信頼
2020.5.2 一部修正しました!!
駆けつけた獣医は、手早くオースの傷を手当した。脱脂綿が赤く染まっていく。広がる赤にライは苦しそうに言った。
『オース、大丈夫?』
『心配しなくていいよ。血は出てるけど、かすり傷だから』
「数回切りつけられていますが、あまり深い傷ではないようです。安静にしていれば、じきに治りますよ」
包帯を巻き終えた獣医はそう言った。その言葉に、サーシャは詰めていた息をようやく吐く。
「本当ですか?」
「ええ。羽に傷がついているので、バランスが悪く飛べないかもしれませんが、このくらいならすぐに治るでしょう。無理に動かないよう見ていてあげてください」
「分かりました。本当に、ありがとうございます」
サーシャは立ち上がり、深く頭を下げた。そんなサーシャに獣医は笑みを浮かべる。そしてユリウスに頭を下げると部屋を出た。
「お前を襲ったやつは今、鴉が追っている」
「鴉?」
「第二王子を護衛する者をそう呼ぶ。基本は俺の警護しかしないが、王宮に入った賊だ。さすがに文句言わず、命令に従った」
「え、でも、そうすると、今、王子の護衛はいないってことですか?」
「鴉は1人じゃなく、集団の名称だ。だから今も、俺の護衛には誰かがついている。気配を消しているから、どこにいるかはわからないがな」
「そう、なんですね」
「鴉の個人の名前は知らない。全員を鴉と呼ぶ」
「…あの、さっきの笛は何なんですか?」
「ああ、これか」
ユリウスは首にかけてある銀色の笛に触れた。サーシャが見えるように持ち上げる。
「特殊な訓練をした者のみに聞こえる音だ。半径15mほど離れていても聞こえるらしい。ちなみに吹くのも訓練が必要だから、俺以外は使えない」
『なんか、獣みたいだね』
オースの言葉にサーシャは声に出さずに同意した。
また違う世界だ、とサーシャは思う。いつだって護衛がいる。それは、命を狙われることがあるということだろうか。それは、どんなに怖いことだろう。けれど、サーシャの目の前にいるユリウスは淡々と話した。きっと、麻痺しているのだ。「普通」ではないことが、「普通」になっている。
「お前、飯は?」
「…いりません」
何かを食べる気にはならなかった。睨んできた鋭い目、短剣の銀色、窓から入ってきた風。すべてを鮮明に思い出せる。もう危険はないはずなのに、足が震えた。
『サーシャ、大丈夫?』
ライが心配そうに尋ねる。オースも心配そうに見ていた。サーシャは笑みを浮かべようとするが、歯が震えてカタカタと鳴った。
「食べられそうなものを持ってこさせる。少しでいいから腹に入れろ。それだけで、少しは違う」
「…」
「気を抜くな。まだ捕まったと報告を受けてない」
「…はい」
「再び狙われる可能性がゼロとは言えない。賊が一人とも限らない。少しでも精をつけろ」
「…わかりました」
俯いたまま、頷いた。ユリウスの目は見られなかった。そんなサーシャにユリウスは小さくため息を吐く。
「お前、今日は、ライオンの傍で過ごせ。寝るのもここだ。なるべくライオンの傍で寝ろ」
「え?」
「お前なら、ライオンの傍にいても危険はないだろう?」
『それは危ないと思う』
ユリウスの言葉にオースがそう言った。その言葉に、サーシャも頷く。その様子を見て、ユリウスが怪訝そうな顔を浮かべた。
「どうした?」
「ライの近くで寝ることは、私でも危険です」
「何?」
「寝ている間や起きてすぐは、本能に従いやすくなります。そんな時は、この前のように、私の声は届きません」
「…」
「私が動物たちと同じ家で暮らしていないのもそのためです。ライの部屋で、離れて寝ることは可能ですが、近くで寝ることはできません」
「なら、そうしろ。部屋の前にはハリオをつける」
外は、ハリオが、部屋の中はライが守る。頭では理解できた。きっとそれなら、安全だ。
「…王子の傍にいてはダメですか?」
それでも、怖さが消えなかった。出て行こうとするユリウスの袖を掴む。
「…は?」
「無理を言っているのは承知しています。でも、…誰かに傍にいてほしい。王子がダメなら、ハリオ様に一緒の部屋にいてもらうことはできないでしょうか?」
言いながら先ほどの光景を思い出し、再びサーシャは震え出した。そんなサーシャを見ながら、ユリウスは考えるように押し黙る。そして、大きなため息をついた。
「わかった。俺の部屋には地下に繋がる道もある。俺の部屋の方が逃げるには、好都合だ。ハリオ、お前は部屋の外で見張れ。一晩中だ」
「はっ!」
「あの…王子」
「でも、いいのか?」
「え?」
「隠し戸から入ってくれば、俺の部屋にいるとはわからないだろう。隠し戸の存在を知る者は多くない。しかし、万が一にでも、一晩、俺と同じ部屋で過ごしたことが知られれば、お前は傷物だ。事実がどうであれ、周りはそう見る」
結婚前の男女が同じ部屋で夜を過ごすことなど、あってはならない。婚約者であっても清い仲でいる必要があった。もし、間違いを起こせば、責められるのは気を許した女の方。それを知っているからこそ、ユリウスはサーシャに尋ねる。そんなユリウスにサーシャは静かに頷いた。
「構いません」
「…」
「もしそうなった場合でも、王子は私が帰るときに、何とかしてくれます。…そうでしょう?」
まっすぐユリウスを見た。その目には信頼が浮かぶ。
ユリウスは想い人としてサーシャをベッドに押し倒しているところを目撃させている。それでいて、半年後に家に帰すと約束した。ならば、万が一傷物だと噂が立っても、何か方策を考えているはずだ。だからこそ、サーシャは微笑む。不安はなかった。ユリウスは小さく笑みを浮かべる。
「簡単に言ってくれる」
「信じていますから」
「……そうか」
「はい」
「今日だけだからな」
「はい。ありがとうございます」
「…仕方がない」
ユリウスは小さくそう言うとサーシャから視線を外した。そして、包帯の巻かれたオースを見る。
「おい、スチャ。どうせ、こいつが心配なんだろう?仕方がないから、お前も部屋に入れてやる」
『…もう少し言い方ないのかな、この王子は』
悪態をつきながら、けれど、どこか嬉しそうにオースは一つ声を出して鳴いた。




