⑴デウス・エスク・マキナ
(1)デウス・エクス・マキナ Forgiveness is the fragrance that the violet sheds on the heel that has crushed it.
(許しとは、踏み躙られた菫の花が、自らを踏み躙った踵に放つ香りである)
Mark Twain
栗色の頭頂部が断崖絶壁みたいに真っ平らだった。
それを見ると、葵はいつも呆れて、虚しくなって、とても安心出来た。二十年来の友人が出会った頃と変わりなく生きていることを実感する。
湊と航の父ーー蜂谷和輝と出会ったのは、葵がまだ大学生の頃だった。母国で反社会的人格障害というレッテルを貼られた葵は、逃げるように渡米した。
そんな頃、一人暮らしをしていた和輝の家が火事に遭い、不憫に思った葵の同居人が連れて来たのが始まりだった。
最初は使用人として部屋を貸してやっていたのが、いつの間にか家賃を払って住むようになり、孤独に生きていた葵の生活を侵食するようになった。
高校時代には野球部に所属していたが、或る傷害事件に巻き込まれて再起不能とされる怪我を負った。しかし、血を吐くようなリハビリの末、最終学年の時には甲子園優勝を果たすという少年漫画の主人公のような訳の解らない経歴を持ち、スポーツ医を目指して渡欧した。
その癖に、学業と並行して現場で研修をさせてくれるという甘言に乗って渡米し、何故か救命救急医として馬車馬のように働かされながら、言語や文化の違いに適応出来ず、座学は壊滅的で試験は赤点常習という無謀、無計画を絵に描いたような男である。
しかも、その後、或る事件で脳に障害を負い、葵と同居していた頃の記憶を失くしてしまったのだ。今も記憶は戻っていないらしいが、葵が不法滞在と例のレッテルの為に強制送還されると、精神科医となって再び目の前に現れたのである。
隔離施設に収容されていた葵を引っ張り出し、レッテルを剥がした。交換条件として葵の担当医となり、欧州でまたルームシェアをしていた。
葵の社会復帰の目処が立つと、結婚してMSFとして中東へ旅立つと言い出した。もう本当に訳の解らない落ち着きの無い男である。
息子が生まれそうな時も中東にいて、間に合わないだろう和輝の代わりに葵が出産に立ち会った。奇跡的なタイミングで和輝が間に合って、二人の息子は誕生した。その時の縁で、葵は湊と航の後継人となったのである。
息子達が十歳の頃、事件は起きた。
中東の或る国で医療援助を行っていた和輝が空爆され、死んだと報道されたのだ。
当時の彼の家族の憔悴は見ていられない程だった。しかも、年に見合わず賢い双子は事実を認められず家出してしまった。帰って来たのはなんと一年後である。
結果として和輝は生きていたのだが、その裏では、葵が想像も出来ないような世界危機が起きていたのだと言う。空爆を受けて左手首から先を失くし、一年間昏睡状態になり、再び葵の前に現れたのは死んだと聞かされてから五年後のことだった。
無軌道で無計画で無謀なのに、終わってみると予定調和的に全てが綺麗に解決している。最早、彼に関することで何が起きても驚かないだろうと思った。
彼は今、MSFの活動を通して命の価値を揃え、第三次世界大戦を回避する為に奔走している。スケールが違い過ぎて、もう理解出来ない。
今ではヒーローと呼ばれ、世界的な有名人で、反戦活動の第一人者と名高いのだから、この世は狂っている。
そんな彼の息子である湊は特に、生き写しかと思うくらい父にそっくりだった。湊が賢く冷静で、無謀なことはしない少年だと解っていても、その父が余りにもいかれてるので、葵はいつも対応に迷う。いつか、父と同じ道を辿ってしまうのではないかと不安に駆られるのだ。
先日、航にも「湊は親父じゃない」と言われたばかりだが、所詮、蛙の子は蛙である。年齢を重ねて父親になって、少しは落ち着いたのかと思えば、彼は全く変わらない。もう変わらないのだろう。
一年の殆どを紛争地で過ごす彼が珍しく帰国したのは、湊が事件に巻き込まれて入院したせいだった。紛争地に戻る前に、事件の関係者であるライリー・ホワイトに会いたいと言い出したので、葵は半ば投げ遣りな気持ちで了承した。
「ライリー・ホワイトは黙秘を続けている。それが不利になることを知った上でな」
航と湊の友人が面会を終えて出て行ったが、目ぼしい情報は無かった。FBIの捜査でライリーとマーティンの繋がりについては調べが進んでいるものの、主犯が死んだ今となっては推測でしかない。
ライリーは仲間に対する暴行と、マーティンに手を貸したとする共謀罪で拘留されているが、解らないものは裁きようも無い。湊と航は被害届を出さないと言っているし、お手上げだ。
葵が知りたいのは、あの地下室にあった大掛かりな装置の正体である。湊は解らないの一点張りで、ライリーは黙秘。李瀏亮は何か知っているようにも思えたが、湊が黙っている手前か、何も言わなかった。
「捜査のことは、俺に期待しないでくれ」
取調室に入る前、いきなり和輝はそんなことを言った。じゃあお前は何しに来たんだと問い詰めようと思ったが、和輝の手は既に扉に掛かっていたので、葵は口を噤んだ。
威勢良く扉を開き、陽気な笑顔で挨拶を口にした時、和輝は扉に思い切り額をぶつけた。これには流石のライリーも面食らっていた。
葵は溜息を呑み込み、痛みに呻く和輝の背を押した。
そう。この男は、基本的に馬鹿なのである。
15.宴の始末
⑴デウス・エクス・マキナ
「湊のお父さんですか?」
額を押さえる和輝に、ライリーが言った。
彼が面接官に対して能動的に話し掛けるのは、これが初めてだった。
和輝は何も考えていないような顔でーー事実、何も考えていないのだろうがーー頷いた。眉間が赤く腫れている。
「似てるだろ?」
「はい。湊かと、思いました」
和輝は朗らかに笑った。
笑った顔が、本当にそっくりだった。同時に、湊がこんな風に笑うところを最近見ていないと気付いた。面会許可が下りたと言っても来たのは航で、湊は何も言って来なかった。
和輝はライリーの斜め前に座ると、思い切り背凭れに凭れ掛かった。
「湊は来ないよ。会いたいなら、君が行かないと」
「……」
「俺の息子で実験をしてたのは、君だね?」
言葉は問い掛けながらも、その口調は否定を許していなかった。和輝は、他人の嘘が解る人間だった。湊はそれを受け継いだのだ。
ライリーがどんな嘘で惑わせようとしても、和輝は真実だけを抜き取って行くだろう。
和輝は口の端に笑みを浮かべていた。
「SLCは超能力の軍事的応用を考えていたようだけど、君は違うようだね。湊の仲間だって聞いてるよ。ということは、湊も最初は協力していたんだろう」
「……」
「湊が協力したとするなら、医療とか、人を助けるものだったんじゃないかな」
あの大掛かりな装置が医療機器とは思えない。第一、救出された時の湊は四肢を拘束されていたようだったし、むしろ、意見の対立があったのではないかと思っていた。
「これは俺の推測なんだけど……。あれは人工知能じゃないかい?」
ライリーの表情は変わらない。
装置を調べれば解ることだ。事実、あれは人工知能だった。だが、データが消えてしまっているので、それがどんなものだったのかは解らないのだ。
「医療に関する人工知能って考えると、あれは対話を目的とした装置だった。少なくとも、俺が湊ならそうする。完成したら、困難の中にいる多くの人を救うことが出来たんじゃないかな」
対象の嘘を見抜き、学習する人工知能。言葉だけ聞くと不穏だが、医療導入と考えると、確かにカウンセリングで役立つだろう。
湊が作りたかったのは、そういうものだったのかも知れない。きっと、十七歳の少年なりに、自分に出来ることを探して、ーー父の助けをしたかったのだ。
「最後は湊の意思を無視して、強引に実装しようとした。意見の対立があったんだね。きっと誰かが、悪用のリスクに気付いたんだ」
湊じゃないね。
和輝はそう言った。
湊は走り出したら自分で止まれないから、と。
「それを悪用するとしたら、軍事か司法だ。君は湊がSLCに拉致された時は救出に協力してくれていたらしいから、司法じゃないかな。嘘発見器なんて単純な機械じゃないんだろう?」
ライリーは黙秘を続けているというのに、和輝は消去法と推測で話し続ける。凄まじい勢いで真実に近付いているのが解る。
「俺が話してばかりで悪いね。そろそろ、君もお話ししたくなったかな」
「……」
「まだ良いか。じゃあ、俺が話すね」
和輝は薄く笑った。
その時になって、葵は、彼が怒っているのではないかということに気付いた。息子が裏切られ、拉致され、憔悴している。その相手と対面して、何も感じていない方が不自然だった。
和輝の淡褐色の瞳に、青白い炎が見える。
「司法に導入した時、一番最悪なのは冤罪だ。それを防ぐ為には湊の能力が必要だった。違うかな」
「……」
「でも、湊は非協力的だったんだね。湊の能力を組み込んでも冤罪が起こる可能性があったのかな。例えば、ーー感情があったとか」
何だそりゃ。
発想がぶっ飛んでいて理解不能だ。嘘を見抜く人工知能に感情があったとしたら、そんなもの誰も信用出来ない。
いや、元々は対話を目的とした医療用の人工知能だったのだ。其処に感情があったとしても不自然ではない。けれど、何故それを司法に導入しようと思ったのだ。支離滅裂じゃないか。
和輝は意味深に微笑み、足を組んだ。
「湊が協力しなかった理由はこんなところかな。間違っていたら、いつでも訂正するよ。補足しても良いからね」
「……ッ」
「君は大学で機械工学を専攻してるんだったね。湊は脳科学、襲撃された二人は犯罪心理学と遺伝子工学。さっきまでいた彼は言語学か……」
ふむ、と一人で納得したような顔をして、和輝は頷いた。改めて聞くと錚々たるメンバーである。畑違いの彼等が同じ研究室で超心理学なんてよく解らない学問を研究していたというのは、かなり不穏な状態である。
脳科学、機械工学、犯罪心理学、遺伝子工学、言語学。感情を持った人工知能、嘘を見抜く装置。果たして彼等は、何を作ろうとしたのか。
「……未来予知システムとか」
ぽつりと、和輝が言った。その瞬間、ライリーの表情が強張った。当然、和輝もそれを見逃しはしなかった。
「司法で使うとしたら、……犯罪予測か」
「滅茶苦茶だ!」
堪らず、葵は怒鳴った。
和輝の話は大抵突拍子も無いけれど、輪を掛けて理解不能だ。どうして湊がそんなものを作る必要があるのだ。
「元々は別の研究だったんじゃないかな。医療導入を視野に入れた感情を持った人工知能と、犯罪予測装置。……君が合体させたのかな」
和輝は冷ややかにライリーを見詰めた。
「一つ一つは良いものだけど、合わせると最悪だね。悪用のリスクが高い。悪い人がその人工知能を操って、誰かを殺人犯に仕立て上げるかも知れない」
「……」
「せめて、感情は入れるべきじゃなかった。失敗だ」
「それは」
「それは?」
ライリーの僅かな言葉を拾って、和輝が復唱する。
机の上に両肘を突くと、和輝はライリーを覗き込んだ。
「それは、君の計画に無かったのかな。……ずっと思ってたんだけど、君の目って不思議。目の前で話しているのに、一度も俺のことを見ない。後ろ暗いことがあるのかなって思ってたんだけど、もしかして」
和輝が言った。
「もしかして、君は人と違うものが見えてるんじゃないかい?」
葵は耳を疑った。
超心理を学んでいるというのだから、幽霊でも見えているのだろうか。
「俺は精神科医なんだよ。ーーねぇ、君の目には何が見えるの?」
真ん丸に見開かれた瞳には、何の邪気も無い、子供が好奇心のままに問い掛けるように、一切の打算も無く、口にする。
ライリーが唇を噛み締める。
和輝の言葉は彼にとっての地雷を踏み抜いてしまったのではないか。そんなことを思う。自供させるなんて、夢の夢だ。
息子の湊はもう少し上手くやっていたが、其処等辺の技術はきっと、母の血を引いたのかも知れない。
「俺が……、精神病だって言いたいんですか……!」
怨嗟の篭った低い声で、ライリーが睨み付ける。
初めて目が合った。彼の瞳が、とても綺麗な青色であったことを知る。
和輝は怯えた風も無く、飄々と答えた。
「その言い方だと、精神病が悪いものだと思ってるみたいだね。その方が、俺にとってはとても不愉快だな」
そう言いながら、和輝は笑っていた。
「誰だって風邪くらい引くし、調子を崩すことはある。それなのに、精神病と聞くと距離を置こうとする。それは世間が精神病理学について無知だからだ。……そうは思わないかい? ライリー君」
慈愛に満ちた声で、和輝が語り掛ける。
天然で人誑しなのだ。一見すると無謀で無茶で好い加減なのに、妙に人を惹き付け、安心させる。
「君の苦しみを教えてくれよ。一緒に悩んで、一緒に背負ってあげられるかも知れない」
ライリーが驚いたように目を丸めた。目の前にいる和輝を見ている筈なのに、その視線の先は別の誰かを捉えている。
そして、それが誰なのか、葵には解る。
この男が出て来た以上、全ての虚勢も隠匿も無意味なのだ。彼は真実だけを拾い上げ、強引に結末へ引き寄せる。
死刑執行の宣告をするように、厳かに、和輝が言った。
「さあ、君の話を聞かせてくれ」




