⑸予定調和
航が警察車両に乗って大学病院に到着したのは、午後四時のことだった。意識が明瞭であることから救急搬送を断り、黒薙さんの肩を借りながら処置室へ入った。
右の大腿部を貫通した銃弾は、筋繊維を傷付けながらも骨には触れず、地面へと着弾したらしい。三針縫っただけで傷跡は残るが後遺症の心配は無く、二週間もすれば歩けるようになるそうだ。
マーティンに銃口を向けられた時、航は死を覚悟した。そして、自分の死が家族へ優しく伝わることを祈った。結果として自分は今も生きていられたけれど、葵君が間に合わなかった時、家族は、湊は何を思っただろう。
処置を終え、航が廊下へ出ると黒薙さんが待っていた。暇なのか御人好しなのか微妙なところだ。
松葉杖を突いて歩み寄ると、顔を上げた黒薙さんが言った。
「お前の知り合いの二人、状態が安定したそうだ」
ゾーイとホセのことだ。
航は安堵に崩れ落ちそうだった。撃たれた彼等を見た時、もう駄目だと思ったのだ。無事とは言えないかも知れないが、生きていてくれて良かった。
黒薙さんは吉報を知らせたとは思えない程の鉄面皮だった。年齢は父より少し上くらいだろうか。兎も角、早く兄に伝えてやらなければ。
「湊は?」
湊は真相を突き止める為に、内通者の元へ向かったのだ。デイビス氏の自供を伝えてから音信不通だ。リュウがいるからと安心していたけれど、無事なのか。
黒薙さんは少しだけ視線を彷徨わせた。
「……大学の研究室に、李瀏亮という男が倒れていた。お前の兄貴は、いなかった」
「は?」
思わず身を乗り出してしまい、松葉杖が倒れた。
リノリウムを打ち付ける音が虚しく響く。航は片足を引き摺りながら、彼の胸倉を掴んだ。
「どういうことだよ。湊は何処に行ったんだ」
「今、捜索している」
何だそれ。
湊の身に何か起きたとしか考えられない。リュウの存在は、もしもの時に備えた保険だった。まさか、リュウがやられたというのか?
「李瀏亮はまだ目を覚ましていないし、俺達も大っぴらに捜索することは出来ない。上層部から圧力が掛かっているからな」
「何で……!」
未成年者が誘拐されて、捜査を妨害するなんて非道的じゃないか。憤った航が怒鳴り付けようとした時、黒薙さんが言った。
「圧力を掛けてんのは、お前等の親父だ」
「親父が……?」
「お前の兄貴ーー湊の存在が公になるのは将来的な不利益になる。だから、探すなら少数精鋭で、時間勝負だと」
将来的な不都合とは何のことだ。
今、湊は生命を脅かされている。湊の安全以上に優先されることなんて一つも無い筈だ。
黒薙さんは覗き込むようにして視線を合わせ、もどかしい程、ゆっくりと言った。
「証言の出来る関係者はお前しかいない。だから、考えろ。犯人は誰だ。その目的は何だ。今、何処にいる?」
「そんなのーー!!」
航は額を押さえた。
港は大学の研究室へ行った。ライリーに会う為だった。彼の目的も計画も解らない。でも、湊は何かしらの答えを持っていたようだった。
ライリーが湊に危害を加える理由が無い。
だって、彼は湊の仲間だった。湊と同じように、信頼していたのだと。
研究者は純粋な生き物である。
不意に思い出されたそれは、ゾーイの言葉だった。
目先の結果に囚われて、人としての倫理を置き去りにすることがある。
湊にもその傾向があった。己の危険も顧みず、真理を手にする為に手段を選ばない。
ライリーの望んだものは何だ?
リュウは置き去りだった。つまり、目的は湊だったのだ。
以前、湊が言っていた。自分の能力を科学的に解明することで医療に応用しようとした時、想定し切れないリスクが存在したのだと。その為に研究は凍結し、やるべき事も無く、持て余したエネルギーを別なところへ向けたと。
その一つが、オリビアの手伝いと称したアンカー理論の補足である。
ライリーはアンカー理論を信じていた?
否、そんな情報は無かった。寧ろ、彼等はアンカー理論に否定的だった筈だ。
解らない。情報が少な過ぎる。
航は頭を抱えた。湊は自分のことを殆ど話さない秘密主義者だ。必要と判断したこと以外には口を噤む。思えば、自分はリュウを始めとした彼等の出自も何も知らないのだ。
「湊を攫ったのは、ライリーだ」
航が言うと、黒薙さんは首を捻った。
ライリーの存在は捜査線上に上がっていない。どちらにしても、彼の情報はFBIにも無いだろう。
黒薙さんは眉を顰めて、問い掛けた。
「ライリーって、ライリー・ホワイトか?」
航は顔を上げた。
黒薙さんは蛍光灯の光を遮り、表情には影が落ちて見えた。
「FBIじゃ有名なハッカーだぞ」
確かに、ライリーはコンピュータに精通していて、自分達の為に不正アクセスを繰り返していた。それを咎める権利は自分に無い。
不意に黒薙さんが懐へ手を伸ばした。
携帯が震えたらしい。そのまま通話を始める黒薙さんを他所に、航は考え続けていた。
そういえばーー。
ふと、航は思い出した。
湊が大学で脳科学の研究を始めたのは、自分に見えているものが何なのか知ろうとした為だった。嘘を見抜くという汎用性の高い能力を医療に応用することで、父の助けになりたかったのだと言った。
だが、その計画は頓挫した。
悪用された時のリスクが高かったからだ。そうして目標を見失った湊は、捌け口を探すように、好奇心のまま別の研究を始めた。
その一つが、人の感情に近い反応をする人工知能。
それから、乱数を生成して犯罪予測する機械。
どちらも実装目前で凍結したと聞いているが、今はどうなっているのかは解らない。
「……人工知能……」
彼等が作ろうとしたものは何だったのだろうか。
そもそも、どうして人工知能を?
もう一つ、気に掛かる。
湊が拉致されるようなヘマを踏むか?
そんなに人間らしい奴だったか?
何が起きてる?
「航」
名前を呼ばれ、深い思考の渦から引き上げられる。
航が顔を上げると、黒薙さんが此方を見ていた。
「李瀏亮が搬送されて来る」
「……解った」
自問自答に未来は無い。
リュウに尋ねた方が早いし確実だろう。
航は松葉杖を持ち直し、黒薙さんの後を追って歩き出した。
14.観測者
⑸予定調和
大学病院の一室に運び込まれた時、リュウは目を覚ましていて、航の姿を認めると申し訳無さそうに目を伏せた。普段の仏頂面は何処へ行ったのか、何時に無くしおらしい態度だった。勿論、彼を責めるつもりは毛頭無かった。
大学の研究室に仕組まれていたのは放電装置だったらしい。天井の放電装置から床へ電流が流れ、丁度、落雷と同じ原理で対象に対して損傷を与える。
電流の強度が調整されていたことから人体に然程影響は無く、後遺症も残らないそうだ。ショックを受けた際に昏倒し、その間に湊とライリーは消えてしまった。
ベッドの上で身を起こしたリュウが、頭を下げた。
「僕の責任です」
航はその肩を掴み、首を振った。
「湊が決めたことは、湊の責任だ」
誰のせいでもない。
航が言うと、リュウは力無く笑った。
病室には航とリュウ、黒薙さんの三人きりだった。扉の外には警官が二人立っており、医療関係者もいない。カーテンの締められた室内は殆ど無音に近く、時の流れがとてもゆっくりと感じられた。
刻一刻を争う状況である筈なのに、不思議だった。
焦りを感じないのだ。誰もが満身創痍なのに、航はリュウの瞬き一つすら観察する余裕があった。
ベッドの横のパイプ椅子に座っていた航は、身を乗り出した。金具が窮屈な音を立てる。関節が鳴る音に似ている。
「ライリーの目的は何なんだ? どうして湊を?」
ベッドの上、リュウが拳を握る。
伏せられた睫毛の奥、黒い瞳孔が収縮する。平静を保つように深く呼吸し、リュウは口を開いた。
「去年の夏、僕等は人工知能を作っていました。人間に近い感情を持ち、統計データから乱数を生成して犯罪予測をする装置です。僕等は、ーーサンダルフォンと呼んでいました」
その言葉で、無数に散らばっていた点と点が星座のように繋がった。サンダルフォンとは、ユダヤ教の双子の天使の名前だった。
どうしてそんなものを作ったのかなんてことは、どうでも良いことだ。彼等にはそれを作り上げる力があった。その頃の湊は自分の目標を見失い、エネルギーを持て余していたのだ。捌け口を求めて好奇心のまま行動を起こしたのだろう。
「犯罪予測って、どのくらいの精度なんだ?」
「解りません。完成目前で凍結してしまいましたから。でも、統計データと湊の能力を元に作ったので、或る程度は信頼出来ると思います」
黒薙さんは口を歪めた。
統計データから犯罪予測をするというのならば、大した脅威ではないだろう。懸念されるのはただ一点。湊の能力の精度である。何しろ、他人の嘘という一点に於いて湊の能力は百発百中なのだ。
思えば、湊は自分の能力の可視化について研究していた。医療分野での活用が難しいと解れば、司法での応用を視野に入れるのは当然の流れだった。
「精度を上げる為には膨大なデータが必要です。ライリーはFBIのデータベースにハッキングを掛けたこともあったので、後は、実証研究をするだけでした」
リュウは気付いているのか解らないが、とんでもないことを口にしている。これは犯罪の自供だ。
黒薙さんは苦い顔で問い掛けた。
「実証研究とは何のことだ?」
「先程も言いましたが、僕等は研究を途中で辞めてしまったので、具体的には何も決まっていませんでした。……でも、あのまま計画が進んでいたなら、僕等は未解決事件の容疑者にアプローチをしていたのかも知れませんね」
湊の能力の精度を確かめる為に。
ライリーの犯罪行為について航には咎める権利は無い。自分達はその情報に助けられて来たのだ。また、彼の実験について善悪を見定めることも難しかった。
ライリーが直接手を下した訳ではない。彼は純粋な好奇心から行動を起こした。ハッキングや湊とリュウに対する暴行については司法によって裁くことが出来るかも知れない。
ライリーは未完成の装置で犯罪を予測していながら、湊の能力の精度を確かめる為に看過した。航にはそれがどれだけの罪なのか解らない。問題はただ一つ。其処に湊の意思があるのか否かということだ。
「どうして完成間際で投げ出したんだ?」
「理由は二つ。サンダルフォンには作り物とは言え、感情があった。外部刺激によって操作し、数値で管理出来たんです。仲間の一人が、それは洗脳と同義だと言いました」
「……」
「それから、湊の能力の精度は他人に限り100%の確率で嘘を見抜けた。それを組み込んだあの装置は、使用者によって信頼率が低下するにも関わらず、必ず嘘を見抜く。悪用のリスクを考えると、実装する訳にはいかなかった」
使用者が任意の相手の嘘を見抜き、まだ起きていない犯罪をでっち上げることも可能と言う訳だ。
つまり、彼等は作ろうとしたのは機械仕掛けの湊だったのだ。人工皮膚まで持ち出して人間そっくりの装置にしようとしていたこともあったらしいし、マッドサイエンティストじゃないか。悪趣味にも程がある。
「もしもあの装置が完成し、その有用性が証明されたら、犯罪は未然に防ぐことが出来るかも知れません」
「冤罪の可能性は?」
「湊の能力が百発百中である以上、有り得ないでしょう」
「……でも」
航は言った。
「でも、それは人の未来を奪ってしまう」
リュウは頷いた。
起こってしまった犯罪には有用なのかも知れない。けれど、彼等は未然防止の為に開発していた。まだ起きていない犯罪を罰することは難しい。
まだ起きていない事件の犯人に対して、出来ることは殆ど無い。その装置に人を裁く機能は無いのだ。しかも、情状酌量の余地が無い。
しかも、湊の能力は他人に限る。家族の嘘は見抜けないし、悪意の無い殺意や、本人の自覚の無い嘘も解らない。悪用のリスクしか無いじゃないか。
「湊も同じことを言っていました。人の更生の可能性を奪うことになると」
「その装置は何処にあるんだ」
黒薙さんが問い掛ける。リュウは困ったように眉を下げた。
「装置そのものはまだ出来ていなかったのですが、サンダルフォンのデータは研究室にある筈です」
「今も研究室にあるとは考え難いな」
航は背凭れに体を預け、溜息を吐いた。
データだけならば持ち運びも容易に出来るのだろう。
装置として実装した時、どのくらいのサイズになるのだろうか。航には見当も付かなかった。
唸りながら顔を上げると、怪訝そうなリュウと目が合った。
「焦りがありませんね」
「……ああ」
自分でも不思議なのだ。
SLCに湊が誘拐された時には、この世の終わりがやって来たかのように動揺していた自覚がある。だが、今は違う。
「湊が誘拐されるようなヘマを、何度もするとは思えないんだよな」
これは兄に対する信頼なのか、日頃の行いなのか。
航は松葉杖を手に立ち上がった。窓の外には夜の闇が迫っている。春休みの最終日が終わろうとしている。
リュウが言った。
「ライリーはサンダルフォンを完成させたいのでしょう。でも、湊は永遠に完成しないと言いました」
歴史を鑑みると当然の帰結だが、過去に出来なかったからと言って未来を投げ出すのは意味が無い。
「サンダルフォンを完成させるには湊が必要です。だから、ライリーは湊を連れ去った」
何か変だな。
航は唸った。この違和感を言葉で表現するのは難しい。ライリーがどういう人間なのかよく解らなくなってしまっていた。
冷酷非道な科学者ならば、もっと酷い手段もあったのではないだろうか。むしろ、この結論に導かれたような意図さえ感じる。
何だろう、この違和感。
湊がむざむざと連れ去られたことも、ライリーの無機質な動機も、まるで虚構のようだ。
「黒薙さん、車を出してくれよ」
「……何処に行くんだ」
「俺は湊が何処にいるのか解る気がするんだ」
黒薙さんは納得行かないような顔で腕を組んだ。
論理的な答えは存在しない。こういう時、湊なら適当な理屈を並べるのだろうけれど、航には無理な芸当だ。
「時々、あるんだよ。胸騒ぎがしたと思ったら事件に巻き込まれていたり、向こうが怪我した場所に蚯蚓腫れが出来たり、何も聞いてないのに何処にいるのか解ったり」
「双子のシンクロ現象ですね」
リュウが興味深そうに頷いた。
自分は科学者ではないので、呼称は何でも良い。今、自分は動けない。だから、連れて行って貰わなければ困る。
「俺は他人の嘘は解らねぇが、湊の嘘なら解るんだよ」
駄目押しのつもりで言うと、黒薙さんが頭を掻いた。
納得出来ないのだろう。逆の立場だったなら、自分も同じ反応をしたかも知れない。
「何を企んでるのか知らねぇが、保護者の同意無く未成年者を連れ回せねぇ」
「親父の許可が必要なら、さっさと電話でも何でもしてくれよ」
開き直って言うと、黒薙さんが溜息を吐いた。
生意気な小僧とでも思われたかも知れないが、この際、どうでも良い。一年前の夏、自分は湊の助けを求める声に気付けなかった。でも、今度は違う。
「湊が待ってる」
黒薙さんは一つ舌打ちをした。
「……怪我が悪化しても俺のせいじゃねぇからな」
そう言って、ポケットへ手を伸ばした。