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蘇る太鼓の魔物  作者: 西陸黒船
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第2章 町の異変と悪夢の目覚め

 徹は息を潜める。

 まだカミキリムシは徹に気づいていないようだった。徹は物音を立てないように壁の影に隠れた。

 さて、どうするか。

 まともに戦って勝てるとは思わない。

 何か方法は無いだろうか。

 対策が練れないうちにやつに気づかれてはまずい。

 徹はゆっくりとドアを閉めた。音を立てないように、ゆっくりと。そして、忍び足で階段を下りていく。

 徹はリビングに戻った。

「どうだった?」

「うん。カミキリムシがいた」

「はあ?」

「だから、カミキリムシ。でっかい奴」

 徹が両手を大きく広げてみせた。

 香織の顔が真っ青になる。その場にヘナヘナと座りこんだ。

「あらあら。どうしましょう」

 相変わらずおっとりした表情で香奈が呟いた。

 徹は「どうしましょうかね」と笑顔で呟いて、対策を考え始める。

 放っておけば、この家が破壊されるのは時間の問題だろう。だからこそ、急がなければならない。

 西田のオヤジさんのゴルフクラブくらいじゃ硬そうな殻を破れはしないだろう。せいぜい怒らせるのが関の山だ。

 包丁とかでも致命傷を与える事が出来るだろうか。

 いや、昼間の忍者みたいに、その手の技能を修得していれば可能だろうが、徹にはそんな自信は全くなかった。

 徹は外を見た。

「……なんとかなるかもしれない」

 徹が小さく呟いた。そう、確かに。

「奴は俺がなんとかする。うまくいけばいいけれど……とにかく、身を隠すこと、いいね?」

「徹ちゃん、何をするつもりなの?」

 香織が心配そうに見上げる。

「なに、そんな心配すんなよ。俺はぜってー大丈夫だって」

「で、でも……」

「大丈夫だって。俺を信じろよ」

 徹が笑顔で言った。

 本当はもちろん怖い。あの硬そうな装甲を貫くことなど、徹にはできないだろう。だが、それでも、徹はなんとかせずにはいられない。

 仮にこのまま放っておいたところで、カミキリムシがどこかよそへ行く保証など無い。むしろ、いつ二階を食い破って降りてくるか、気が気ではないだろう。

 徹は自分自身を奮い立たせる。

 幼なじみと、母親代わりの女性を助けることが出来なくて、何が男だ!

「おばさん、おじさんのゴルフクラブ、借りるね」

 徹はそういって近くにあったゴルフクラブを手に取った。

 階段をわざと音を立てながら上がる。

「やい、化け物」

 徹は派手な音を立ててドアを開いた。

 目の前に、警戒したカミキリムシが、微動だにせず、徹の方を向いていた。

 様子を伺っているに違いない。

 徹は途中で見つけ、持っていたペットボトルを投げた。それは見事にカミキリムシの注意を引くことに成功した。

 カミキリムシが威嚇する。徹はさらに挑発した。

 カミキリムシが動いた。徹目がけて飛んでくる。

 徹は前へ飛び出す。カミキリムシとの距離が縮む。刹那、前へとヘッドスライディング。紙一重でカミキリムシの下を通り、立ち位置が入れ替わった。

 カミキリムシが反転する。

 徹はこの瞬間を待っていた。次の瞬間、彼の体が空を舞う。カミキリムシが壊した壁の向こうに飛び出したのだ。

 二階から地面へ。

 住宅を囲む塀の二倍はあろうかという高さ。

 地面に足がついたとき、自分の体重の負荷に耐えきれず、転がった。

 痛い。足がその衝撃を受け、悲鳴を上げる。折れては無さそうなのが幸いだった。

 カミキリムシが真上に飛びだし、そして徹を見つけたらしかった。一直線に徹目がけて飛んでくる。

 徹は転がりってカミキリムシをやり過ごすと、痛みを堪えて立ち上がった。そのまま走り出す。

 カミキリムシは地面に激突しても、めげずにすぐに体勢を立て直した。この間も徹はカミキリムシから距離をとって逃げる。

 カミキリムシはスピードを上げて徹に襲いかかる。徹は西田家の敷地を出て路地を曲がっていた。

「よしよし、ついてきてるな」

 徹は後ろを振り返り、呟いた。彼の思い描いた通りである。それでも、彼はさらに走る。

 時折、間近まで接近してきたカミキリムシの攻撃をやり過ごし、拾った石を投げて注意逸らさないように促す。

 どれくらいそれを続けただろうか。

 徹の体力は限界に達しようとしていた。肩で息をしながら、それでも懸命に鉛のように重くなった手足を動かす。

 疲れが見えてきているのは、カミキリムシも同様だった。

「そろそろ頃合いかな」

 徹は大きく息を吸い込んだ。もう一踏ん張り。

 西田家からこれだけ離れれば、影響も少ないだろう。徹は電信柱に背中を預けるようにして立った。

 カミキリムシは何度もコンクリートの塀やアスファルトの地面などに体をぶつけ、ずいぶんとボロボロになっていた。

 それでも、カミキリムシの自尊心を傷つけたのか、ただの意地なのか。

 あるいは、狙った獲物を逃したくないだけかも知れない。

 とにかく、カミキリムシは、執拗に徹を狙っていた。

 勢いをつけたカミキリムシが通る目がけて突っ込んでくる。

(まだだ)

 距離がグングン詰まってくる。

 徹はまだ動かない。

 五メートル、四メートル、三メートル……。その距離は刻一刻と迫ってくる。

 あと二メートル、一……。

(今だっ!)

 目の前まで迫ってきた瞬間、徹は腰を落として斜め前へと跳んだ。

 視界から獲物の姿がカミキリムシは、慌てて反転しようとした。だが、遅かった。

 鈍い音がした。続いてメキメキとなにやら音がする。

 徹は急いでその場を離れる。

 カミキリムシがそれを追おうとした瞬間だった。

 電信柱が倒れてきた。カミキリムシのぶつかった衝撃で、根本からぽっきりと折れたのだ。

 カミキリムシは逃げ遅れ、電信柱の下敷きになった。しばらくはもがいていたが、段々と力つきたようで、徐々に動かなくなっていった。

「うまくいったぁ」

 徹はホッと大きく息をついた。

 大の字になって寝転がる。肩で息をしながら空を仰いだ。

 少し体を休めた徹は西田家へと戻る。

「徹ちゃん」

 西田家の庭先では、香織が徹の帰りを待ちわびていた。徹の姿を見つけるなり、駆け寄って彼を優しく抱きしめた。

「もう、心配したんだから。ケガはない?」

「ごめん。なんとか大丈夫。とりあえず疲れたけどね」

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、徹が言った。

「……バカ……」

 香織は徹の無事を喜んだ。


 どうやら、町は今、危機に瀕しているようだった。

 それも、今朝確かに見てきた事柄や、体験した事柄をさらに超越した何か得体の知れない事なのかも知れない。

 現状では正確に把握は出来ないが、どうやら巨大昆虫はその数を増し、人々は恐怖を覚える。何かが起ころうとしている。

 しかし、それを理解しているものは数少なかった。徹たちも自分たちの生活がどうなるか、内心不安で仕方なかった。

 西田家も昆虫に襲われ、今回は徹の機転でどうにか切り抜けることが出来たが、家もボロボロになってしまった。

 徹はとりあえず不安そうな二人の傍についていることにし、西田家で疲れた体をいやしていた。

 そんな折り、徹の父、敏夫がやってきたのだった。

 車から降りた中年の男は、一目散に徹のもとに駆け寄った。

「徹、無事か?」

「父さん」

「おお、ケガは無さそうだな。西田さんもご無事のようで……よかった」

「ええ。私たちは無事ですけれど……」

 香奈の視線の先には、西田家の残骸があった。

「ねえ、お母さん。私たちはこれからどうすればいいの?」

 香織は今にも泣き出しそうな表情で、そう言った。

「そうねぇ。まあ、何とかなるわ。命があっただけでも良しとしなきゃね」

 相変わらず香奈はのんびりとした口調で、笑顔は崩さない。だが、その眼差しは真剣そのもの。生活の基盤が崩れたのだ。衣食住、それらが揃ってこそ、人並みの生活が送れるのである。住を失えば、雨晒し。一向に回復しない天候のもと、野営などすれば体調を崩すのは目に見えている。

「ひとまずは家に。あとのことはそれから考えましょう。それに……」

「それに?」

「あ、いや、それは西田さんの旦那さんが戻られてから……」

「夫は出張なのです。今日から一週間ほど……」

「そうでしたか」

 徹と香織を車に乗せると、貴重品を持ち出すために香奈と敏夫が崩れかけた屋敷に入り込む。

 緊張の糸が切れたのか、香織が徐々に涙を流し始めた

「ねぇ。これから、私たちどうなるのかな?」

「香織。大丈夫。なんとかなる。きっと」

「なんとかなるって?」

「俺、母さんいないだろ?」

「ん」

「おばさんやおじさんは、そんな俺の面倒を見てくれたじゃない」

「うん」

「香織だって俺のこと、兄弟同然に見てくれてただろ? おかげで俺は寂しい思いをすることなく、今日まで生きて来れた。だから、今度は俺や親父が恩返しする番だ」

 徹の目には意志の光が宿っていた。その意志は強い。高校生に何が出来るだろうか。

 家を建てられるわけでもなく、生活を支えられるわけでもない。だが、出来ることをやる。それが恩返しに繋がると、徹は信じていた。

 敏夫と香奈が帰ってくる。香奈は貴重品が入ってるとおぼしきバッグを大事に抱えていた。敏夫はボストンバッグ二つ。それに着替えなどが入っているようだった。

 それから携帯電話で香奈は夫に連絡をいれる。彼は無事らしく、帰宅途中のようだった。

 連絡を入れながら、一同は西田家をあとにした。敏夫の運転する車で僅か一分ほど。すぐ近くの月成邸に到着した。

「なにぶん男二人暮らしなので散らかってますが……」

 敏夫はそう言いながら車を降りる。

 徹は積極的に荷物運びを手伝い、トランクのバッグを持った。敏夫が玄関のかぎを開け、一行は次々と雨を避けるように中に入っていく。

 廊下には所狭しと本が積み上げられている。

「本、ずいぶん増えたんだね」

 香織が呟いた。

 そう言えば、香織が家の中にはいるのはずいぶん久しぶりかもしれない。

 徹はもう増えているかどうか判らないくらい感覚が麻痺している。

 あくまでも、よそよりも少し本が多いかな、くらいだ。学者という父の仕事柄、こうなるのは目に見えているからだ。

 部屋はずいぶんと散らかっていた。

 居間だと思われるところにはカップラーメンなどインスタント類の食べかすや容器が散乱している。

「ねぇ、徹はこれを見て何とも思わないの?」

 引きつった表情で香織が呟く。

「まあ、ちょっと散らかってるかなぁ?」

「ちょ、ちょっと?」

 香織は部屋中を見渡した。

 台所には使った食器がそのままシンクに入っている。最後に洗ったのはいつだろうか。食器棚は空っぽで、使える食器は全て使っているようだ。

「ちょっと、ねぇ……」

 呆れ返ったように香織が言った。

「あらあら……ちょっと散らかってますわねぇ」

 呑気な口調で後からやって来た香奈が言った。

「ちょ、お母さん。これのどこがちょっとなの? ものすごくよ。ものすごく散らかってる!」

「どうしたの? 香織ちゃん。そんなすごい剣幕で……」

「すごい剣幕もなにも、この状況で呑気にしてられるわけないじゃない? だってしばらくここに住むんでしょ? こんなところに住むのよ? ゴキブリ並の生命力がないと、生きていけないわ!」

「ご、ゴキブリ並って……」

 さすがにそこまでいわれ、徹はちょっとへこんだらしかった。俯きしゃがみ、床にのの字を書きながら拗ねる。

「まあまあまあ、香織ちゃん。お掃除すればいいじゃないの」

 のんびりとした香奈の口調に、香織は苛立ちを押さえきれない。

「脱いだパンツがそのまま捨ててあったりするわけじゃないから、まだましなんじゃない?」

「うっ」

 香奈の悪気のない言葉に、うめき声のような短い声を上げて冷や汗をかいているのは、敏夫であった。

「そ、それはまあ、そのなんだ?」

「私が知ってる昔のお話ですが、なにか?」

 にっこり笑って振り返る香奈だったが、なぜか有無を言わせぬ妙な迫力があった。

 敏夫はなにも言えずタジタジとなる。

 徹と香織はそんな二人の顔を交互に見て、過去に一体何があったのか勘ぐるも、二人には到底わかることではなかった。

 部屋の……いや、家の掃除が始まった。

 徹や敏夫の書斎はともかく、生活スペースと使われてなかった部屋を西田家にあてがうためである。

 長い間使われていなかった徹の母の部屋は埃が積もっていた。香織はマスクをして部屋中に雑巾掛けを行う。

 徹は香奈の指示でゴミ袋を持って居間で忙しそうに動き回る。ゴミの分別をしながら、いっぱいになった袋の口を縛って廊下に出し、またその続き。汗が噴き出してくる。

 香奈はまさに腐海と化した台所で格闘していた。

 いらないものやらをゴミ袋に入れながら、食器を洗っていく。そのスピードはかなりのものだ。

 流石は専業主婦というところか。手慣れている。


 あらかた片づいた頃だった。

 徹はソファーに腰掛けてくつろいでいた。

寝室の掃除を終えた香織もその隣に座り、疲れ切った敏夫がゆっくりとやっきてヘナヘナとリビングで力つきる。

「みんな、お疲れさま」

 香奈はそう言ってお茶を入れ、丸盆に乗せたままテーブルに置いた。徹は戸棚から未開封の煎餅を取り出し、袋を開けてその横に置く。

 煎餅をかじりながら、徹は湯飲みを手に取った。香奈も一休みだと、湯飲みを持ってイスに腰掛ける。

 ようやく力を取り戻した敏夫がテーブルにやってくると……湯飲みはそこに残ってなかった。

「あれ? 俺のお茶は?」

「おかしいわね。確かに人数分入れたはずなのに……」

 四つ確かにあった。はずである。しかし、今、そこにはない。

「あ、それは私が頂いてます」

 女の子の声だった。

 声をした方を向けば、そこには小柄な女の子がいた。煎餅をくわえ、湯飲みを持っている。

「誰だお前は?」

 徹が言った。

「泥棒か?」

 少女はきょとんとした目をし、小首を傾げながらじっと一同を見渡す。ややあって、「ああ」と呟いた。

「そう言えば、挨拶してませんでしたっけ?」

「そう言えばだぁ?」

「こらこら、徹ちゃん。そんな乱暴な言葉使いして。ダメよ」

 声を荒げる徹に、香奈がいつものような口調で言った。「でも」と、反論気味の徹だったが、ほんわかした香奈の微笑みに毒気を抜かれる。

「お嬢ちゃん。どこから来たの? お名前は? 迷子かな?」

 と、優しく問いかける。

「お嬢ちゃんって年じゃないんだけどね。こう見えてももう十六だから……」

 その一言に、一同は驚きを隠せない。

 少女は大きなため息をつく。

「覚えてないのかな。朝、あなた達二人の前に現れた人」

 その言葉に二人は小さな声を上げた。確かに小柄な人だった。しかし、こんなにも見た目の幼い子供だとは誰が想像しただろうか。

「覚えてはいるようね」

「ああ。一応な。命の恩人だし……」

「お礼、言い損ねてたから……あの時はありがとう」

 徹と香織が代わる代わる言った。

「礼なんかいい」

 短くそう言うと、少女はようやく名乗った。

「私は、美郷忍。月成敏夫氏に呼ばれ、この地にやってきました」

「ああ、君がそうだったのか……」

 彼女の言葉に、敏夫は満足げに頷く。

「もう少し経験のある年輩者が来るかと思ってたが……まあいい。君が今日、町を見て回った結論から聞こうか」

 敏夫は精悍な顔つきでイスに腰掛ける。さっきまでの姿とはうって変わり、そこには研究者としての顔を覗かせている。

 忍は敏夫の言葉に、少しムッとしたようだった。目尻がピクリと反応した。しかし、すぐに平静になる。

 いや、表情が消えると言った方が正しい表現かもしれない。

「結論から申し上げますと、この町はもうそう長くはないでしょう」

「なっ」

 驚愕の声をあげたのは、徹や香織だった。意外と冷静に敏夫や香奈は聞いている。まるで、これを予期していたようだ。

「そうか」

 大きなため息をつき、敏夫は短く言った。

「やはり、あれが甦るのか?」

 忍は黙って頷く。

「巨大昆虫はその前触れ。私の郷にある記録には、そうあります」

「前触れ……甦る……。親父、何が起ころうとしてるんだ? この町で、一体なにが……」

 徹は敏夫の胸ぐらを掴むと、前後に揺する。吐けといわんばかりの勢いだ。しかし、敏夫は少しも慌てることはなかった。

「徹。説明するから落ち着け……」

「落ち着け? 俺は、俺たちは朝、巨大昆虫に襲われたんだぞ。それに、香織の家だって……」

 興奮気味に叫ぶ。

「徹ちゃん。やめて。無事だったんだし、お父さんの所為じゃないでしょ?」

 香織がすがるように言う。

「っ。ったよ」

「え?」

「わかったよ。聞くよ、話を……」

 そう言ってふてくされ気味に徹はソファーに腰を落とす。

 一連の様子を眺め見ていた忍は、大きなため息をついた。

「落ち着きも忍耐力もないのね」

 ケンカを売るようなその言葉に、周囲が慌てた。だが、徹もさすがに女の子に手を挙げることはしなかった。

 代わりにこめかみの血管がピクピクしている。

「なんだって?」

「本当のことを言ったまで。これがあの伝説の人の息子かと思うかと、がっかりだ」

 その言葉の意味が解らなかった。

「伝説の、あの人?」

 香織が呟く。

「……俺の妻、徹の母親のことだ」

「俺の母さん? 一体どんな人だったんだ?」

 徹には母の記憶がなかった。近所に住む西田香奈が母親代わりであった。

 写真でしか姿を見たことはないし、当然声すら記憶に残っていない。

 その腕に抱かれたことはあるらしいが、もちろん記憶には全くなかった。

 小さい頃は悲しかったし、当然のようにそれをネタにいじめる悪ガキもいた。

 幼稚園くらいのころ、ちょうどそういう時期にさしかかり、当時はとても不幸にすら思っていた。だが、今ではそんなことはない。

 ひねくれることなく真っ直ぐに育つことができたのは、一重に香奈が実の息子のように面倒を見てくれたが大きいだろう。

 兄弟同然に育った香織の存在、香奈の夫である祐一の影響も多大にある。

 小学校に入学した頃には、もう母親のことを考える事はなくなっていた。

 それ以来、特に気にしたことは無い。

 だが、今ここで話題に出たことは、ついに彼の心を揺り動かす。

 どんな人だったか知りたい。もしかしたら、この時初めてそう思ったのかもしれなかった。

 だが、今その話をしては、話の腰を折ってしまう。

 徹は今しばらくその疑問を胸の内にしまい込むことにした。

「さて、結論から言いましょうか」

 少女は思い口を開いた。皆が固唾を呑んで彼女の口から次に紡ぎ出される言葉に耳を傾けた。

「オロチの復活。それが私の結論です」

「オロチ?」

「オロチってあの昔話に出てくる頭が八つある大蛇の化け物?」

 徹と香織が交互に言った。

 少女は黙って頷く。

「巨大昆虫はその前兆。かつて、数度にわたりこの国に出没した伝説の魔物。それがオロチです」

 辺りが静まりかえる。突拍子もないその告白は、一同の思考を停止させるには十分だった。

「やはりそうか。もしかしたらと思っていたが……」

 神妙な面もちで敏夫が呟いた。

 彼は片隅に積んでいた古い資料をかき分け、目的の本を見つけだす。

 しおりの挟んであったページには巨大な蛇の絵が描かれていた。

 蛇は人を喰らい、町を破壊する。そんな絵だ。

「八又の大蛇は古事記に出てくる架空の魔物だ。しかし、この資料にはオロチと呼ばれた大蛇が描かれているのだよ」

「とうさん。これは?」

「この町に古くから伝わる文献だよ。もっとも、ただの写本だけれどね」

 乾いた笑いを浮かべながら、敏夫は言う。

「これをどこで?」

 そう問いかけたのは少女だった。

「この町の文献を漁ってたころだから、大学で手に入れた資料か。あるいは寺院に残ってたものを写させてもらったか……。どちらかだな」

「あやふやな記憶だな」

 と、徹。敏夫は、

「いやいや、文献だけでも二万冊以上あるからな。細かいことまで覚えていないさ。ただ、どこで手に入れたものかは全て記録してある」

 そう言ってリビングの片隅に置いてあったノートパソコンを開いた。電源を入れる。ソフト会社のロゴが画面に表示され、マシンが起動する。

「あの……これは?」

 おずおずと少女が言う。

「パソコンだけど?」

「ぱそこん? なんだか面妖な箱ですね」

 一瞬、空気が凍りつく。

「えっと……」

 徹が頭を掻きながら説明しようと思った。

「そういえば、日も落ちてきたわね」

 香奈が電気をつける。

 グロウスタータが二、三度点滅し、すぐに蛍光灯が白い光を発する。

 ビクッと少女の体が震え、ソファーの後ろに隠れておどおどしていた。

「どうしたの?」

 香織が問いかけると、少女は短く言った。

「よ、妖術か?」

「え? 電気だけれど……」

「電気? なんだそれは」

「こうやって、スイッチを入れると明るくなるの」

「そ、そんな便利なものが!」

「……」

 少女の驚き振りに、一同は目をまん丸くして呆然とした。

「え、えっと……今まで家ではどうやって明かりを?」

「ロウソクの火ですよ」

 まるで当たり前のように少女は言った。

「というか、陽が落ちたら寝るものでは?」

 理路整然と少女は呟く。

「昔の人かよ。っていうか、どんな生活を送ってたんだ?」

 徹が言った。

「昔からの伝統を守って、修行の毎日でしたよ」

 ケロッとした表情で、彼女はいう。唖然としたまま、一同はその少女に視線を向けていた。

「昔からの伝統って?」

 問いかけたのは徹。

 技術が発達した現代で、電気すら知らない少女がいることに、一同は驚きを隠せないでいた。

「私の里は山の中にありました。夜明けとともに起き、日没と同時に就寝。まあ、有り体に言えば、そんな生活です」

「コンビニもなさそうなところだな」

「こんびに? って何ですか?」

 徹のつぶやきに、忍は予想通りの問いかけをする。

「二十四時間営業の便利なお店っていう感じかな。食べ物とか売ってるし……」

 徹がいう。

「お店、ですか。村に一件しかなかったけれど、食べ物は自給自足なのでお店にはおいてませんよ」

 忍の発言に、香織が驚きの声を上げる。

「自給自足って……いまだにそんなところがこの日本にあるんだ!」

「まあ、忍の里の話はこれくらいにして、話を本題に戻そう」

 敏夫がいった。

「あの事件以来、元々歴史に興味のあった私は、いろいろと文献を読みあさるようになった。この地の伝承を集めてまわり、それをまとめる。それは私が大学生になってからずっと続けていたことだった」

「あの事件?」

 訝しげに徹が問う。

「二十年前にこの町で起こった事件さ。それ以来、私は考古学者となってこの地の伝承を調べ始めた」

 話題を変えたのは敏夫の言葉だった。

「二十年前って、確か……」

 香織が記憶を探る。実体験ではないが、話は聞いているはずだった。

「物の怪大量発生事件」

 香奈がポツリと呟いた。

「その通り。あの時、私は彼女と出会った。まだ十九になったばかりの私は、この町の大学に通う学生だった」

「近所の幼なじみでな、香奈さんとは。同じ大学に通ってたんだ」

「懐かしいですね」

「そうだな」

「あいつがこの町に来たのは、物の怪の大量発生事件が起こる一年前だった」

「そういえば、初めて出会ったのは夏休みの直前だったかな?」

「あの頃、すでに前触れがあったみたいだからね。それでこの町に来たみたい」

 香奈と敏夫は懐かしそうに語る。不意に香織が母に問う。

「お母さんは徹ちゃんのお母さんと……」

「友達だった。倖ちゃんがこの町に来て。その夏に出会って、すぐに友達になったわ。最初は何のために来たか隠してたけれどね。でも、うち解けたら教えてくれたわ。っていうか、現場に遭遇しちゃったんだけどね」

 香奈は照れ笑いを浮かべながら言った。

「そうなんだ」

「それから調査を続けてて、私たちもそれを手伝ったりして……」

「大量発生はわずかの差で防げなかったけれどね。僕らに戦う力なんか無かったから、倖が一人で戦った」

「幾つかの要因もあってすぐに事態は収束したのよ」

「でも、あの頃から実を言うと、今回のオロチ復活はある程度予知出来てたんだ」

「えっ。マジかよ、父さん」

「まあな。明日、香奈さんと香織ちゃん、徹にはこの町を離れてもらおうと思ってる」

「え、敏夫さんは?」

「俺は残るさ。あいつの意志も継いでるし、今、この町でオロチ復活を知る数少ない人物だからね」

「でも、だからって父さんが……」

「徹。人には役割ってもんがある。父さんは父さんの役割を全うせねばならないのだよ。解ってくれ」

 徹はうつむき、父に背を向けた。敏夫はそれ以上、何も言うことが出来ない。

 徹が部屋を飛び出し、階段を上がっていく。自分の部屋に行ったらしい。

 敏夫は肩をすくめた。

 ずっと様子を伺っていた香織が重々しく口を開く。

「徹ちゃんには肉親はおじさんしかいないから……おじさんを失う事が怖いんですよ。きっと」

「……ああ。そうだろうな」

「だから、きっと無事でいてください。全てが終わったら、また笑顔で会えるように」

「ああ。それは約束するよ」

「はい」

「それじゃあ、明日は早いからもう休んだ方が良い。さっき掃除していた奥の部屋、二人で使って」

「ありがとう。お休みなさい」

「おやすみ。忍ちゃんはどうする?」

 名前をいきなりちゃん付けされたことに憤りを感じたのか、彼女は顔をしかめた。

 だが、すぐに機嫌が戻ったのか、あるいは文句を言う気が失せたのか、とにかく彼女の表情は元の無表情に戻った。

「休ませていただけるのなら、どこでも。このふわふわなイスでも構わない」

「じゃあタオルケットを持ってくる」

 敏夫が奥の部屋から戻ってくると、ソファーの上で安らかな表情で眠りにつく忍の姿があった。

「なんだ、こんな表情もできるんじゃないか」

 そういって敏夫は笑う。

 まるで、かつての妻を見ているようだった。彼女は倖の血縁だと郷の者から聞いている。自分にとって姪っ子のようなものだ。

 似ていて当たり前だった。

「意地っ張りというか、世間知らずもそっくりだな」

 敏夫はタオルケットをそっと彼女にかけた。リビングを出るときに、電気を消す。眠気を覚えた敏夫は大きなあくびをしながら、自分の部屋へと戻っていった。


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