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⑹因果的決定論

 ずっと欲しかったものがあった。

 手を伸ばせば届きそうなのに、触れようとすれば蜃気楼のように消えてしまう。こんなところで諦めて堪るかと何度も自分に言い聞かせて、奮い立たせて、必死に追い掛けて来た。


 泥の中を藻掻くような日々だった。

 それでも、手を伸ばし続けていれば、いつか届くんじゃないかと。


 それが希望的観測に過ぎないことを、俺は知っていた。







 14.観測者

 ⑹因果的決定論








 重低音が腹に響く。

 湊が目を覚ました時、見慣れた仲間の背中が見えた。無数のディスプレイに向き合う彼は、自分の覚醒に気付いていないようだった。


 最後の記憶を思い出し、湊は薄眼を開けて体の末端へ意識を向けた。

 両手両足は動かない。視認出来ないが、仰臥し、何かベルトのようなもので固定されているらしい。薬物の影響は感じられない。身体に異常は無さそうだ。


 此処は大学の研究室ではないらしい。

 見慣れぬ天井と無機質な壁。窓が無い。地下空間だろうか。機械油の匂いが漂っている。


 指は、動く。

 呼吸と心拍は安定していた。自分がとても冷静であることが解る。振り向かない背中を眺め、湊は口を開いた。




「目、覚めたのか」




 自分が言うより早く、背中を向けたままのライリーが言った。半身で振り返る。ディスプレイに心電図が映っていた。成る程、拘束の為だけのベルトじゃないらしい。


 ライリーの眼鏡にブルーライトが反射している。

 湊は言った。




「お前の夢は叶わないよ」




 息を漏らすように、ライリーは笑った。

 見たことの無い笑い方だと思った。そして、自分の目に見えていたものや認識していたものが氷山の一角に過ぎないことを理解した。




「やってみないと解らないだろ? お前なら、そう言う筈だ」

「そうかな」

「そうさ。お前はいつもそうだった。……無邪気で、無謀で、無神経で、他人の気持ちを慮ろうとしない」




 否定も弁解も必要とは思わなかった。

 ライリーの個人的評価に対して自分が何かを言う意味は無いし、理由も無い。悲しいとも悔しいとも思わない。ただ、そういう考えもあるのだと知っていた。




「それなのに、優秀で、天才で、愚かで、甘くて……」

「……」

「お前は、恵まれた能力を活かそうともせず、ただ自分の知的好奇心を満たす為だけに自暴自棄な行動をする。そういうところが堪らなく嫌いで、下らなくて、……俺は、尊敬していたのかもな」




 ライリーの声は微かに震えていた。

 悲しいのか、苛立っているのか、苦しいのか、痛いのか。湊には解らない。考えても仕方無いことは後回しで良い。


 周囲へ視線を巡らせると、部屋の殆どが何かの機械に占拠され、エアコンから寒いくらいの冷風が吹き込んでいることに気付く。

 機械は稼働していると熱を発する。室内の温度と天井の広さから、部屋全体の大きさと謎の機械の規模が想定出来る。

 随分と大きな機械だ。熱量から考えると、スーパーコンピュータ並の大きさだ。




「俺の脳味噌が欲しいのかい?」




 湊が問い掛けると、ライリーが鼻を啜った。




「お前がくれるならね」

「やらないよ」




 自分の脳は洗脳と相性が悪い。外界からの刺激に対して鈍感なのだ。既に作り上げられた思想構造を歪めるということは、脳そのものの価値を落とす。

 強引に支配下に置こうとすれば、発狂するかも知れない。そんな結末は、ライリーとて不本意だろう。




「此処にある機械では、人間の脳は再現出来ない」




 湊が言うと、ライリーは笑った。


 マウスの脳を再現する為にスーパーコンピュータが必要だと聞いたことがある。それが人間の脳ならどのくらいの規模の装置が必要なのだろう。




「脳機能そのものの再現は出来なくても、感情コントロールは可能だ」

「俺の脳味噌と繋ぐのか?」

「話が早いな」




 ライリーは呆れたように言った。


 どうやら、ライリーは自分の脳を機械に繋ぐことで思考を操りたいらしい。何とも安っぽい話だ。こんな大仰な機械を持ち出さなくても、薬剤を投与すれば済む話だろう。


 其処まで考えて、湊は否定した。薬物は脳機能を破壊する可能性がある。だからこその装置か。つまり、此処にある装置が。




「これがサンダルフォンか」




 シミュレーションよりはコンパクトに収まったな。

 湊がそんなことを呟くと、ライリーが目を瞬いた。




「随分と余裕だな。お前、何でそんなに冷静なの」

「焦っても何も変わらない」

「……相変わらずだな」




 ライリーが溜息を吐いた。




「助けが来ると思ってるのか?」

「この国の警察は優秀だからね」

「間に合うと思ってんの?」

「俺は、いつも最悪の事態を想定してる」




 ライリーが目を眇める。

 レンズの向こうの瞳を見詰め返し、湊は笑った。




「この状況は最悪じゃない」




 最悪の事態を想定するのは、いざという時に道を見失わない為だ。去年の夏に散々後悔した。希望的観測に囚われて選択肢を見失うなんてもう沢山だ。




「現実が自分の想像を超えて来る可能性を考えていないのか?」

「その言葉、そっくりそのままお前に返してやるよ」




 湊は目を閉じた。

 夥しい情報が数式となって、雪崩のように押し寄せる。一筋の光が道を照らすように、無数の数式が一つの解を出す。空間認識、時間経過。走馬灯のように記憶が巡る。


 ライリーが立ち上がる気配があった。回転椅子が軋み、床を叩く音がする。金属の触れ合う音、頭部に装着される電極。まるで何もかもが虚構の世界のようだった。


 キーボードを叩く音が聞こえ、湊は目を開けた。ディスプレイには待機を知らせるポップアップが現れた。

 データの読み込みは亀のように鈍い。当たり前だ。脳を通さず感情をコントロールするなんて簡単なことじゃない。


 自分の脳をサンダルフォンに組み込み、支配下に置くことで、犯罪予測の精度を上げる。


 成る程、と思った。湊は、自分に見えているものを他人にも解るように可視化したいと願っていた。それが医学的応用の第一歩だったからだ。ライリーの実験は、自分の研究に繋がる。


 だけど、無意味なのだ。

 もしも、彼の実験が成功し、実装可能であったとしても。




「ライリー」




 ディスプレイを眺める背中に呼び掛ける。ライリーは不機嫌そうに唸り、振り向いた。

 いつものライリーの顔だった。研究室でパソコンに向き合う頼れる仲間が其処にいる。すぐ側にいるのに、この手は届かない。




「お前の話が聞きたい」

「話すことなんて、何もねぇよ」

「でも、聞きたい」




 ライリーは小馬鹿にするように鼻を鳴らして、背中を向けた。拒絶されていると解る。それでも、諦められなかった。


 俺はいつも自分のことばかりで、周りの声に耳を傾けて来なかった。仕方が無いと諦めて、勝手に納得出来る理由を作って、その答え合わせをしなかった。


 だから、オリビアは助けられなかった。彼女が本当に欲しかったものは何なのか。何を願い、何を祈り、何を信じて生きて来たのかこれっぽっちも解ってなかった。




「ライリーの苦しみを、一緒に背負わせて」




 振り向いたライリーが、信じられないものを見るみたいに目を丸めた。




「お前、馬鹿なの? 命乞いなら、もっと効率的に、計画的にやれよな」




 ライリーはディスプレイを一瞥すると、身体を此方へ向けた。データの読み込みに予定以上の時間が掛かっているらしい。




「話してやっても良いけど、先に答えろ。……お前は他人の嘘が見抜けるんだろ。俺の裏切りも解っていた筈なのに、どうして指摘しなかった。どうして、そんなに非合理的な行動をする」




 それは、理屈が必要なのだろうか。

 湊は答えを躊躇った。研究室でリュウが言ってくれたことが、自分の全てだった。ライリーのことを信じたかったから、嘘だと解っても信じたのだ。ただそれだけのこと。




「理由が必要なら、ライリーが必要なように考えてくれ」

「最低な答えだな」

「解ってただろ」




 ライリーが笑った。

 まるで、あの頃に戻ったみたいだった。

 俺達は何処で何を間違ったのだろう。そんな不毛なことばかりを考え、有り得ない未来を夢想する。




「……俺には、共感覚があるんだ」




 ぽつりと、ライリーが言った。




「お前が嘘を見抜けるように、俺は凡ゆる事象が数式に見える」




 湊は少し驚いた。ライリーの告白に対してではない。自分に見えているものが共感覚によるものだと、考えたことが無かったのだ。

 共感覚の持ち主には、形に味を感じられたり、音が色付いて見えたりするという。




「この世が数式で出来ていて、偶然なんてものは無知から生まれた言い訳だってことを、俺は知ってる」




 もしもある瞬間に於ける全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、かつもしもそれらのデータを解析出来るだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何も無くなり、その目には未来も過去と同様に全て見えているであろう。


 フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスの言葉である。因果的決定論とも呼ばれるが、量子力学の不確定性原理が台頭すると同時に廃れた考え方でもある。


 現実が自分の想像を超えて来る可能性。

 ライリーは、自分には想像も出来ない程の希望的観測を裏切られて来たのかも知れない。




「お袋が死ぬことも、オリビアが助けられないことも、俺は知ってたんだ。この世は因果律に縛られている」




 湊には、ライリーの気持ちが痛いくらいに解った。

 この世は残酷だ。最善を尽くしたからと言って最良の結果が得られるとは限らない。


 以前、湊が装置をラプラスと呼んだ時、彼は怒った。それは、この装置の予測を超える未来を願ったからだ。そして、彼が超心理学という未知の学問を選んだのは、その共感覚の為ではないだろうか。


 自分とライリーは、何が違うというのだろう?

 嘘だと解っても信じた自分と、決定した未来を裏切られることを祈ったライリー。どんな答えを聞いたって納得することは出来ない。


 知的好奇心の充足?

 自己承認欲求の暴走?

 それが罪だと言うのなら、正解を教えて欲しい。理解者の無い世界で、答えを求める自分達の行為が間違っているというならば、正誤なんてものに意味は無かった。




「救えないと解っていても、お前は手を伸ばすだろう? 裏切られると知っていても、信じるだろう? お前にとって当たり前のことが、俺には出来ないんだ」




 だって、知ってるんだ。

 ライリーの声は掠れていた。当然、其処に嘘なんてものは塵一つ存在しない。




「サンダルフォンは完成しないって言ったな。……解ってんだよ、そんなこと」




 ライリーは項垂れた。

 サンダルフォンとは、ライリーにとっては自分自身だったのだ。




「サンダルフォンは欠陥品だ。予測精度が上がる程、装置としての意義は無くなる」




 解っている。

 サンダルフォンの予測が正確である程、その未来の確定性は上がり、回避は困難になる。未然防止なんて不可能なのだ。


 犯罪予測装置としてのサンダルフォンは、歪で未完成で、故に完全な予測装置である。




「でも、もしかしたら、お前ならそれを上回って来るかも知れない。……そんな馬鹿な期待をした」




 なんて、愚かなんだろう。

 だけど、それこそが、それこそがライリーの人間性なのではないだろうか。


 湊は拳を握った。

 自分がやるべきことは、一つしかない。




「……さて、俺の話はこれでお終いだ。データの読み込みもあと僅か。機械に繋がれた時、お前の脳は何処まで抵抗出来るんだろうな」




 残りは15%くらいか。

 湊はディスプレイを睨んだ。


 徐々にパーセンテージが埋まって行く。まだ第一段階だ。サンダルフォンは自分の思考回路を解析する。その時、湊が投げ出した研究も結果を示すのだ。デメリットばかりじゃない。ただ、この遣り方は気に入らない。


 読み込み完了の文字が浮かぶ。

 背中を向けたライリーの顔は見えない。だが、笑ってなんていないということだけは解った。




「サンダルフォンに繋がれた脳は、お前に何を見せるんだろうな。お前の意識はどの程度、残るのかな」




 ライリーがエンターキーを叩く音が静かに響いた。

 途端、頭蓋に亀裂が入るかのような激しい頭痛に襲われた。歯の隙間から呻き声が漏れる。


 湊は拳を握り締めた。

 他人を操る超能力。自分は、他の人に比べて耐性がある。けれど、脈拍に合わせて顳顬が絞られるように痛み、全身から冷や汗が吹き出す。呼吸が苦しくなって、視界が不明瞭に霞んだ。


 身体の末端から切り刻まれるような、皮膚一面を余す所無く針で刺されるような、堪え難い激痛だった。

 四肢を拘束するベルトがぎしぎしと音を立てる。噛み締めた奥歯が砕けそうだった。


 この不快感と激痛は、サンダルフォンの作り出した幻影だ。自分が意思を手放すように精神へ働き掛けているのだ。


 銀色に霞む視界の奥で、ライリーが冷めた目で観察している。実験動物を眺める研究者の目だ。

 炎で炙られているかのような焦燥に支配され、湊は声を上げた。




「まだ、終わってない」




 負け惜しみと思ったのか、ライリーが嗤った。

 どう思われても構わなかった。未完成の数式で未来が決定されるなんて馬鹿なことがあるものか。




「何で、そんなに……」




 ライリーが嘆くように呟いた。

 独白に似た微かな声が、湊には小さな子供の泣き声に聞こえた。




「諦めちまえよ。どうせ、お前には何も出来ねぇ!」




 それは、統計データに基づいた予測なのか。

 湊は拳を握って、ただ痛みに堪え続けた。




「お前だって解ってんだろ? この世の事象は全て数式で証明されてーー」

「それは、俺も?」




 ライリーが息を呑むのが見えた。

 痛みが和らいで行って、猛烈な睡魔に襲われる。眠ったらお終いだと、本能で解った。




「ライリーには、俺も数式に見えるの?」




 喉に真綿でも詰まっているみたいに息苦しい。ハウリングのような高音が聞こえる。




「俺は、家族の嘘は見抜けないんだ。……きっと、家族を心の底から信じているからだと思う」




 どんな時も絶対に裏切らない、裏切れない存在。

 其処にいると自分は安心出来て、胸が温かくなって、生きていても良いんだと思える。家族を守る為なら何でも出来ると思った。


 脳を操る超能力と対峙した時、助けの望めない窮地の中、前も見えない暗闇の底、いつも頭の中に安全地帯を作る。それがある限り、自分は折れないでいられる。


 睡魔が少しずつ遠去かる。

 指先が痺れて、感覚が殆ど無かった。

 湊は喘ぐように言った。




「俺の能力は完全じゃないんだ。でも、その不完全さこそが、俺にとっては何よりも大切なんだよ」




 呼吸を落ち着けながら、湊はライリーを見た。


 理解出来ないだろうか。否、解る筈だ。ライリーが心の底からその数式を信じていたなら、自分を試そうなんて発想は浮かばなかった筈だ。効率を重視するならば、もっと手っ取り早い手段もあった。


 ライリーが本当に信じたものが何だったのか解る。




「お前の数式は不完全だ。俺には、それを証明する準備がある」

「負け惜しみを……!」




 負け惜しみかどうかは今に解る。

 湊は笑った。




「お前の予定調和をぶっ壊してやるよ」

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