⑺ラプラスの悪魔
朝の湖畔の片隅にいるような静けさの中、サイレンの音が響き渡った。非常事態を思わせる赤い光が点滅し、部屋の中を照らし出す。
ディスプレイに表示される文字を見て、湊はひっそりと笑った。
「エラー……」
ライリーが愕然と呟く。
エラーを検出……修復します……エラーを検出……修復します……エラーを検出……。
人工音声が狂ったように繰り返し訴える。
ライリーが苛立ったようにキーボードを叩く。しかし、エラーは修復されない。湊は笑った。この結末が、解っていた。
「サンダルフォンはただの装置じゃない。感情があるんだ」
「だから、何だって言うんだ。それは数値で制御された作り物の感情だ。まさか、サンダルフォンが自らの意思で拒否してるとでも?」
「そうだよ。サンダルフォンは自ら学習する人工知能なんだ。俺とホセで、モデルの感情データを入れたんだ。ーー言ってなかったっけ?」
湊が言うと、ライリーの拳が机を叩いた。
モデルーーつまり、人工知能という機械の中に人格と呼べる存在があったことを、ライリーは知らなかったのだ。
「言ってなかったね、ごめんね」
湊はそう嘯いて笑った。
「怒り、悲しみ、喜び……。それから、憐れみ」
「憐れみだと……?」
「はははっ!」
声を上げて笑ってしまった。
可笑しくて堪らない。
元々、サンダルフォンは人間に近い感情を持った人工知能だった。感情とは外界からの刺激に対する心理作用で、単独では存在出来ない。この人工知能が能動的に人間へ干渉する為に入れたデータが、憐れみである。
湊が超心理学を研究したのは、超能力の医学的応用を視野に入れていたからだ。この人工知能が孤独な人の心に寄り添う存在になれば良いと思った。
だが、犯罪予測装置に感情を付けたのは、失敗だった。それは付け込まれる弱味を作ることと同義である。事実、サンダルフォンは抵抗を続ける湊を憐れみ、エラーを起こしている。
更に、人工知能としてのサンダルフォンは未完成なのだ。判断出来ない事態に遭遇すると、情報を収集する為のスリープ状態に入る。
ディスプレイが次々と電源を落とし、停電のように辺りが暗くなる。ライリーは手元のキーボードを操作して、すぐに再起動を図った。
「……こんなエラー、システムを修正すれば済むことだ!」
「そんな時間があればね」
ライリーの顔が歪む。
天井から物音が轟いたのは、その時だった。
大勢の人の足音が響く。咄嗟にライリーが腰を浮かせる。
ライリーがパソコンを操作すると、ディスプレイに監視カメラの映像が映し出された。見覚えがある。ライリーの自宅の玄関が蹴破られたらしい。
突入したのは、スーツ姿の男達だった。
先頭に立っているのは、葵君だ。何かを探すような物々しさで、怒号が飛び交う。
自分を呼んでいる。探している。
湊は、其処に確かな希望の福音を聞いた。
「随分と到着が早いじゃないか……!」
「俺専門のGPSがいるんだ」
振り向いたライリーが眉を顰める。
「機械の類は検査した。第一、電気ショックを与えた時に機能は停止している筈だ」
「機械じゃない」
湊は笑った。
この感覚を他人と共有することは難しい。
ライリーは何かを察したようにカメラ映像を動かした。ディスプレイに映るのは、松葉杖を突いた弟の姿だった。
可笑しくて、可笑しくて、拘束されていなければ腹を抱えて笑っていたかも知れない。一方で、ライリーは放心したように呟いた。
「成る程。……航か」
そうだ。
テレパシーなんて使えない。けれど、何故なのか自分達には解るのだ。
航やリュウが助けに来てくれるんじゃないかとは思っていたけれど、期待はしていなかった。間に合う保証も無いし、全部自分一人で遣り遂げるつもりだった。
背凭れに身体を預け、ライリーが溜息を吐く。魂まで抜けてしまいそうな深い溜息だった。
「……何時から気付いてたんだ?」
天井から聞こえる声は、FBIだろうか。
葵君のチームが動き出したのなら、見付かるのは時間の問題だ。湊はライリーを見詰め、答えた。
「最初に疑問に思ったのは、航達が襲撃された時。確信を持ったのは、航がデイビス氏から双子の天使って言うキーワードを聞き出してくれた時だよ。……もしも航が教えてくれなかったら、俺はライリーをずっと疑わなかったと思う」
仲間を疑うのは怖かった。だけど、疑わなかった時のリスクを考えると、行動せざるを得なかった。
ライリーが敵に回ったとしたら、機械の類は使えない。下手に連絡を取れば情報は筒抜けになる。FBIが合流するのを待っていたら逃げられる。迷っている時間は無かった。
ライリーは力無く笑った。
憑き物が落ちたみたいな顔付きだった。
「航をあの場所で殺し切れなかったのが、俺の敗因って訳か」
それはどうかな、と湊は思った。
湊の想定出来る最悪の事態とは、航が死ぬことだった。それを回避する為の手は尽くすけれど、想定する以上はその先も考える。
航が殺されることがあったら、自分はどんな手段を使っても犯人を突き止め、復讐を果たしただろう。法の下で裁くなんて生温いことはしない。誰が相手であっても命乞いなんて聞かない。この世で最も残酷な方法を使って、最期の一瞬まで苦しませ、絶望の中で殺害した。
天井にぶら下がるスピーカーから、葵君の声がする。
暴れているみたいな物凄い音がした。床板まで剥がす勢いだ。彼等には随分と心配をさせてしまった。
「……お前、本当に俺のこと、信じてたんだな」
湊は答えなかった。
最早、そんな問答には何の意味も無い。
自分と同じだけの信頼を要求するつもりは始めから無かった。裏切られても、良かったのだ。その為に利用され、傷付けられても、構わなかった。
許容出来なかったのはただ一つ、ライリーが、航を巻き込んだこと。
「どうして、俺の弟を巻き込んだんだ」
自分達は同じ目標に向かう仲間だった筈だ。彼が懇願したならば、自分は協力を惜しまなかったかも知れない。ーー否、それこそ、希望的観測だ。
ライリーは知っていたのだ。この実験が成功しないことも、協力が得られないことも。
「不確定要素が欲しかったんだ。サンダルフォンの予測を超えて来るような、確定した未来を覆すような、ヒーローがさ」
ライリーの指す不確定要素とは、サンダルフォンのデータに無い存在のことだ。この装置は湊のデータが元にされている。
湊は家族の嘘を見抜けない。つまり、航は、湊にとって最も身近な不確定要素だった。
「その為に航が、ゾーイやホセが死んでも良かったってこと?」
ライリーは答えず、徐に立ち上がった。
頭部が固定されているせいで姿を追えない。視界から消えたライリーは、何も言わずに湊の右腕のベルトを外した。
「どうだったんだろうな……。俺はあいつ等が死んでも良かった。なのに、生きてると知って、すごく安心したんだ」
何かの折れるような音がした。
床板が外れたのかも知れない。騒々しい音が近付いて来るのに、二人きりの部屋は静かで、まるで、あの研究室にいるみたいだった。
「俺にとってのヒーローは、お前だったのかな。それとも、航だったのかな」
「……」
「もう解らないや」
扉を叩き付ける音がする。葵君の恫喝するような低い声が聞こえて、湊は身を起こした。ベルトで拘束されていた手首が赤く腫れている。
「ずっと、欲しいものがあったんだ」
ライリーが微かに顔を上げる。
湊は目を伏せた。ライリーが何もしないことは解っていた。彼は悪足掻きも抵抗もしない。
「裏切られても、信じて良かったと思える仲間が欲しかった」
「……その願いは、叶ったか?」
「うん」
扉が破られそうだ。警察が突入したら、ライリーとこんな風に話すことはもう出来ないだろう。
裏切られても、信じて良かったと思える仲間。
在りし日の幻影が瞼の裏に浮かび上がる。
リュウがいて、ライリーがいて、ホセがいて、ゾーイがいて、オリビアがいる。あの夏はもう二度と戻らない。
湊は鍵に手を掛けながら振り向いた。
「またね」
鍵を開けた瞬間、警官が雪崩れ込んだ。
無数の銃口を向けられながら、湊もライリーも無抵抗を示すように両手を上げた。先陣切った葵君が目を真ん丸にする。
警官に囲まれ、湊は歩き出した。
振り返ることはもうしなかった。
14.観測者
⑺ラプラスの悪魔
ライリーの自宅に地下室が見付かってから、辺り一帯に緊張が走った。誰も知らない秘密の空間で、何が起きているのか誰も想定出来なかったのだ。
湊が拉致されてから凡そ二時間半。
強固な扉は呆気無く開かれたと言う。
警官に囲まれた湊が現れた時、航はほっと胸を撫で下ろした。ライリーが湊を殺害する可能性は低かったが、それでも、顔を見るまでは生きた心地がしなかった。
湊は穏やかな顔付きで、両手をポケットに突っ込んでいた。精密検査の為に病院へ搬送される予定だった。航はその緊急車両に同乗した。
車内中央に置かれた担架に腰掛け、湊はぼんやりと窓の外を見ていた。丁度、地下室から引き摺り出されたライリーが連行されるところだった。航は密かに湊を伺ったが、その面には何の感情も浮かんでいない。ポケットに手を突っ込んだまま、黙っている。
「……地下室で何があったんだ?」
湊の濃褐色の瞳が此方を見る。
透き通った眼差しで湊は「何も」と言った。「何も無かったよ」と。
両手首と足首が赤く腫れていた。拘束されていたのだろう。抵抗しなければこんな傷は出来ない。見え透いた、優しい嘘だった。
「手ェ出せ」
航が言うと、湊は暫し沈黙した。そして、観念するみたいにポケットから手を出した。
掌は血塗れだった。救急隊員がぎょっとして、慌ててアルコール脱脂綿で消毒する。湊はされるがままで、何も言わなかった。
掌にはそれぞれ五つの傷があった。どうやら、爪が食い込んだらしい。掌が真っ赤に染まる程の出血をしているのだ。相当な力で握ったのだろう。
手当を受けながら、湊は痛くないよと言った。爪の中にも血が染み込んでいて、痛くない筈無いだろうと思った。けれど、湊が痛くないと言うのなら、それで良い。湊の傷を代わりに背負ってやることは出来ないのだから。
「……昔」
ぽつりと、湊が言った。
「俺が神様の夢を見た時、航が言ったこと覚えてる?」
神様の夢。
現実主義者の湊らしくない寓意的な夢だった。今にして思えば、それは湊の価値観とか考え方とか、そういう生きる上での根本的な指標の揺らぎを示す夢だったのかも知れない。
「航、すごく怒ったんだよ。俺のそういう優柔不断なところが嫌いだって」
「……」
「でも、一番腹が立つのは、その神様だって言ってた。全ての人を救えないなら神様じゃない、そんな奴の言うことなんて聞かなくて良いって」
そんなことを言っただろうか。
幼い頃の自分はいつも何かに腹を立てていた。だって、知らなかったのだ。父が背負っていたものも、母の隠していた苦しさも、湊の優しさも解っていなかった。
「その時に、初めて、嘘が解ることを自分から話したんだ。そうしたら、航、すごいじゃんって笑ったんだ」
「……」
「すごく、嬉しかったんだ……」
そう言って、湊は目を伏せた。
何か声を掛けるべきだったのかも知れない。けれど、航はどんな言葉を掛けたら良いのか解らなかった。
幼い頃、湊は嫌だと言えない子供だった。いつもヘラヘラ笑って、曖昧に濁して、誰も嫌な思いをしないようにと自ら泥を被る子供だった。
航はそういうところが嫌いで、腹立たしくて、鬱陶しくて、ーー羨ましかったのかも知れない。
湊の能力は世間的に認められるようなものじゃなかった。特に複雑な人間関係に於いては倦厭されるようなものだった。
それでも、湊は仲間に打ち明けた。
その意味は、きっと。
「もしかしたら、俺はずっと、そう言って欲しかったのかも知れないね」
まるで他人事みたいに、湊が言った。
透き通る眼差しは何処か遠くを見詰めていた。ライリーを搬送するパトカーが走り出す。航は黙って、湊の頭を撫でた。
病院に到着すると、父がいた。
父は黙って二人を抱き締めた。年々小さく薄くなって行く背中に遣る瀬無さを感じ、泣き出したくなる。
何があったのかは訊かなかった。話したかったら聞くと言って、父は笑った。湊は何も言わなかった。
怪我自体は大したことなかったので、警官が来て事情聴取した。葵君は自分達の後見人である。身内は介入出来ないので事情聴取には立ち会わず、代わりに黒薙さんが来た。
湊は何も覚えていないと言った。ライリーを庇っていることは明白だった。リュウはライリーがやったと証言している。最早、意味の無い嘘だった。
「ライリー・ホワイトは自供してる」
「じゃあ、俺が言うべきことは何も無いじゃないですか」
「……被害届は」
「出しません。両親にもそう言うつもりです」
黒薙さんは盛大に溜息を吐いて、湊の頭に掌を乗せた。
「あのなァ……。真実を隠して、お前一人が泥を被って、それで何が変わるってんだよ。お前は騙されていて、仲間は殺されかけて、弟は巻き込まれて……。何故、庇う?」
解っている。湊の行為は自己犠牲で、誰にも認められないただのエゴだ。罪には罰が必要だ。そんなこと、湊が一番解ってる。
「ライリー・ホワイトの家の地下室から、スーパーコンピュータが見付かっている。押収した時にはデータは綺麗さっぱり消されていたが……。あれが噂の人工知能か?」
「さあ……」
黒薙さんが盛大に舌打ちをした。
湊の非協力的な態度に腹を立てたのかも知れない。航は庇うつもりで間に立った。
「こいつだって、人間だ。色々なことがあり過ぎて、混乱してる。日を改めてくれ」
黒薙さんは溜息を吐くと、頭を掻き毟った。
踵を返すと、苛立ちを踏み潰すように足音を立て扉へ向かう。最後に振り向いた黒薙さんが、吐き捨てるように言った。
「自己犠牲で救えるものなんか、何もねぇよ」
扉が閉じた。




