも、今の徹ちゃんと同じだったわね」

「……そう、だったな」

 昔を思い出すように敏夫はつぶやいた。

「二十年前……なにがあったんですか?」

 徹が問いかける。だが、香奈はかすかな笑みを浮かべただけで、敏夫共々その質問に詳しく答えようとはしなかった。

「徹ちゃんのお母さん、倖ちゃんと出会った頃ね。無力だった敏夫ちゃんは、それでも自分にできることをしようと、今の徹ちゃんの様に自ら協力を名乗り出たの」

「懐かしいな、あの頃が……」

 敏夫が遠い目をしてつぶやく。それから、意を決したように彼は言った。

「よし、徹。お前も行ってこい。自分にできることからやっていこうじゃないか」

「うん」

「ただし、身の危険を感じたら、迷わず逃げろ。いな。決して無茶をするんじゃないぞ」

「わかってる」

 強い意志に引き締まった表情で徹は言った。

「私も。私も徹ちゃんをお手伝いするわ」

「香織。何言ってるの?」

「だって、私だけここでじっと待ってるなんてできないわ。それに、徹ちゃんの力になりたいの」

 香織の思いもまた切実であった。

「……危険なのよ。何が起こるかわからないわ」

 香奈は母として、娘に問いかける。だが、香織も当然そんなことは認識しているのだ。彼女の意志は変わらない。

「そう。わかった。お母さんはここで待ってるから、必ず無事に、生きて帰ってくるのよ!」

 説得をあきらめた香奈は、娘にそう言い聞かせた。

「うん。もちろん」

 香織は笑顔でそう答えた。

「話はまとまったようね」

 傍らで黙って話の成り行きを見守っていた忍がつぶやいた。手にした湯飲みには、もうお茶は入っていない。空になった湯飲みを指でもてあそんでいた。

「ああ」

 そういって徹は地図を取り出した。この町の地図だ。

「ここが俺ん家だ」

 徹が指さしたのは、町外れだった。よその市との境目になる町外れにある丘の上。そこが徹の家だ。

「ここからだと、家の近くのここと、ここ……あと、このあたり。それから町の中心地から向こう側に……ここ、ここ。それから、ここ……」

 忍に説明しながら、徹は神社仏閣の所在地を指さしていく。

「全部で六つ」

 忍は確認するようにつぶやく。

 中心部から東西に分けて、各三カ所づつ。それがおおよそ、等間隔にあるようだ。

「大きいのはね。小さなところをあわせたらもう少し……」

 と、香織。

「だけど、小さいところには手がかりもなさそうだな」

 徹は普段から無人の小さな神社などの位置を指さして記したが、そうもつぶやく。

「私は中心部よりも向こう。西側を探る」

「と、すると、俺らは東側か」

 忍と徹たちの行動範囲が決まるまで、時間はかからなかった。

「何かあったらこれで連絡を」

 敏夫は携帯電話を取りだし、忍に渡す。

「これは?」

「携帯電話だよ」

 訝しげに問いかける忍に、敏夫は答えた。

「携帯、電話?」

 忍がつぶやく。

「電話ってなに?」

 一同が唖然とした。

「もしかして、電話も知らないの?」

 と、問いかけたのは香織。忍は黙って頷く。

「遠くの人とお話ができる機械よ」

 香奈が大雑把な説明をした。

「へぇ。そんな便利な物があるんだ」

 忍は心底感心し、つぶやいた。渡された携帯電話を懐にしまうと、忍は踵を返す。

「それでね、使い方は……」

 香織が自分の携帯を片手に教えようとしたが、忍の姿はすでにそこにはなかった。香織は慌てて外まで様子を見に行ったが、もはやどこにもその姿はない。

「わかるかな、使い方……」

 心配そうに香織はつぶやいた。


 忍は民家の屋根の上にいた。屋根から屋根へと飛び越えながら、町の西側を目指していた。

 不思議な連中だった。月成とかいう親子に、西田とかいう親子。別々の家族なのに、まるで一つの家族。そして、忍の知らない暖かさがあった。

 でも、自分には関係ない。自分は魔物と戦う為に生まれ、修行を積んできたのだ。暖かさなど必要ない。

 家族というものと、希薄に育ってきた彼女は、伝説と化したくの一、倖の存在に憧れそれを超えるために腕を磨いてきた。

 忍は生まれ持った類い希な素質も伴って、超人ともいえる実力を身につけた。それでも普段から鍛錬にぬかりはない。

 一瞬の油断が死を招くと、師匠から重々言い聞かされてきた。実際、訓練で死にかけたことも多々ある。

 忍はそういった過酷な経験を積み重ねながら、自力で這い上がってきた。

 だから、家族の温もりを知らないし、知ろうとも思わなかった。彼女は自分の力を誇示するために戦い続ける。

「ほう。美郷の者か?」

 屋根の上を駆ける途中、不意に声が聞こえた。忍は手近な屋根の上で足を止め、周囲の気配をさぐる。

「何者?」

 短く問いかけた。

 気配は――ない。だがしかし、答えはすぐに返ってきた。

「美郷一族を知る者。と、でも言っておこうか?」

 声は忍の背後からした。

 忍が振り返ると、そこには上下黒のスーツに身を包んだ男が佇んでいる。

「お前は!」

 男の接近に気づけなかった己の未熟さを噛みしめながら、忍は叫ぶ。

「いやなに。昔、美郷出身の女と競り合ったのでな。つい、懐かしくなってな」

 男は楽しげに言った。

 忍は警戒を解かない。男の物腰から、何かをしてくるとは思えなかったのだが、忍の中のなにかが警告を発し続ける。気を許してはいけない、と。

「別に何かをするつもりはないよ。ただの挨拶さ」

 相変わらずの軽い口調で男は言う。

「挨拶する男が、気配を消して女性の背後からっていうのがマナーかしら?」

 忍は皮肉たっぷりに言う。

「おや、これは失礼を」

 男は左手を腰の後ろにまわし、深々と頭を垂れる。

「私はこう見えましても、いろいろな人に知られているので、表だって行動するのはまずいのですよ。つい、癖で……」

 言葉には嘘は無さそうだったが、それでも憎たらしい言い方には変わりない。

「それで、何か用なの?」

 忍の言葉に、男の表情が変わる。

「ああ、そうでした」

 一呼吸置いて、男は続ける。

「出来れば、この先調査の中止をお願いします」

「調査? なんの?」

 とぼけて忍は呟いた。

「当然、今行っている神社仏閣の調査です」

 男はさらりと言った。

「私はそんな調査なんかしてないわ。誰がそういったのかしら?」

「……仕方ありませんね」

 男はそういうと、スーツの上着を脱ぎ捨てる。

「体で理解してもらいましょうか」

 刹那、男の体がかき消えた。

「早い!」

 忍が驚いた瞬間、男は目の前にいた。

 反射的に防御し、大きなダメージは防いだが、体勢は崩された。

 忍は間合いを取るために大きく後ろに跳ぶ。だが、男は追随する。

 忍は舌打ちしながら、懐から手裏剣を取り出して投げる。続けざまに数発。だが、それらは素早い男の動きに当たらず虚しく近くの塀に突き刺さる。

 衝撃は真横から来た。

 忍の体は大きく吹っ飛ぶ。

「くっ」

 歯を食いしばり、どうにか体勢を整える。

 強い。

 忍は己の未熟さを噛みしめ

る。

「大蛇はもうすぐ復活する。もう誰にも止められない」

「なっ」

 刃が閃く。

 男は僅かに身を逸らした。続けざまに返す刀で横薙ぎの一撃が男を襲う。が、これもまた間髪のところでかわした。

 次の瞬間、男の体は大きな衝撃を受けて大きくはじき飛ばされた。

「ちっ」

 男は腹部を押さえながら、どうにか体勢を立て直す。その時、目の前には誰も居なかった。

「なっ」

 忍は真後ろにいた。

 さらに右ストレートが男を襲う。

 だが、男は冷静だった。僅かに右に動いただけでそれを交わしながら、右腕を掴んで反撃を赦さない。

 忍がもがいた。しかし、男の力は強く放さない。次の瞬間、男が投げ技に移行する。

 忍は踏ん張ろうとするが、それはできなかった。意志に反し、体が空に舞う。

 空を舞う忍の傍に、刹那の差で男が追いつく。合わせた手をギュッと握りしめ、大きく振りかぶる。

 忍がひねりと宙返りを行うのと、男が手を振り下ろしたのは同時だった。紙一重で交わし、上体を起こした。間髪入れずに懐から飛礫を取り出し、投げる。

「手裏剣か」

 男は楽しそうな表情で呟いた。

 先のとがった十字型の手裏剣である。しかし男はどこからか取り出した大きなマントで払うように手裏剣をやり過ごす。

 二人の体は放物線を描きながら離れ、重力の意図に従って地面の上に降り立った。

 忍の降り立った場所は、川辺の背の高い草が生えている場所だった。背が低いこともあり、向こうからはこちらが見えない。

 忍は間を空けるつもりは無かった。

 素早く印を結び、大地に手をつけて小さく呟く。

「土遁の術」

 一瞬、大地が揺れた。

 男が立っている場所を中心に、半径一メートルくらいの円を描いて大地が陥没する。体勢を崩した男目がけて、錐状に土が固まって隆起した。

 男が力一杯手を振るって錐状のそれを弾き、左右から伸びてきたそれを前に出て交わす。

 この間に忍は一気に間を詰めていた。

 その首、獲った。

 忍はそう確信した、はずだった。

 しかし笑みを崩さない男は、忍が接近し、横に薙いだ一撃を、逃げずに受け止めた。

 刀を持つ右手の手首を握りしめた。

 忍は予想すらしなかった男の行動に、驚きを覚えた。慌てて逃げようとするが、それすらままならない。

「しまった」

「もう逃げられんぞ。覚悟するんだな」

 男は不敵な笑みを浮かべた。

 次の瞬間、右手首を強く握りしめる。そのあまりの力強さに、忍は右手の力がうまくこめられない。

 忍は刀を落とした。

 どうあがいても、男の力には敵わない。いや、並の男が相手なら、忍は十分に勝てる自信があった。

 だが、この男は並の男と比べて比較にならないくらい強い。

 男の拳が忍の腹にめり込む。

「がはっ」

 忍は前のめりになった。続けざまに、体が投げ飛ばされた。

 忍の体は天高く舞う。

 体が思うように動かない。やはり、想像以上にダメージが大きかった。忍術も効かない。為す術もなかった。

 精神的にも大きなダメージを負い、肉体的にもずいぶんと痛めつけられた。

 彼女の体が空中遊泳を終えたのは程なくしてからだった。放物線を描き、川の中へと突っ込んでいく。

 広く深いその川は、それまで静かな水面を保っていたが、彼女の体を受け入れると大きな波紋を生んだ。

 波紋はしばらく水面を騒がせていたが、段々と波紋は小さなものになっていき、やがてまた元の静けさを取り戻した。

「ふっふっふっ。これで邪魔者は消えた」

 他に彼の計画を阻止できる者など、いやしないだろう。男はほくそ笑む。それからゆっくりとその場を離れていった。

 どれくらい経っただろうか。少女の体がゆっくりと水面に浮かぶ。岸に這い上がるなりむせ返る。飲み込んだ水を吐き出した。

 肩で息をしながら、川辺の茂みに隠れるように体を横たえた。

「強い。敵わない……」

 絶望を含んだ語気は、重い空気となって彼女の雰囲気を暗くする。

 自分は強いという自負があった。

 負けることは無いのだと。妖怪など、物の怪の類ではなく、人に負けたことが彼女のプライドをズタズタに引き裂いていた。

 大蛇の復活を止めることは……できないのだろうか。このまま、この町が破壊され荒野と化すのを眺めるしかないのだろうか。

 任務に失敗した。その事実が彼女の心を強く締めつける。

 濡れた服を乾かすことも忘れ、彼女は深い眠りに落ちていった。


 香織と徹は自転車を走らせていた。

 一件目の神社仏閣ははずれだった。今、二件目に向かう道中である。

「うん。そう。で、今、北山神社に向かうところ」

 携帯電話で徹の家に連絡を入れていた香織は、忍の方はどうだろうかと、問いかけた。

「連絡ないのよね。こっちから電話をかけても、電波の届かないところにって応答で……」

「そっか。なにもなければいいけれど……」

 香織が心配そうに呟く。とはいえ、彼女の身に何かあったとしても、香織や徹が助けられるわけではないだろう。

 戦いになれば、二人の出る幕はまず無い。せいぜい怪我の手当が出来るくらいだろう。

「三つ目、確認終えたら、忍ちゃんが向かいそうな神社に行ってみるわ」

 香織はそういって電話を切る。

「なんだって?」

「忍ちゃん。連絡が取れないみたいなのよ」

「そっか」

「だから、三つ目を確認し終えたら、忍ちゃんの行く予定の神社にも行ってみようよ」

「そうだな」

 徹も相づちをうつ。

 自転車はやがて下り坂に通りかかった。

「ねえ、何か聞こえない?」

 不意に香織が言う。

「ん? どんな音?」

「なんっていうか……羽? の音?」

「羽?」

 徹がオウム返しに問いかける。それから耳を澄ませて周囲の音に気を配る。

「なんかこう、夏とかに部屋の中で蚊が飛んてるときに聞こえる、耳障りな感じのあの音よ」

 言われて見れば、確かにそんな感じの音が聞こえてくる。徹はおそるおそる振り返った。

「なっ」

「えっ。なに? なにがあるの?」

「振り返るな。全力でチャリンコをこげ!」

 徹の一言に、香織の血の気が引いていく。香織も悟ったのだ。背後に巨大昆虫が迫ってきていることを。


 昨日の巨大カブト虫だった。昨日とちがうところといえば、数が多く種類も豊富なところだろう。

「逃げろ!」

 徹が叫ぶ。

 香織は全速力でペダルをこぎ始めた。

 下り道だったことも幸いし、自転車は一気に加速していく。

「いいぞいいぞ。このまま逃げ切れ!」

 徹が叫んだ。彼は香織の後ろを追うように自転車を走らせている。万が一のことを考え、彼女をかばうためであった。

 とはいえ、下り坂を利用した加速で、巨大昆虫との距離はどんどん開いていく。このままいけば、なんとか逃げ切れるか。

 徹がホッと一息ついたのもつかの間だった。

「と、徹ちゃん」

 切羽詰まった香織が悲鳴に近い声を上げた。

「どうした? 急カーブか?」

 問いかける徹に、香織は真っ青な顔して振り返りながらいった。

「上り坂なのよ~」

 目に涙を浮かべ、彼女は叫ぶ。

 そういえば、地図でもその事は解っていたはずなのに。完全に失念していた。

 また追いつかれるか。

 徹は後ろを振り返る。

 さっきよりも距離が開いている。うまくすれば……逃げ切れるか……。

 戦っても勝ち目がないのは目に見えている。いかに逃げ切るかが勝負の分かれ目だ。

「香織。このまま一気に行くぞ。勢いがついている今なら、ある程度は楽に上がっていけるだろう」

「で、でも。無理だよ」

「無理でもやんないと……またあの巨大昆虫に襲われちゃうぞ」

「でも……」

「大丈夫。自分を信じろ」

「自分を信じる?」

「そうだ。香織なら出来る!」

 徹は叱咤しながら励まし続ける。背後の気配を探りながら、必死にペダルを漕ぎ続ける。やがて道は上り坂になった。

 香織は必死に漕ぎながら、前へ前へと向かう。徹は後ろを振り返った。相変わらず巨大昆虫は二人を目がけて飛んでくる。

 坂の上が目指している神社である。果たしてそこまで逃げ切れるか。

 約百メートルもの上り坂は、傾斜角が割と急だった。自転車を降りずに登り切るのは不可能にも近い。

 それでも二人はやらねばならない。もし、力つきれば、奴らの餌食になるに違いなかった。

 力の限り、体力の限界まで全力でペダルを漕ぎ続ける。スピードが落ち始めてきた。助走代わりに下り坂で蓄えたエネルギーは、ついに尽きようとしていた。

「あーん。段々重くなってきた~」

 香織がぼやく。座ったまま漕いでいては、止まってしまう。サドルから腰を浮かせ、二人は前傾姿勢で前へ進もうと必死だった。

「やっぱり、登り切るには足りなかったか」

 徹は立ち漕ぎしながら後ろを振り返る。さっきよりも間合いが詰まっていた。

 やばいな。追いつかれるのが早いか、登り切るのが早いか、かなり微妙になってきた。

 一抹の不安が過ぎる。

 とはいえ、もう坂の頂上は目と鼻の先だった。

 坂を登り切ったら目の前が神社だった。奴らはもう真後ろにいた。追いつかれそうになりながらも、二人はその敷地内に突入した。

 曲線を帯びた明神鳥居をくぐった先に段差があって、勢い余った香織はその段差に前輪を乗り上げ、バランスを崩す。

「きゃっ」

 転んだ香織は自転車から投げ出され、石畳の上に転がった。

「香織!」

 徹は急ブレーキをかけて自転車を止めると、その勢いのまま、まるで転がる様に自転車から飛び降りる。足がもつれながらも、どうにか体勢を立て直し、香織の傍に駆け寄った。

「大丈夫か? ケガは?」

「うん。ちょっと打ったくらいだから、たいしたことないよ」

 見たところ、確かに大丈夫そうだ。擦り傷が多いけれど、大きなケガではなさそうだった。

 ホッとしたのもつかの間。徹は羽音を耳にして我に返った。振り返ると、すぐそこまで迫った巨大昆虫が今なお二人めがけて飛んでくる。

「立てるか?」

 手をさしのべると、香織はうなずきながら手を握り返す。香織が立ち上がったときには奴らはもう目の前だった。

 徹は彼女を護るように立ちはだかる。

 刹那。

 バチッという大きな音が響いた。一瞬、辺りが目映いくらい輝く。二人はまぶしさのあまり目を瞑った。

 香織は徹の胸に顔を埋め、恐怖で身をすくめている。徹は彼女を安心させるようにその背中に手を回して抱きしめていた。

 巨大昆虫は襲ってこなかった。

 徹が恐る恐る目を開ける。

 明神鳥居の向こう側にひっくり反っていた。その表面は黒こげになり、うっすらと煙が立ち上る。

 何が起こったのか、二人にはよくわからなかったが、助かったことだけは理解できた。

 まだ複数の昆虫たちが飛び交っていたが、明神鳥居よりもこちら側に入ることができず、その周りを恨めしそうに飛び回る。

「た、助かった」

 なんだか解らないけれども、奴らは入って来れないようだ。

 二人は胸をなで下ろす。

「さ、早く調べましょ?」

 呼吸が整うのを待って、香織がいった。

「ああ。そうだな」

 徹は相づちを打った。

 二人は境内に向かう。人影は少なくとも表にはない。社務所も窓口のカーテンが閉まっているから、人はいないのだろうか。

 二人は社の近くを人影を捜して歩き続けた。

「やっぱり誰もいないか」

「社の中、みれないね。ここも手がかりなしかなぁ」

 徹は頭をかきながら、辺りを見回した。手がかりになりそうな物は何もない。

「ダメそうだね」

 香織が大きなため息をつきながらつぶやいた。

「次、行こうか……」

 いつまでもここにいても仕方ない。徹は大きなため息をつく。そのときだった。社の方から音がした。

「何? 今の音……」

 香織は徹の後ろに隠れた。徹は彼女をかばいながら、ゆっくりと音のしたほうに向かう。

 社の脇から裏に回りこむ。

 そこには初老の男性がいた。社の中から出てきたところだろうか。ドアに鍵をかけているようだった。

 物音の原因が人だとわかり、二人は胸をなでおろす。が、それもわずかなこと。香りは徹を促す。

 徹もハッと我に返った。

「あ、あのー」

 初老の男性はビクリと身をすくませる。

「ちょっとお話を伺いたくて」

 徹は丁寧な物腰を崩さず、語りかけた。

「どちらさまかな?」

「失礼しました。私は月成徹と申します。父の代理で調べごとをやってまして……」

「あの考古学者の月成さんの息子さんか」

「父をご存知ですか?」

「何度かお話をさせてもらったよ。非常に熱心に考古学を研究されてる方ですね」

 初老の男性は警戒を解き、和やかな笑みを浮かべて徹と向き合う。

「失礼。私はここの神主の石田です」

 石田が握手を求め、徹はそれに応じた。

「ここではなんですから、こちらへどうぞ」

 石田は二人を社務所の方に誘う。二人はうなづいて石田についていった。


 月成家では敏夫が十冊目の資料を読み終えたところだった。

「少し休まれますか?」

 香奈はお茶を運んできて、テーブルに置いた。

「ありがとう。でも、休んでもいられないさ」

 お茶を一口飲んで、敏夫は次の文献に手をかける。

「ほんと、昔と変わりませんね」

 その様子を見ていた香奈が呟いた。

「ん?」

 敏夫は手を休めて顔を上げる。

 年のせいか、若い頃よりも目が疲れやすく、一瞬ピントが合わない。目をつむり、鼻の付け根当たりを指で押し、それから眼鏡を取りだしてかけた。

「年は取りたくないものだね」

「目が悪くなったの?」

「むぅ。そんなところだな。昔は本を読んだ後も、すぐ遠くのものとピントが合わせられたのに……」

「私も昔よりも疲れやすくなりましたよ」

「香奈さんは専業主婦だから、時間つくって休めるだろ?」

「あら。主婦っていうのも、実はなにかと忙しいんですよ」

 香奈は徹の正面のイスに腰掛けた。相変わらず笑顔でそこにいた。

「そうなのかい?」

「ええ。でも、こうしていると、昔を思い出しますね」

「昔か。あれからもう二〇年近くが経ったのだな」

 敏夫は遠い目をした。

「あいつと出会ってからかい? それとも……」

 敏夫の言葉に、しかし香奈は答えることなくニコニコと笑顔を浮かべたままそこにいた。

「ごめんなさい。邪魔、しちゃいましたね」

 香奈は笑顔を崩さずそう嘯く。立ち上がった弾みに、平積みになっていた本が倒れた。

「あっ」

 香奈と敏夫が手を伸ばす。

 二人の手が一瞬触れ、敏夫は動きが止まり、香奈は反射的に手を引っ込めた。

「ごめんなさい」

「いや。こっちこそ……」

 それは、本を倒したことへの謝罪なのか、それとも……。とにかくギクシャクした空気が二人を包み込む。

「大切な資料が……」

 香奈が手を伸ばして本を拾う。

「ん? ちょっと待て!」

 敏夫が香奈を制止する。

「これは!」

 敏夫は一番上に広がったままの文献を拾い上げる。その手は震えていた。

「これだ」

 一枚の絵が描かれているページだった。

 大蛇と向き合う若者たちの絵。

 彼らの手には一振りの剣と光り輝く珠があった。

 次のページでは倒され、横たわるオロチの姿が。前のページでは壊滅した町や崩れた山などが描かれ、さらにその前には巨大な昆虫が人々を襲う絵があった。

「この絵は?」

「過去において、オロチは退治された。それは解るか?」

「そうなの?」

 キョトンとした香奈にわかりやすいように、敏夫はゆっくりと説明する。

「いいか。過去数度、オロチはこの日本に出現している。そのいずれも、この緑川の地から生まれ出ている」

「ええっ?」

「これは少し前から掴んでいた情報だったのだけれどね。でも、この日本は現代を迎えている。平和にね」

「うん」

「つまり、過去に置いてオロチは退治されてきたのさ。その都度、ね」

 納得したように香奈は頷いた。

「もしかして、二〇年前の事件も?」

「今回の異常現象、つまりオロチ復活の前触れだったのかもしれないな」

「倖ちゃんはもしかして、それを知っていたのかしら」

「きっと。だから、この地に来た。それで、危険が去っていない事を知ってこの地に留まる決意をしたのかも知れない」

「だから敏夫さんと結婚したの?」

「いや、そうではないと思うよ。少なくとも、僕も彼女もお互いを尊敬し、愛し合っていた。それだけは確かな事実だよ」

「じゃあ、事故って死因は?」

「事故じゃなく、今回への布石に始末されたのだとしたら?」

「もし、そうだとしたら……三人があぶない」

 香奈には珍しく慌てた口調だった。外へ飛び出そうとするが、敏夫がそれを制する。

「早まるな。落ち着け」

「でも、香織が……香織が危険な目に遭っているかと思うと……」

「気持ちは分かる。だけれど、闇雲に行っても仕方ない。車を出すから、準備しよう」

「うん。お願い」

 二人の会話がとぎれるのを待っていたように、グラグラと家が……いや、地面が揺れていた。僅か十数秒で揺れは収まる。

「地震?」

 香奈の問いかけに、敏夫の表情は暗くなった。

「たぶん。いや、そうだと思いたい」

 敏夫は自分に言い聞かせるようにうそぶいた。壊滅した町や崩れた山々の絵が、オロチの暴れたものなのか。あるいは、地震に夜者で、オロチ復活の予兆なのか。

 詳しく読んでいる暇は、今は無かった。それよりも、二人の心中は三人のことで気がかりだった。

 徹、香織、忍。三人とも、無事でいてくれ。

 敏夫はまとめた荷物を車のトランクに押し込み、運転席に座る。香奈は貴重品を抱えてすでに助手席にいた。

「さあ、まずは二人のむかった北山神社だ」

 エンジンがかかる。北山神社を目指して、敏夫は車を走らせるのだった。


 社務所に案内された二人は、出されたお茶を手に持っていた。特折り口に運びながら、滅多にお目にかかることの出来ない神社の裏方部分を物珍しげに眺めていた。

 箱にしまわれているお札やお守り。古い文献のような小さな冊子が十冊ばかり積まれている。

「なんか、普通の空間だね」

「うーん。神社ってだけで、なんだか特別な場所ってイメージしてたけれど……」

「ほっほっほっ。あまり日常と変わらない空間じゃろう? それはそのはず。人が生活しておるでな」

「石田さん」

「さてと。これを見てもらうかな」

 奥の部屋から戻ってきた石田が手にしていたのは、一巻の巻物だった。

「これは?」

 丁重に受け取り、紐を解きながら、徹は問いかけた。

「見てみればわかる」

 巻物を広げていく。

 文字ではなく、絵が描かれていた。

 大きな蛇。オロチだろうか。そして、それを取り囲む人々。中央の人物は手に剣を掲げ、その隣にいる女性が光る珠を掲げている。

「昔話の一節ですか?」

 香織が呟く。

「そうとも見えるな。しかし、今、これと同じ事が現実に起ころうとしている」

 徹と香織は固唾を呑んで耳を傾ける。

「すなわち、オロチの復活」

 やはり父のいうことは正しかった。巨大な蛇、オロチが現世に甦ろうとしていることは、間違いない。

 不意にグラグラと建物が揺れる。上からつり下がった蛍光灯が振り子のように左右に振れた。

「地震?」

「みたいだな」

 揺れは激しくない。

 余震程度の揺れだろうか。人が揺れを感じるが、棚などは倒れそうなほどではない。震度は三くらいといったところだろう。

「第二段階に入ったか」

 石田がつぶやいた。

「第二段階?」

 香織がオウム返しで問いかけた。

「オロチ復活の第一段階で巨大な昆虫が出没する。これは君たちも実際に体験したことだろう?」

「あ、それじゃあ。まさか」

「文献にも載っておるが、地震が起きることこそ、オロチ復活の第二段階」

「そしたら、この次は?」

「大地が裂けオロチが復活すると言われておる」

「もしそうなったら……」

「止められない、か。今のうちに食い止める方法は無いのですか?」

「ふむ。それなんじゃが……」

 石田は別の巻物を取り出す。目の前にさっと広げた。そこには、かなり古い物ではあるが、この町が描かれているようだった。

「この黒い点の様な印は何を表していると思う?」

「うーん」

 二人は真剣なまなざしでそれらを見つめる。不意に徹が行った。

「この点の場所って……もしかして、ここ?」

「ってことは。この点はさっき寄ってきた篠の宮神社かな」

「間違いないよ。地図が古いし、地形などは今ほど正確に描かれてはいないけれど、この印の辺りは、僕らが訪れる予定だった神社の場所だよ」

 徹が確信を持って言い切った。

「そう。確かにその通りだ。そして、これらの神社の地下には光の珠と呼ばれる物が眠っていると言われておる」

「光の珠?」

「それって、この絵の?」

 香織はオロチと戦う人々の絵を指さしながら言った。少々興奮気味のようで、頬を蒸気させ、ほんのりピンクに染めている。

 伝説に近づいてきた。

 忍や敏夫の話がより現実味を帯びる事実が、ここにあった。それを知ることができたことに、二人は喜びを覚えた。

 だが、それもつかの間だった。

「これがあればオロチを再び封じることができるのね?」

「それで、この光の珠は今どこに?」

 しばし沈黙の後、石田は重々しく口を開いた。

「わからん」

「えっ」

「でも、ここまでわかっているのに……」

「実を言うとのな、私が先代から引き継いだのがここまでなのだよ」

「ということは……」

「これ以上はわからない。すまぬ」

「そ、そんなぁ」

「じゃあ、光の珠も?」

「あるいはどこかにあるかもしれないのだけれども、私にはさっぱり。少なくとも、私が知りうる限り、ここには無い」

 徹と香織はがっくりと肩を落とした。

 伝説と現実の狭間。垣間見ることができたのにもかかわらず、それにつながる実物が見つからない。

 このままでは、オロチが復活した時の手立てが見あたらない。焦りも募る。

 再び、地面が大きく揺らぐ。

 何度も地震が起こると、嫌な予感が脳裏をよぎる。しかし、どうにもできない。対策すら練れない己の非力さにもどかしさを覚える。

「さて、どうするか……」

「これ以上ここにいても進展はなさそうだよね」

 徹と香織はうなずき合う。

「他に同じように伝承が伝わる神社ってありますか?」

「神社じゃなくてもいい。少なくとも、手がかりが得られるなら」

「オロチを止めないと。この町が、大好きなこの町がきっと廃墟に……」

「お願いします。何でもいいです。手がかりを……知りうる限りで……」

 二人は交互に問いかけた。

 石田はそんな二人の熱意に押される。

「むぅ。この町、緑川のなかでも一番大きな神社が北にあるだろう?」

「ええ。この地図でいうところの、この部分ですね?」

 徹は地図の中央よりもやや上に描かれた黒い点を指さす。そこは、この町の中心部のちょうど北側に位置している神社であった。

 地形的には弧を描くような形をしていて北と西、東に山。入り江のようになっている南に海という自然要塞のような土地が、緑川市の特徴である。

 海に出るか、山を越えるか。今でこそ、舗装された道に車などが普及しているから他の土地に移動するのは苦にならない。だが、昔はそうはいかなかった。

 中でも北にある神社は緑川神社といい、一番大きく、由緒正しく、しかも古くからこの地にある。

 緑川市の名は、この神社の名前からという説と、この神社の名前すら昔話の伝承からという説があるらしいが、定かではない。

「そう。私よりも詳しいことを知っていると思うよ。それに、たぶん私よりも月成君、君のお父さんの方が詳しいんじゃないかな?」

「……父は……父は膨大な資料に埋もれて、まだまとめきれていないようで……」

「ああ。そうか」

「でも、ここで手がかりを得られたことは収穫です」

「そうか」

 徹たちは礼を言って社務所を出た。

「どうする? 行ってみる?」

「そうだな。父さんたちに連絡を入れてから行ってみようか」

「うん」

 香織が携帯電話を取り出す。

 地面が大きく揺らいだ。

「また、地震か」

 徹が大きなため息をついて呟く。

 さっきまでよりもずっと大きな地震だった。

 香織はとっさに徹に抱きつく。

 地震はしばらく続いた。

「やっぱり、もうあまり時間がないのかな……」

 不安げに香織が呟いた。

「かも知れない」

 徹がそれに応える。

「急ごうか」

 香織は携帯電話の電話帳から母の携帯電話番号を呼び出し、コールした。


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